第9話 守られた戦場
アレク様たちが出ていってから、三時間が過ぎた。
私は修道院の最上階にあるバルコニーに立ち、北の森をじっと見つめていた。
空は低く垂れ込め、遠くで時折、雷鳴とは違う地響きが聞こえる。
それは、剣と魔法が激突する戦いの音だった。
「神様……どうか、皆さんをお守りください」
私は胸の前で両手を組み、祈った。
王都にいた頃も、こうして祈ることはあった。
けれど、あの頃の祈りはどこか虚空を彷徨うような、頼りないものだった。
今は違う。
指先に、あの執務室で感じた「熱」がまだ残っている。
祈るたびに、その熱が体の奥から溢れ出し、風に乗って北の森へと吸い込まれていくような気がした。
【ナレーション】
(聖マルグリット修道院から北の森までは、直線距離で約五キロメートル。通常、個人の魔力が届く範囲はせいぜい数百メートルであるが、地形や信仰心によってその伝導効率は稀に変質する)
「……あ。音が止まった?」
不意に、遠くの地鳴りが止んだ。
森を覆っていた黒い霧が、陽光に焼かれるように急速に薄れていく。
私は居ても立ってもいられず、バルコニーを駆け下りた。
階段を飛ばすようにして、修道院の正門へと向かう。
門の前には、既に院長のマルタ様が立っていた。
彼女は驚くほど落ち着いた様子で、街道の先を見つめている。
「リリア様、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。彼らの足音が聞こえます」
「足音……? まだ何も見えませんが……」
私が耳を澄ますと、数分後。
地平線の向こうから、砂埃を上げて走ってくる騎馬の群れが見えた。
先頭に立つのは、間違いなくアレク様だ。
彼の黒いマントが風を切り、その後ろに続く騎士たちの鎧が夕日に輝いている。
「……信じられない」
私は思わず息を呑んだ。
大規模な討伐任務だったはずだ。
なのに、戻ってきた彼らには、悲壮感も疲労も微塵もなかった。
「ただいま戻った!」
アレク様が門の前で馬を止めた。
彼は軽やかに馬から飛び降りると、私の前で兜を脱いだ。
汗はかいている。
けれど、その表情は驚くほど晴れやかで、瞳には生命力が漲っていた。
「アレク様、お怪我は!? 他の皆さんは……」
「見ての通りだ。かすり傷一つ負っていない。……いや、信じられんほど一方的な勝利だった」
アレク様の後ろで、カイルさんたちも馬を降りる。
彼らは興奮した様子で、お互いの肩を叩き合っていた。
「団長、今日の俺たち、凄すぎませんでしたか?」
「ああ。剣が重いと感じる瞬間が一度もなかった。まるで、風が背中を押してくれているみたいで」
「魔物の方も変だったぞ。俺たちと目が合った瞬間、怯えて動きが止まるんだ。あんなに戦いやすい現場は初めてだ」
騎士たちの言葉を聞きながら、私は呆然としていた。
魔物が怯える?
風が背中を押す?
まるで、お伽話のような話だ。
「リリア、お前のおかげだ」
アレク様が私の肩に手を置いた。
ずっしりとした重みと、心地よい熱。
「私……? 私は、ここで祈っていただけです。何もしていません」
「お前はそう言うだろう。だが、前線で戦っていた俺には分かった」
アレク様は声を低め、私にだけ聞こえるように囁いた。
「森に入った瞬間、喉を焼くような障気が消えたんだ。代わりに、お前と一緒にいる時と同じ『清浄な空気』が戦場を満たした。……お前の祈りが、俺たちを包んでいたんだ」
「そんな……。私に、そんな力があるはずが……」
否定しようとした私の言葉を、アレク様の力強い瞳が遮った。
彼は嘘を言っているようには見えなかった。
というより、彼自身もその奇跡に驚き、同時に深く感謝しているのが伝わってきた。
私は自分の手を見つめた。
ただ、皆の無事を願った。
傷ついてほしくないと、強く思った。
それだけで、五キロも先の戦場を変えることができるなんて。
「リリア様」
横から、マルタ様が静かに声をかけた。
彼女の観察眼に満ちた瞳が、私を優しく見守っている。
「あなたはまだ、ご自分の価値を信じられないようですね。ですが、事実は隠せません」
「マルタ様……」
「あなたは、ただそこにいるだけで『場を整える』人なのです。荒れた土壌を耕し、種が芽吹くのを助ける。それは、誰にでもできることではありません」
場を、整える。
その言葉が、私の心に深く沈み込んだ。
派手な攻撃魔法が使えるわけではない。
傷を一瞬で塞ぐ奇跡が使えるわけでもない。
けれど、皆が持てる力を出し切れるように、空気を清らかに保つこと。
それが、私の役割だというのだろうか。
【ナレーション】
(支援型加護の極致。それは対象を強化するのではなく、世界そのものを対象にとって都合の良い形へ再定義する力である。リリアの無意識の干渉は、因果律さえも味方につけ始めていた)
「……もし、本当にそうなら。私がここにいることに、意味があるなら」
私は小さく呟いた。
王都では、結果だけが全てだった。
数値に出ないもの、目に見えない貢献は「無能」の一言で切り捨てられた。
でも、この場所では。
この人たちは、目に見えない私の「祈り」を、確かに受け取ってくれている。
「……。そうだ、リリア」
アレク様が思い出したように、懐から一通の書状を取り出した。
先ほどの喜びが、一瞬で消え去るような冷徹な色が彼の目に宿る。
「王都からの使者が、明日の朝にはここに到着する。……公爵家の紋章を掲げた、正規の調査団だ」
心臓が冷たく凍りついた。
せっかく見つけかけた「自分の居場所」。
それが、再び王都の論理によって奪われようとしている。
「リリア。お前がここにいたいと願うなら、俺は全力で応える。……だが、お前自身にも、その意思を示してもらう必要がある」
アレク様の言葉は、重く、切実だった。
守られるだけの雛でいるのか。
それとも、自分の価値を認め、ここに残るために戦うのか。
私は、北の森を見つめた。
そこにはもう、魔物の気配はない。
澄み渡った夕闇が、静かに世界を包んでいる。
「……はい。私は、逃げません」
私はアレク様の目を、真っ直ぐに見つめ返した。
もう、無能だと俯いていた昨日の私ではない。
ここで必要とされている自分を、私は信じてみたくなったのだ。
「いい返事だ」
アレク様は満足げに頷くと、私の背を支えるようにして修道院の中へと促した。
明日の朝。
王都の使者が持ってくるのは、私への絶縁状か、それともさらなる地獄への招待状か。
どちらにせよ、今の私には帰るべき場所と、守るべき熱がある。
その確信だけが、暗くなり始めた廊下を明るく照らしているように感じられた。




