第8話 指先から伝わるもの
食堂の片付けを終えた私は、慣れない手つきで書類の束を抱えていた。
専属助手としての最初の仕事は、アレク様の執務室の整理だ。
「失礼いたします、アレク様」
声をかけて入った部屋は、意外なほど整然としていた。
けれど、空気はどこか重い。
机の上には山積みの報告書。
この地の平穏を守るために、彼がどれほどの重荷を背負っているかが一目で分かった。
「……リリアか。そこに置いておけ」
アレク様は机に向かったまま、ペンを動かす手を止めなかった。
昨夜あんなに熱く語りかけてくれた人と同じだとは、にわかには信じられないほど、今の彼は険しい表情をしていた。
私は指示された棚に書類を並べながら、こっそりと彼の横顔を伺った。
(……あれ?)
気づいたことがあった。
彼から感じる圧迫感が、昨日までとは違っていた。
【ナレーション】
(高位の騎士は、無意識に周囲へ威圧感を放つ。特に魔力が不安定な状態では、その波動は周囲の人間に不快感や恐怖を与える『魔圧』となって漏れ出すことがある)
王都にいた頃、父様やエドワード殿下の側にいると、いつも胸が苦しかった。
冷たい氷の棘が肌を刺すような、あの感覚。
それが、今の彼からは一切感じられない。
むしろ、彼の周りの空気だけが、春の陽だまりのように澄んでいる。
顔色もいい。
深く刻まれていた眉間の皺が、心なしか浅くなっているように見えた。
「アレク様、少し休憩されませんか? お茶を淹れてまいります」
「……。いや、まだ終わらん。王都への報告書を書き上げねばならない」
アレク様は頑なだった。
けれど、その声には隠しきれない疲労が混じっている。
ペンを持つ指が、僅かに震えていた。
私は掃除を続けるふりをしながら、彼がペンを置くのを待った。
数分後。
さらさらという音が止まり、静寂が部屋を包んだ。
恐る恐る振り返ると、アレク様は椅子の背もたれに体を預け、目を閉じていた。
「アレク様?」
返事はない。
規則正しい寝息が聞こえてくる。
あんなに強情だったのに、座ったまま眠ってしまうなんて。
私は足音を忍ばせて、彼の側に近寄った。
間近で見る彼の寝顔は、驚くほど無防備だった。
鋭い眼差しが隠されると、実年齢よりも少し若く見える。
そして、やはり以前よりもずっと、穏やかな顔をしていた。
「……本当にお疲れなのね」
私は脱ぎ捨てられていた彼のマントを拾い上げた。
肩にかけてあげようと、そっと手を伸ばす。
その時。
私の指先が、彼の肩に触れた。
「っ……!」
心臓が跳ねた。
静電気のような、けれどそれよりもずっと温かくて、柔らかな衝撃。
私の指先から彼の中へと、何かが吸い込まれていくような感覚。
それと同時に、私自身の体の中を、熱いお湯が流れるような心地よさが駆け巡った。
(何、これ……?)
視界が一瞬、真っ白に輝いた気がした。
触れている場所から、濁りのない澄んだ力が溢れ出している。
それは私の指を伝い、彼の体全体を包み込んでいくようだった。
アレク様の表情が、さらに深く弛緩する。
苦しげだった呼吸が、赤ん坊のように穏やかなものへと変わった。
私は動けなかった。
手を離さなきゃいけないのに、この温かさが心地よくて、ずっと触れていたいと思ってしまう。
けれど。
「――団長! 緊急事態です!」
扉が乱暴に開かれた。
カイルさんが血相を変えて飛び込んでくる。
私は飛び退くようにしてアレク様から離れた。
顔が火を噴くように熱い。
「何事だ」
アレク様は瞬時に覚醒していた。
寝ぼけた様子など微塵もない。
鋭い獣のような目でカイルさんを捉える。
「北の森、例の沼地付近で大規模な魔力暴発が確認されました! 魔物の群れが街道に向かって移動を開始しています!」
「……チッ。思ったより早かったな。特使が来る前に片付けるつもりだったが」
アレク様は即座に立ち上がり、長剣を手に取った。
その動きには、一点の淀みもなかった。
それどころか、眠る前よりも明らかに力強く、全身から漲るような精気が溢れている。
「リリア。俺は出る」
アレク様が私を見た。
その瞳は、先ほどの温かさを思い起こさせるほど、真っ直ぐに私を射抜いた。
「……はい。どうか、お気をつけて」
「ああ。お前がここで待っていると思えば、不覚は取らん。……行ってくる」
彼は翻したマントを風になびかせ、執務室を駆け抜けていった。
一人残された部屋で、私は自分の右手を見つめた。
まだ、指先にじんじんとした熱が残っている。
(気のせいじゃない。今の、一体なんだったの……?)
偶然。
ただの偶然だと思い込もうとした。
けれど、彼に触れたあの瞬間の確かな手応えが、私の胸の中で激しく波打っている。
【ナレーション】
(支援型加護の真髄。それは接触によってその効果を数十倍へと増幅させる。リリアが無自覚に流した魔力は、アレクの枯渇しかけていた魔力核を一瞬で満たしていた)
私は窓に駆け寄り、駐屯地の入り口を見た。
アレク様を先頭に、騎士団が次々と馬で駆け出していく。
彼らの背中を見送りながら、私は祈らずにいられなかった。
どうか、誰も傷つかないで。
私のこの「正体の分からない熱」が、彼らを守る盾になってほしい。
空はどんよりと曇り始め、遠くで雷鳴が轟いた。
嵐が来る。
それは天候のことだけではないのだと、私は本能的に察していた。
「……私にできることを、しなきゃ」
私は、震える手を強く握りしめた。
じっとしてはいられない。
彼らが帰ってきたとき、最高に温かい場所で迎えられるように。
私は厨房へと走り出した。
不安を振り払うように、今自分にできることだけを必死に考えながら。




