第7話 慈悲か、必要か
昨夜の、あの熱を帯びたアレク様の声を思い出す。
それだけで、頬が火照るのを感じた。
「……落ち着かなきゃ」
私は冷たい水で顔を洗った。
鏡に映る自分の顔は、王都にいた頃よりも少しだけ、目に力が戻っている気がする。
けれど、不安は消えない。
アレク様が言った「守り神」という言葉。
それは、彼が優しい人だから出た言葉ではないのだろうか。
名門公爵家を追放され、婚約も破棄された無能な令嬢。
そんな私を放り出せば、良心が痛む。
だから、あんなに強い言葉で引き留めてくれたのではないか。
(同情で人生を狂わせてほしくない……)
もしそうだとしたら、いつか彼にとって私は重荷になる。
そんな未来だけは、耐えられなかった。
私は身支度を整え、院長室へと向かった。
そこには、既にアレク様とマルタ様が座っていた。
「おはようございます、リリア様。よく眠れましたか?」
マルタ様が優しく微笑む。
その隣で、アレク様は厳しい表情のまま私を凝視した。
「……座れ。王都の使者が来る前に、お前の処遇を確定させる」
アレク様の声は、昨夜の甘さは消え、一人の指揮官としての冷徹さを帯びていた。
私は背筋を伸ばし、彼の正面に座った。
「結論から言う。リリア、お前を騎士団の専属助手として雇用する。これは私的な同情ではなく、騎士団としての正式な要請だ」
「雇用、ですか……?」
聞き慣れない言葉に、私は首を傾げた。
公爵令嬢として生きてきた私にとって、仕事をして対価を得るという発想はなかった。
「そうだ。お前がここにいることで、騎士の生存率が劇的に上がっている。これは戦力の一部として数えるに値する」
アレク様は机の上に、一枚の書類を置いた。
そこには、騎士団の規約に基づいた契約書のようなものが記されている。
「リリア様。アレク団長は本気ですよ」
マルタ様が穏やかに口を開いた。
「彼は一晩中、あなたがここに残るための正当な理由を探していました。王都からの横槍を跳ね除けるには、『ただの居候』ではなく『不可欠な職員』である必要があるのです」
「不可欠な、職員……」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
彼は私のために、そこまで考えてくれていた。
同情かもしれない。
けれど、その同情がこれほどまでに重く、必死なものだとは思わなかった。
「……一つ、伺ってもよろしいですか?」
私は震える声で尋ねた。
「もし、使者が来て私の『無能』が再確認されたら。あるいは、私の存在が何の影響も与えていないことが判明したら。その時は……」
「そんな仮定に意味はない」
アレク様が言葉を遮った。
「俺は結果を見ている。お前がいる戦場では、部下が死なない。それが全てだ。お前が無能だろうが何だろうが、俺が必要だと言えば、お前は必要なんだ」
有無を言わせぬ口調。
その瞳にあるのは、やはり揺るぎない確信だった。
「……分かりました。お受けします。ですが、条件があります」
「言ってみろ」
「私は、ただ守られるだけの存在にはなりたくありません。騎士団の皆さんのために、自分にできることは全てやらせてください。食事の準備、洗濯、修道院での雑務……。仕事として、私を扱ってください」
それが、私のせめてものプライドだった。
役立たずの令嬢としてではなく、自分の力でここにいたい。
アレク様はしばらく私を見つめていた。
それから、ふっと鼻で笑った。
「いいだろう。ここの騎士どもは食い意地が張っている。お前の仕事は山ほどあるぞ」
その笑みを見て、私の肩の力がふっと抜けた。
初めて、対等な関係として認められた気がした。
【ナレーション】
(騎士団専属助手。その職種は王国騎士団の歴史上、一度も存在したことはない。アレク・グラントは、リリアを匿うために新たな役職を新設したのである)
私はすぐに厨房へと向かった。
契約は、行動で示さなければならない。
朝の厨房は活気に溢れていた。
私はエプロンを締め、大鍋の前に立った。
昨日のジャガイモの皮剥きの続きではない。
今日は、騎士たちの栄養を考えたスープを作るのだ。
「お、リリアさん! 今日も手伝ってくれるんですか?」
カイルさんが食堂に顔を出した。
彼の顔色は、昨日よりもさらに良くなっている。
「今日から、こちらで働くことになりました。カイルさん、何か食べたいものはありますか?」
「えっ、本当に!? やったぁ! 団長、グッジョブだな!」
カイルさんは拳を突き上げて喜んだ。
周りにいた他の騎士たちも、一斉にこちらを振り返る。
「リリアさんの飯が食えるのか?」
「やったな、これで今日も戦えるぞ」
「……何だか、あの方が厨房にいるだけで、お腹の虫が大人しくなる気がするな」
騎士たちの笑い声が、食堂に響く。
王都では、私の周りにはいつも静寂しかなかった。
冷たい、拒絶の静寂。
けれどここには、温かい騒がしさがある。
私は野菜を切りながら、知らず知らずのうちに微笑んでいた。
包丁を握る手が軽い。
まるで、私の意志が野菜に伝わり、皆を元気にする魔法に変わっていくような感覚。
(偶然でも、いい。今はただ、この人たちの笑顔を守りたい)
そう思った時だった。
「……リリア」
背後から声をかけられ、振り返る。
そこには、いつの間にかアレク様が立っていた。
部下たちの前で見せる厳格な顔ではなく、どこか脆さを孕んだような瞳。
「アレク様? どうかなさいましたか?」
「……いや。お前がそこにいるのを見て、少し安心しただけだ」
彼は周囲の騎士たちに聞こえないような低い声で囁いた。
「昨夜、お前が消えてしまうのではないかと、何度も目が覚めた」
「え……?」
意外な告白に、心臓が大きく鳴った。
あの強靭なアレク様が、不安で眠れなかったというのか。
「お前は自覚がないだろうが……。お前がいない世界は、俺にとって暗闇と同じだ」
アレク様は、私の手元にある野菜の屑を、不器用に指先で払った。
その指が、一瞬だけ私の手に触れる。
熱い。
火傷しそうなほど、彼の想いが伝わってくる。
「……私は、どこにも行きません。ここで、お食事を作って待っています」
私の言葉に、アレク様は深く息を吐き出した。
まるで、長い間止めていた呼吸を再開したかのように。
「ああ。頼む」
彼はそれだけ言うと、今度こそ戦場へと向かう騎士のような厳しい顔に戻り、厨房を後にした。
私はしばらく、自分の手を見つめていた。
アレク様の熱が、まだ残っている。
彼が私を必要としている理由は、まだ完全には信じられない。
けれど、彼が私を離したくないと思っていることだけは、真実なのだと感じられた。
窓の外には、遠く王都へと続く街道が見える。
そこから、砂埃が舞い上がっているのが見えた。
特使の到着は、もうすぐそこまで迫っている。
私は包丁を強く握り直した。
もう、逃げない。
この場所を、この熱を、守るために。




