第6話 消えない呪い
月明かりが、手元の紙片を白く照らしている。
何度も読み返した父からの手紙。
そこには、私の心を引き裂くのに十分な言葉が並んでいた。
『無能の烙印を押された者が、辺境の地で遊んでいるなど許されぬ。王都ではアルフェン公爵家の名が笑い草となっている。貴様のせいで、義妹の聖女としての名声にまで傷がついた』
「……笑い草」
喉の奥が熱くなる。
視界が滲んで、文字が歪んだ。
王都での私は、ただの失敗作だった。
美しい義妹を引き立てるための、色褪せた背景。
「不明」という鑑定結果が出たあの日、周囲の貴族たちが浮かべた嘲笑の表情が、まぶたの裏に焼き付いている。
【ナレーション】
(アルフェン公爵家。代々強力な魔導師を輩出してきた名門であり、その直系が『無能』であることは、社交界における最大の醜聞として扱われていた)
私は手紙を握りしめた。
アレク様は「お前が必要だ」と言ってくれた。
騎士団の皆さんも、私を温かく迎えてくれた。
けれど、それは私が「公爵家の厄介者」であることを知らないからだ。
もし私が王都へ連れ戻されれば、アレク様まで「無能を匿った変わり者」として笑われてしまう。
(迷惑をかけたくない。これ以上、誰の足手まといにもなりたくない)
私は部屋を抜け出し、夜の中庭へと向かった。
冷たい夜風が、火照った頬を撫でる。
石造りのベンチに腰を下ろすと、遠くで騎士団の駐屯地の灯りが見えた。
あそこには、私の居場所なんて最初からなかったのだ。
ただの勘違い。
ただの、束の間の夢。
「……こんな時間に、何をしている」
低く、落ち着いた声。
振り返らなくても分かった。
アレク様だ。
彼は音もなく近づき、私の隣に立った。
軍服の上から黒いマントを羽織っている。
その隙間から覗く銀色の剣帯が、月の光を反射して鋭く光った。
「アレク様……」
「顔色が悪いな。その手紙のせいか」
アレク様は私の手元にある、しわくちゃになった手紙に視線を落とした。
私は慌ててそれを背後に隠す。
「なんでもありません。ただ……少し考え事をしていただけです」
「嘘をつくな。お前は、ここから去ることを考えているだろう」
心臓が跳ねた。
見透かされている。
彼の瞳は、暗闇の中でも私の心の奥底を暴くように光っていた。
「……その方がいいんです。私は王都で『稀代の無能』と呼ばれていました。私がここにいれば、騎士団の名誉を汚してしまいます」
私は一気に捲し立てた。
言葉にすればするほど、胸が締め付けられる。
「アレク様は、私の本当の姿を知らないだけです。鑑定の結果は絶対なんです。私は何も持っていない。何もできない、ただの……」
「黙れ」
短い、けれど拒絶を許さない命令だった。
私は息を呑み、言葉を失う。
アレク様は一歩、私との距離を詰めた。
彼の大きな手が私の肩を掴み、無理やり彼の方を向かせる。
「王都の連中が何を言おうと知ったことか。鑑定盤という機械が下した評価に、何の意味がある」
「でも、事実は……」
「事実なら、俺の体が知っている」
アレク様は私の手を掴み、自分の胸元へと押し当てた。
厚い軍服越しに、力強い鼓動が伝わってくる。
ドクン、ドクンと、規則正しく刻まれる命の音。
「お前がここに来てから、俺の魔力の乱れは消えた。部下たちの傷の治りも早まり、森の障気すらお前を避けている」
「それは……偶然です」
「十回起これば、それは必然だ」
アレク様の顔が近づく。
彼の瞳には、同情など微塵もなかった。
そこにあるのは、一人の女性に対する、剥き出しの執着と確信だ。
「リリア。俺は、お前を無能だと思ったことは一度もない」
「……っ」
「お前は俺たちの『守り神』だ。王都の連中が今さら何を言おうと、渡すつもりはない」
その言葉は、私の心を縛っていた呪いを、内側から溶かしていくようだった。
ずっと欲しかった言葉。
誰かに言ってほしかった、存在の肯定。
けれど、私の指先はまだ震えていた。
怖かった。
信じて、また裏切られるのが。
「私は……公爵家の命令には逆らえません。特使が来れば、連れて行かれてしまいます」
「ならば、俺が追い返す。必要なら、王都と一戦交えても構わん」
「そんな! 騎士団の皆さんにまで迷惑が……」
「迷惑だなどと、二度と口にするな」
アレク様の手が肩から離れ、私の頬を包み込んだ。
不器用で、少し硬い指先。
けれど、その熱は驚くほど優しかった。
「お前を失うこと以上に、大きな損失などこの地にはない」
彼は私の目を逸らさせない。
その強い意志に当てられて、私の心の中にあった「諦め」が、少しずつ形を変えていく。
「……本当に、いいのですか? 私のような、何も持たない女がここにいても」
「何も持たないだと? お前は、俺に安らぎを与えた。それだけで十分すぎる価値がある」
アレク様は、私の手を握ったまま離さなかった。
その力強さに、私は生まれて初めて、自分という存在が地に足をつけている感覚を覚えた。
【ナレーション】
(アレク・グラントは、既に覚悟を決めていた。王都からの特使を迎え撃つための準備を。そして、リリアという『奇跡』を誰の手にも渡さないための、独占欲を)
「……分かりました。私は、まだここにいたいです」
絞り出すような私の言葉に、アレク様は初めて、僅かに口角を上げた。
それは微笑みと呼ぶにはあまりに硬いものだったけれど、私の目には、どんな宝石よりも美しく見えた。
「それでいい。明日の朝も、演習場に来い。いいな」
「はい。……アレク様」
「なんだ」
「……ありがとうございます」
私が頭を下げると、彼は無言で私の頭を一度だけ撫で、暗闇の中へと去っていった。
手元に残った父の手紙。
それはもう、私を縛る鎖ではなく、ただの汚れた紙切れにしか見えなかった。
けれど、王都からの使者は、確実に近づいている。
私が手に入れたこの小さな幸せを、守り抜くことができるのだろうか。
夜空を見上げると、一筋の流れ星が北の森へと消えていった。
明日は、今日よりももっと、強くならなければならない。
私は握りしめた拳に、自分でも驚くほどの力を込めていた。




