第5話 戦場の奇跡
馬の蹄が激しく地を叩く。
私はアレク様の背中にしがみつき、必死に目を閉じていた。
「目を開けろ、リリア。逃げるな」
前方から、アレク様の鋭い声が飛ぶ。
私は恐る恐る目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、街道を塞ぐ巨大な魔物の姿だった。
黒い霧のようなものを纏った、巨大な狼。
王都の図鑑で見たことがある。
複数の騎士がかりでなければ倒せない、危険な魔物だ。
「……っ」
私は恐怖で息が止まりそうになった。
けれど、アレク様の手は緩まない。
彼は私を抱え上げるようにして馬から降ろすと、街道脇の大きな岩の陰に私を立たせた。
「ここで見ていろ。俺が離れるまでは、ここから一歩も動くな」
「アレク様、でも……!」
「信じろと言ったはずだ」
彼は短くそう告げると、銀色に輝く長剣を抜いた。
そのまま、迷いのない足取りで魔物の群れへと突き進んでいく。
【ナレーション】
(魔物討伐において、最も警戒すべきは魔物が放つ『障気』である。これは人間の精神を蝕み、魔力回路を狂わせる。通常、騎士団は交代で休息を取りながら、長期戦を覚悟して挑むものである)
けれど、目の前で起きている光景は、私の知る「戦闘」とはかけ離れていた。
「はあああああ!」
カイルさんたちの叫び声が聞こえる。
彼らの剣が振るわれるたび、魔物を包む黒い霧が、まるで光に焼かれるように消えていく。
騎士たちの動きは、素人目に見ても異常だった。
重い鎧を身につけているはずなのに、その跳躍は高く、鋭い。
連携に一切の乱れがなく、魔物が反撃の隙を見せる前に、次々とその巨体が地に沈んでいく。
そして、アレク様。
彼の剣が閃くたび、空気が清浄になっていくような錯覚を覚えた。
彼が纏う魔力は、今まで見たどんな魔術師よりも澄んでいて、力強い。
「……すごい」
私は呆然と立ち尽くしていた。
戦いは、わずか数分で終わった。
街道を埋め尽くしていた魔物の群れは、跡形もなく消滅していた。
「団長! 全個体、討伐完了です!」
カイルさんが駆け寄ってくる。
彼はヘルメットを脱ぎ、驚いたように自分の手を見つめていた。
「信じられん……。一撃一撃が、吸い付くように決まった」
「ああ。傷一つ負ってない。こんなに楽な討伐は初めてだ」
他の騎士たちも、興奮した様子で口々に叫んでいる。
皆、疲れ果てているどころか、むしろ戦う前より血色が良い。
アレク様が剣を鞘に収め、こちらへ歩いてきた。
その額には汗一つ浮かんでいない。
「……リリア。怪我はないか」
「はい。私は、ただ見ていただけですから。……皆さん、お強いのですね」
私は正直な感想を口にした。
やはり、私の出番なんてなかった。
こんなに強い人たちなら、私がいなくても結果は同じだったはずだ。
「お前は、自分が何をしたか本当に分かっていないようだな」
アレク様が私の顔を覗き込む。
その瞳には、隠しきれない熱が宿っていた。
「私は……怖くて震えていただけです。お役に立てなくて、すみません」
私が申し訳なさに俯くと、アレク様は大きな手で私の頭を不器用に撫でた。
「謝るな。リリア、記録によれば、お前がこの修道院に来てからというもの、騎士団の任務成功率は十割だ。しかも、重軽傷者は一人も出ていない」
「え……?」
「あり得ない数字だ。特に今日の討伐は、本来なら数名の負傷者が出るはずだった」
アレク様の言葉を、私はすぐには理解できなかった。
成功率が上がった?
負傷者がいない?
「それは、皆さんが頑張ったからで……」
「昨日も言ったはずだ。お前がそこにいるだけで、俺たちは強くなれる。それを今日、俺は確信した」
アレク様は私の手を取り、力強く握りしめた。
その掌の熱さが、私の冷えた指先に伝わってくる。
(私がいれば、皆さんが傷つかずに済むの……?)
もしそれが本当なら。
「無能」だと言われ、誰にも必要とされなかった私でも、ここにいていい理由になる。
胸の奥で、小さな灯火が灯ったような気がした。
けれど。
「……戻るぞ。深追いは禁物だ」
アレク様が私の背を押し、再び馬へと促す。
帰路につく私たちの背後で、夕闇が静かに街道を包んでいった。
修道院に戻ったのは、日が完全に沈んだ頃だった。
門の前で、院長のマルタ様が険しい表情で立っていた。
その手には、一通の手紙が握られている。
「おかえりなさい。……アレク団長、リリア様」
「院長、何かあったのか」
アレク様が馬を止め、問いかける。
マルタ様は私の方をちらりと見ると、静かに手紙を差し出した。
「王都の公爵家から、リリア様宛てに特使が届けに来ました。……至急、開封するようにとのことです」
公爵家。
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓が冷たく凍りついた。
家を追い出された私に、今さら何の用があるというのか。
私は震える指で、封蝋を剥がした。
中に入っていたのは、見覚えのある父の筆致。
『リリアへ。貴様の鑑定結果について、王宮から再調査の命が下った。直ちに王都へ戻る準備をせよ。これは命令である』
「……っ」
手紙が指から滑り落ちた。
足元に落ちた紙片を、アレク様が拾い上げる。
内容を読んだアレク様の顔が、一瞬で修羅のように険しくなった。
「……ふざけるな」
彼の低い、地を這うような声。
私はただ、せっかく見つけかけた居場所が、足元から崩れていくような感覚に襲われていた。
せっかく、ここにいてもいいのかもしれないと思ったのに。
王都の影が、再び私を追いかけてきた。
「リリア。お前はどうしたい」
アレク様が私の肩を掴んだ。
強すぎるくらいの力。
私は震える唇を噛み締め、彼の瞳を見つめ返した。
「私は……戻りたく、ありません……」
消え入りそうな声。
けれど、それは私の本心だった。
「分かった。ならば、誰にもお前を連れて行かせはしない」
アレク様の宣言が、夜の静寂に響き渡った。
その言葉が、これからの嵐の予感を感じさせた。




