第4話 偶然という名の盾
小鳥のさえずりで目が覚めた。
昨日、あんなに馬に乗って疲れたはずなのに、体は驚くほど軽い。
王都にいた頃の、あの鉛を飲んだような重苦しさが嘘のようだ。
私は約束通り、朝の演習場へと向かった。
「……すごい」
演習場に足を踏み入れた瞬間、空気が震えているのを感じた。
昨日よりも、さらに活気が増している。
騎士たちの掛け声は腹の底から響き渡り、打ち合う木剣の音は鋭い。
昨日、食堂で死にそうな顔をしていた人たちと同じだとは、到底信じられない。
「あ、リリアさん! おはようございます!」
一人の若い騎士が、こちらに気づいて大きく手を振った。
確か、昨日の偵察に同行していた人だ。
名前は……確か、カイルさんと言ったはず。
「おはようございます、カイルさん」
私が会釈をすると、カイルさんは汗を拭いながら駆け寄ってきた。
その後ろから、他の騎士たちもゾロゾロと集まってくる。
「リリアさんが来ると、本当に空気が変わるなぁ」
「全くだ。昨夜は久しぶりに一度も目が覚めずに熟睡できたんだぞ」
「俺なんて、長年痛んでいた古傷が急に軽くなった気がするんです」
口々にかけられる言葉に、私は戸惑うしかなかった。
皆、笑顔だ。
王都の騎士たちが私に向ける、あの「無能を見る目」とは正反対の、温かい眼差し。
「……それは、きっと皆さんの日頃の鍛錬の成果ですよ。私はただ、座っているだけですから」
私は慌てて否定した。
自分にそんな力があるなんて、思いたくない。
期待させて、それが間違いだと分かった時の落胆を、私は嫌というほど知っているから。
「そんなことないですよ。団長だって――」
カイルさんが言いかけた時、演習場の奥から鋭い視線を感じた。
アレク様だ。
彼は腕を組み、離れた場所からこちらをじっと見つめていた。
昨日の偵察の時よりも、さらに深く、射抜くような視線。
私は反射的に背筋を伸ばした。
やっぱり、監視されている。
騎士たちと無駄話をしているのを、不謹慎だと思われたに違いない。
「……団長が呼んでる。カイル、持ち場に戻れ」
アレク様の低い声が響く。
騎士たちは「また後で!」と私に告げ、慌てて散っていった。
一人残された私は、ベンチの端に座り、小さくなった。
アレク様はこちらへ歩いてくる。
一歩ごとに土を踏みしめる音が、私の心臓の鼓動を早める。
【ナレーション】
(アレク・グラント。彼は生まれつき膨大な魔力を持っているが、その制御に苦労していた。特に辺境での激務は彼の精神を削り、魔力回路を常に焼き付かせるような苦痛を与えていた)
アレク様は私のすぐ前で足を止めた。
大きな影が、私を覆う。
「……体調はどうだ」
「はい。とても良いです。……あの、騎士の皆さんがとてもお元気そうで、良かったです」
私が視線を彷徨わせながら答えると、アレク様はふいと顔を背けた。
「……そうか」
短い返事。
怒っているようには見えないけれど、何を考えているのか全く読めない。
彼はしばらく無言で、訓練に励む部下たちを眺めていた。
「リリア。お前は王都で、本当に『無能』だと言われたのか」
唐突な問いに、胸がズキリと痛んだ。
「はい。鑑定盤には、はっきりと『不明』と出ました。魔力値もゼロだと」
「……そうか。あの盤は、稀に大きな力を見落とすことがあるらしい」
アレク様の言葉に、私は目を見開いた。
見落とす?
あんなに絶対的な評価を下す魔法具が?
「ありえません。私は実際、何の魔法も使えませんし、剣も振れません。皆さんの体調が良いのは、きっとこの土地の空気が綺麗だからです。……そうに決まっています」
私は自分に言い聞かせるように、早口でまくしたてた。
そうでなくてはいけないのだ。
もし私に何か価値があるのなら、これまでの十五年間は何だったのか。
私は、価値がないから捨てられたのではなかったのか。
「……意地っ張りな奴だな」
アレク様が小さく呟いた。
その声は、驚くほど優しく響いた気がした。
「団長! 伝令です!」
遠くから騎士が駆け寄ってくる。
アレク様は表情を引き締め、私に背を向けた。
「そこで待っていろ。すぐに戻る」
彼は大股で去っていった。
私はベンチに深く座り直し、大きく息を吐き出した。
アレク様の視線が、昨夜から頭から離れない。
あの、何かを確信したような、そして……慈しむような目。
ただの監視にしては、熱がこもりすぎている。
(気のせい。気のせいだわ)
私は自分の頬を両手で押さえた。
顔が熱い。
きっと、朝の陽光が強いせいだ。
ふと、演習場の片隅に咲いている小さな花が目に入った。
昨日までは萎れていたはずのその花が、今はピンと茎を伸ばし、鮮やかな色を放っている。
その光景を見て、私は得体の知れない不安に襲われた。
自分の意志とは無関係に、周囲が変わっていく。
もし、この変化の理由が本当に私なのだとしたら。
【ナレーション】
(無自覚な支援型加護。それは対象者の生命力そのものを底上げする、神の領域の力である。その力が及ぶ範囲は、持ち主の感情の安定に比例して広がっていく)
私は無意識に、胸元に下げた小さなペンダントを握りしめた。
母から譲り受けた、古びた守り石。
「……私は、何も持っていないはずなのに」
独り言は、騎士たちの活気ある声にかき消された。
アレク様が戻ってきたのは、それから数十分後のことだった。
彼の顔には、隠しきれない緊張感が漂っている。
「リリア。予定を変更する」
「……何かあったのですか?」
「北の街道付近で、大規模な魔力反応が出た。偵察ではなく、討伐任務だ」
討伐。
その単語の響きに、私は血の気が引くのを感じた。
昨日の偵察とは違う、本物の戦い。
「お前も来い。馬を用意させた」
アレク様の言葉に、私は椅子から転げ落ちそうになった。
「な、何を言っているのですか!? 私は戦えません! 足を引っ張るだけです!」
「黙って付いてこい。お前が必要なんだ」
アレク様は私の返事も待たず、私の手首を掴んだ。
その手は驚くほど熱く、力強かった。
「私……行けません! 怖いんです!」
思わず本音が漏れた。
戦場なんて、私には無縁の世界だ。
死ぬかもしれない。
皆に迷惑をかけて、取り返しのつかないことになるかもしれない。
アレク様は立ち止まり、私をまっすぐに見つめた。
「俺が死なせない。お前は、俺の隣にいろ」
断定的な口調。
その瞳には、一切の迷いがなかった。
「……隣に?」
「そうだ。お前がそこにいるだけで、俺たちは強くなれる。それを証明させろ」
私の頭は、真っ白になった。
必要とされている?
この、戦いのプロフェッショナルな人たちに?
抵抗する間もなく、私は再び馬の背へと押し上げられた。
走り出す馬の背で、私は必死にアレク様の背中を追う。
偶然。
全部、偶然のはず。
そう自分に言い聞かせても、繋がれた手首の熱が、冷めることはなかった。




