最終話 私は、ここで生きていく
ついに、その時が来た。
三日間の猶予は、瞬く間に過ぎ去った。
修道院の門前に立つ私の背中を、冷たい風が吹き抜ける。
街道の先から立ち昇る巨大な砂埃。
それは、私一人を連れ戻すために送られた、千人の軍勢が立てるものだった。
「リリア。震えているのか」
隣に立つアレク様が、私の手を取った。
鉄の籠手に包まれた大きな手。
けれど、伝わってくるのは冷たい感触ではなく、心強い熱だった。
「……少しだけ。でも、逃げたくはありません」
私は顔を上げた。
視線の先には、『北天の盾』の騎士たちが整列している。
わずか数十人の彼らは、千の軍勢を前にしても、誰一人として怯えていなかった。
むしろ、その瞳には静かな怒りと、深い忠誠が宿っている。
【ナレーション】
(王国最高監察官ヴァイス卿。王室直属の魔導騎士団を率い、数々の反乱を鎮圧してきた歴戦の勇士。彼が動くということは、王都側がリリアの身柄を極めて重要視している証左であった)
軍勢が門の前で止まった。
地響きが止み、不気味な静寂が辺りを支配する。
白銀の鎧に身を包んだ騎士たちが左右に分かれ、中央から一頭の白馬が進み出た。
馬に乗っているのは、深い紫色のマントを羽織った老人だった。
痩せ細っているが、その眼光は鋭い。
彼が私を捉えた瞬間、空気が物理的に重くなったように感じた。
「……リリア・フォン・アルフェン。迎えに来たぞ」
ヴァイス卿の声は、掠れているのに鼓膜の奥まで響いた。
「無能の身でありながら、辺境で騎士団を唆し、王命を拒むとは。公爵家の娘としての自覚が足りぬようだな」
「私は……」
声が震えそうになるのを、私は必死に堪えた。
アレク様の手の熱を思い出す。
昨日、カイルさんが「女神」と呼んでくれた時の笑顔を思い出す。
「私は、唆してなどいません。私は、自分の意志でここにいます」
私は一歩、前へ出た。
アレク様の制止を振り切るようにして、ヴァイス卿を真っ直ぐに見据える。
「ここには、私を必要としてくれる人たちがいます。無能だと言われた私を、家族として迎えてくれた場所です。私は、王都には帰りません」
「ふん、小娘が」
ヴァイス卿が鼻で笑った。
その瞬間、彼を中心に黒い波のような圧力が放たれた。
「っ……!」
魔圧。
並の人間なら、その場に跪き、呼吸さえ困難になるほどの重圧だ。
私の背後にいる騎士たちの顔が、一瞬で険しくなる。
けれど、不思議なことが起きた。
私の胸の奥から、温かな光が溢れ出したのだ。
それは波紋のように広がり、ヴァイス卿が放つ黒い圧力を、霧が晴れるように消し去っていく。
(暖かい……。何、これ……)
私の周囲だけではない。
光の波は、私の後ろに並ぶ騎士たちをも包み込んでいった。
彼らの強張っていた肩が緩み、その瞳にさらなる力が宿る。
「……何だと?」
ヴァイス卿の眉が動いた。
彼は驚愕したように、自分の手と私を交互に見ている。
「私の魔圧を……無効化しただと? 鑑定不能の、無能な娘が?」
「ヴァイス卿。お前には見えないのか」
アレク様が私の肩を抱き寄せ、前に出た。
彼は長剣を抜き放ち、その先を千の軍勢へと向けた。
「リリアは無能などではない。彼女は、俺たちの光だ。彼女が微笑むだけで、俺たちは傷を忘れ、絶望を振り払える。……この娘を連れ去るというなら、俺たち全員を斬り伏せてからにするがいい」
「団長に続け!」
カイルさんが叫んだ。
騎士たちが一斉に抜剣する。
チャキ、という鋭い金属音が重なり、修道院の門前が戦場へと変貌した。
「狂っている……。たかが一人の女のために、王宮に牙を剥くというのか!」
ヴァイス卿の声に、初めて焦りが混じった。
彼は私の足元を見つめている。
そこには、先ほどまで枯れていた雑草が、青々と芽吹き、小さな花を咲かせ始めていた。
【ナレーション】
(支援型加護の覚醒。持ち主の『守りたい』という強い意志が引き金となり、恒常的な聖域を展開する。その内側にいる者は、あらゆる精神干渉と衰弱から守護される)
「撤退だ……!」
ヴァイス卿が忌々しげに吐き捨てた。
「アレク・グラント。今日のことは反逆として報告する。……だが、王都の窮状はお前たちの想像を超えている。いずれ、泣いて縋ってくるのは貴様らの方だぞ!」
ヴァイス卿は馬を翻した。
千人の軍勢が、波が引くように街道へと戻っていく。
砂埃が遠ざかり、再び辺りに平穏が戻った。
私は、その場に座り込みそうになった。
アレク様が、優しく私を支えてくれる。
「終わったぞ、リリア。お前の勝ちだ」
「私……。私、本当に、ここにいてもいいのでしょうか」
私は震える声で尋ねた。
千人の軍勢を追い返してしまった。
王都を敵に回してしまった。
私なんかのために。
「まだそんなことを言っているのか」
アレク様は、私の両頬を大きな手で包み込んだ。
そして、これまでにないほど穏やかな、熱い眼差しで私を見つめた。
「お前がいなければ、俺たちは今頃、魔圧に屈して膝をついていただろう。……お前が俺たちを救ったんだ」
「リリアさん、最高でしたよ!」
カイルさんたちが駆け寄ってくる。
彼らの顔には、守られたことへの安堵ではなく、守り抜いたことへの誇りが溢れていた。
私は、涙が溢れるのを止められなかった。
王都では、一滴の魔力も持たない私は、生きる価値のないゴミだと教えられた。
でも、この場所では。
この、北の果ての修道院では。
私は、リリアという一人の人間として、必要とされている。
誰かの力になれる。
その事実が、私の心を根底から変えていく。
(私は、無能じゃない)
心の中で、その言葉を何度も繰り返した。
鑑定盤の数字なんて、もうどうでもよかった。
私の価値を決めるのは、私を愛し、必要としてくれるこの人たちだ。
「……アレク様。私、もっと強くなります」
私は涙を拭い、アレク様の瞳を見つめ返した。
「この場所を守るために。皆さんの力になるために。……私にできることを、もっと見つけます」
「ああ。これからも頼りにしている、リリア」
アレク様は私の手を強く握り、空を見上げた。
そこには、嵐のあとの澄み渡った青空が広がっていた。
私の物語は、まだ始まったばかりだ。
いつか、私のこの「不明」な力が、この国すべてを照らす奇跡に変わる日が来るかもしれない。
けれど今は、ただこの温かな場所で。
私を呼ぶ、優しい声に応えていきたい。
「お腹、空きましたよね。皆さんのために、温かいスープを作ります!」
私の言葉に、騎士たちがわっと歓声を上げた。
修道院の門をくぐる私の足取りは、昨日よりもずっと軽かった。
第1章:完
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