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第9話:魔王様は亜鉛不足で憂鬱です ~牡蠣の亜鉛とスパイスで、死んだ舌を治療する「覚醒・海のミルクカレー」~

魔王城、最上階。玉座の間。

 そこは今、巨大なオフィスと化していた。

 薄暗い空間に、数十枚の魔法映像モニターがホログラムのように浮かび上がり、各地の戦況、兵站データ、予算決算書が高速で流れている。

 その中心で、玉座に深く腰掛け、眉間に深い皺を刻んで羽根ペンを走らせている巨躯の男。

 魔界の統治者、魔王グラン・ゾードだ。

 漆黒のフルプレートアーマーを纏ったその姿は威圧感の塊だが、今の彼から漂っているのは「覇気」ではなく、どす黒い「疲労」のオーラだった。

「……ええい! 東方戦線、なぜ崩れた!?」

 魔王の怒声が響く。書類が宙を舞う。

 傍らに控える兵站局長・ヴォルクが、胃を押さえながら報告する。

「はっ。勇者一行の奇襲に対し、魔王様が指示された『全軍、一歩も退かずに睨みつけて怯ませろ』という作戦が……その、柔軟性に欠けていたようで、側面を突かれました」

「なんと!? 王者の風格を見せつければ人間など恐れおののくはずではないか!」

「いえ、普通に広範囲魔法で吹き飛ばされました」

 魔王グラン・ゾードは、勤勉だ。

 誰よりも真面目に働き、寝る間も惜しんで全軍の指揮を執っている。

 しかし、彼には致命的な欠点があった。

 彼は、**「いくさが絶望的に下手」**なのだ。

 「正面突破こそ正義」「数で押せば勝てる」という前時代的な戦術しか知らず、現場の状況に合わせた柔軟な判断ができない。そのせいで、リカの料理で強化された屈強な兵士たちを持ってしても、勇者一行の巧みな戦術に翻弄され続けていた。

「くそっ……! なぜだ、なぜ勝てん! 余はこんなに働いているのに! 1日20時間は執務しているのに!」

 魔王はイライラと貧乏ゆすりをしながら、机の引き出しを開けた。

 中に入っているのは、灰色の粘土のような直方体。

 魔力だけで生成された、味も匂いもない**「完全栄養ブロック」**だ。

 彼はそれを掴み、ガリガリと齧った。

「……」

 砂を噛むような音。

 魔王の表情は晴れない。栄養は摂っているはずなのに、満たされない。

 それどころか、最近は何を食べても「砂利」の味しかしないのだ。

「……ヴォルク。次の決裁書類を持て」

「魔王様、少し休憩を……。お顔の色が土気色です」

「ならん! 余が休めば魔界が終わる! 食事の時間すら惜しいのだ!」

 その時。

 バーン! と重厚な扉が蹴り開けられた。

「終わるのは魔界じゃなくて、あんたの体よ!」

 白衣を翻し、仁王立ちで現れたのは、私――味野あじのリカだった。


 一方その頃。

 魔王城を目前に控えた荒野の谷間。冷たい風が吹きすさぶ岩陰で、勇者一行は身を潜めるように野営をしていた。

 焚き火を囲むのは4人。

 リーダーの勇者アルカス。

 巨漢の戦士ガッツ。

 潔癖症の聖女エレナ。

 そして、魔法使いのミナ。

 彼らの空気もまた、重かった。

「……はぁ。腹減ったなぁ」

 ガッツが力なく呟く。その手には、教会から支給された**「聖なる干しパン」**が握られているが、もう見るのも嫌なようだ。

「ガッツ、文句を言わないで。これが清貧よ。魔を討つための試練だと思いなさい」

 エレナがたしなめるが、彼女のお腹もギュルルと大きく鳴っている。

 アルカスは、地図を見ながら眉をひそめていた。

「……魔王軍の動きはおかしい。個々の兵士は異常に強靭になっているのに、部隊としての動きは素人同然だ。まるで、現場の判断を無視して、遠くから素人がラジコンで操作しているような……」

「おかげで勝ててますけど、不気味ですね。いつ『本気』を出してくるか……」

 その時。

 隅で縮こまっていた魔法使いのミナが、ビクリと肩を震わせた。

「……あ」

 彼女は鼻をひくつかせ、おずおずと手を挙げた。

「……あ、あの……勇者様……」

「どうした、ミナ。敵か?」

 アルカスが剣に手をかける。

 ミナは首を横に振り、涙目で風上――魔王城の方角を指差した。

「……ち、違います……。風に乗って……すごく『複雑な香り』が……」

「香り?」

「……はい。クミン、カルダモン、コリアンダー……それに、濃厚な海のミルクの気配……。こ、これ……王都の一流レストランでも嗅いだことがないレベルの……『ご馳走』の匂いです……」

 ミナは気弱な性格だが、魔力感知能力と嗅覚はずば抜けて鋭い。

 その彼女が、涎を垂らしそうになるのを必死で堪えている。

「ご馳走だと……?」

 ガッツがガバッと起き上がる。

「どっちだミナちゃん!?」

「……魔王城の方角です。……たぶん、換気口から……」

 アルカスは呻いた。

 彼の脳裏に、霧の中で食べた「塩むすび」の記憶がフラッシュバックする。

「またか……。またあの城から、我々を惑わす『精神攻撃』が来るのか……! なぜ魔族は、これほどまでに執着するのだ!」


 魔王城、玉座の間。

 私は魔王グラン・ゾードの前に進み出ると、彼の手元にある「ブロック」をひったくった。

「返せ! それは余の燃料だ!」

「燃料? 自分の体を機械か何かだと思ってるの?」

 私は魔王の手指を掴み、じろじろと観察した。

 爪に白い斑点がある。肌はカサつき、唇の端が切れている。

「……やっぱりね。典型的な**『亜鉛欠乏症』**だわ」

「アエン……?」

「ミネラルの一種よ。これがないと、舌にある味を感じる細胞『味蕾みらい』が再生されないの。だから何を食べても砂の味しかしないんでしょ?」

 図星だったのか、魔王が押し黙る。

「それに、亜鉛不足は精神にも影響するわ。イライラして、集中力が低下する。……ねえ魔王様、最近、部下に当たり散らしてばかりで、冷静な判断ができてないんじゃない?」

 ヴォルクが私の後ろで「その通りだ!」と無言で激しく頷いている。

 魔王はバツが悪そうに視線を逸らした。

「……うるさい。余は忙しいのだ。食事の時間など惜しい。味などわからなくても、腹が膨れればいい」

「それが間違いなのよ!」

 私はビシッと言い放った。

「食事は脳の休息であり、リセットの時間よ。マズい餌をかじりながら仕事をしたって、良いアイデアなんて浮かぶわけないわ! だから戦も負け続けるのよ!」

「なっ……! 無礼な!」

 魔王が激昂して立ち上がる。3メートルの巨躯から放たれる威圧感は凄まじい。

 しかし、私は一歩も引かない。

「うるさい! 黙って私の『治療食』を食べなさい! あんたの舌と、その凝り固まった脳みそ、私が叩き直してあげるわ!」

 私はヴォルクを連れて厨房へ走った。

 目指す食材はただ一つ。

 **「海のミルク」**と呼ばれる、亜鉛の含有量トップクラスの食材。

「ローレライから仕入れた**『魔界牡蠣モンスター・オイスター』**を使うわよ!」

厨房に戻った私は、直ちに調理(実験)を開始した。


 今回のテーマは**「味覚の再生」と「脳の覚醒」**だ。

「ヴォルク、換気扇をフルパワーにして! 城中に香りを撒き散らすわよ!」

「了解! ……しかし、何を作るんだ?」

「決まってるでしょ。食欲を強制的に引きずり出す、スパイスの爆弾……**『カレー』**よ!」


 工程1:香りの抽出

 フライパンにたっぷりの油を熱し、クミンシード、カルダモン、クローブなどのホールスパイスを投入する。

 シュワシュワと泡立ち、揮発性の精油成分が油に移る。

 爆発的な香りが厨房を満たし、ダクトを通じて外へ溢れ出す。

「いい匂いだ……。これだけで腹が減る」

「香りは脳の視床下部を直撃して、消化液を出させるの。これが第一のスイッチよ」


 工程2:ベース作り

 大量の玉ねぎを、死霊使い(ゼスト)から借りた「時間加速の魔道具」を使って、一瞬でアメ色になるまで炒める。

 そこに、鮮血トマペーストを加え、水分を飛ばす。


 工程3:牡蠣の投入

 ベースに、濃厚な「豚骨スープ」を注ぐ。

 そして主役。プリプリに太った大粒の魔界牡蠣を、惜しげもなく投入する。

 煮込むことで、牡蠣に含まれる豊富な亜鉛、タウリン、グリコーゲンがスープに溶け出す。

「仕上げよ! 『白い粉』と、隠し味の『醤油』、そして……」

 私は真っ赤な瓶を取り出した。

 **『デビル・ペッパー』**の粉末だ。

「カプサイシンを大量投入! 辛さという『痛み』刺激で、脳内麻薬エンドルフィンをドバドバ出させるのよ!」

 グツグツと煮えたぎる鍋。

 色は漆黒。表面には黄金色の油が浮いている。

 香りは、暴力的でありながら妖艶。

 **『亜鉛爆弾・オイスターブラックカレー』**の完成だ。


 魔王城、執務室。

 魔王グラン・ゾードの前に、湯気を立てる皿が置かれた。

 炊きたての「銀シャリ」と、漆黒のカレー。

「……泥に、砂利を混ぜたものか。毒々しい色だな」

 魔王はスプーンを持ち上げたが、手は進まない。

「リカよ。余は言ったはずだ。何を食っても砂の味しか……」

「いいから食べて! 食べればわかります!」

 魔王はため息をつき、一口分を口に運んだ。

 パクッ。

 ……静寂。

 数秒後。

 ドクンッ!!

 魔王の心臓が、大きく跳ねた。

 カッッッ!!!!

 目が見開かれ、全身の毛穴が開く。

「……な、んだ……これ、は……!?」

 最初に襲ってきたのは、デビル・ペッパーの突き抜けるような辛さ。

 その刺激が、眠っていた味覚神経を無理やり叩き起こす。

 「痛い! 熱い!」

 そう感じた瞬間、次に押し寄せたのは、牡蠣の濃厚なミルク感と、豚骨の旨味。

 死んでいたはずの舌の上で、味が、色彩を持って弾けた。

「味が……する!? 辛い、甘い、しょっぱい、旨い……!!?」

 魔王の手が震える。

 モノクロだった世界に、一気に色が着いたような感覚。

 牡蠣の亜鉛が、枯渇していた細胞に染み渡っていく。

「う……うまい……!!」

 魔王が叫んだ。

「砂じゃない! これは……これが『食事』か!?」

 ガツガツガツッ!!

 魔王はスプーンを動かし続けた。

 威厳も、効率もかなぐり捨てて。

 額から汗が吹き出し、新陳代謝が爆発的に活性化する。

 辛さで脳内麻薬が分泌され、鬱々としていた気分が晴れ渡っていく。

「ふぅ……ふぅ……!!」

 完食。

 皿まで舐めそうな勢いで平らげた魔王は、荒い息を吐きながら、天井を見上げた。

「……頭が、軽い」

 魔王が呟く。

「今まで、霧の中にいたようだ。……そうか。余は、焦っていたのか」

 魔王は立ち上がり、空中に浮かぶ戦況マップを見上げた。

 さっきまでは「ただの点の集まり」にしか見えなかった地図が、今は立体的に、有機的に見える。

「……ヴォルク。東方軍を一度後退させろ。無理に攻めず、山岳地帯に誘い込め。補給線を立て直すのだ」

「は、はいっ!?」

「ただ押すだけが戦ではない。……兵士にも休息を与えよ。腹が満たされれば、心に余裕ができる。余裕ができれば、勝機も見えてくる」

 魔王の顔には、王者の風格が戻っていた。

 真面目すぎて空回りしていた「無能な上司」は、カレーによって浄化され、本来の聡明さを取り戻したのだ。

「リカ。礼を言う」

 魔王が私を見た。

「美味かった。……これからは、毎日ちゃんと飯を食うことにする」

「ええ、そうしてください。良い仕事は、良い胃袋から生まれるんですから」


 その夜。

 魔王の覚醒により、城内は活気づいていた。

 私は、寸胴鍋に残ったカレーを見つめていた。

「……ヴォルク。ちょっと仕事よ」

「なんだ? まだ何か作るのか?」

「いいえ。**『実験』**よ」

 私は鍋を指差した。

「この残ったカレーとご飯を、城の西側にある**『廃塔』**に置いてきて」

「はあ? あそこは城壁の外れだぞ? 誰も来ないし、野良ドラゴンの餌になるだけだ」

 私はニヤリと笑った。

「いいえ。もっと面白い**『ネズミ』**がかかるはずよ」

「ネズミ?」

「ええ。最近、城の近くをウロチョロしている、味のわかるネズミたちがね。……人間に対するカプサイシンの致死量データも取りたいし」

 あれは間違いなく、人間――それも、身分の高い人間によるものだ。

 彼らが近くに潜伏しているなら、このカレーの香りは、最強の誘引剤になるはずだ。

          ◇

 深夜。西の廃塔。

 吹きっさらしの石造りの床に、湯気を立てる鍋と、山盛りの銀シャリが置かれていた。

 横には、魔界語で**『毒見用』**と書かれた立て札。

 その匂いに釣られて、4つの影が現れた。

 勇者一行だ。

「……罠だ」

 勇者アルカスが呻く。

「あまりにも露骨な罠だ。こんな場所に、都合よく最高のご馳走が置いてあるわけがない」

「でも勇者様……」

 魔法使いミナが、フードの下から潤んだ瞳を向ける。

「魔力探知の結果……毒はありません。ただ、極めて純度の高い『スパイス』と『旨味』の反応だけです」

「俺はもう限界だ!」

 戦士ガッツが叫んだ。

「罠だろうが何だろうが、食って死ぬなら本望だ! いただきます!」

 ガッツが鍋に突進する。

「ああっ、ガッツずるい! 私も!」

 聖女エレナも、聖職者のプライドを投げ捨てて駆け寄る。

 アルカスは天を仰いだ。

「……くっ。……私も、騎士である前に人間だ!」

 4人は鍋を囲み、持参した器にカレーをよそった。

 一口食べる。

 ガツンッ!!

「――っ!!??」

 全員の動きが止まる。

 辛い。猛烈に辛い。

 しかし、その奥にある深淵なる旨味。

 牡蠣のミルク感と、豚骨のコクが、疲弊した冒険者の体に染み渡る。

「う……うまい……!」

 アルカスが涙を流す。

「辛いのに……スプーンが止まらん! 体が熱い! 力が湧いてくる!」

「母ちゃんのカレーより美味いぞぉぉ!」

「神よ……これは恵みですか、それとも罰ですか……」

 彼らは無言で、一心不乱にカレーを貪った。

 鍋が空になるまで、時間はかからなかった。

          ◇

 翌朝。

 私が廃塔へ回収に向かうと、そこにはピカピカに舐め取られたような空の鍋があった。

 そして、その底には――。

 キラリと光る、「聖王国の銀食器スプーン」。

 その横には、震える文字で書かれたメモがあった。

 『美味かった。生き返った。』

「……ふふ」

 私は銀食器を拾い上げ、太陽にかざした。

「やっぱりね。人間にもこのスパイス配合は有効みたい」

 魔王は覚醒し、勇者は餌付けされた。

 私の「白い粉」と「科学調理」は、着実に世界を変えつつある。

 敵対する二つの勢力が、同じ釜のカレーを食べて感動している。

 それは、もしかしたら「平和」への一番の近道なのかもしれない。

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