第7話:湖の歌姫は「旨味の相乗効果」に溺れ、勇者は「空腹」に震える ~黄金に輝 く「飲む回復薬(エリクサー)」~
魔王領と人間界の境界線に広がる、「嘆きの森」。
日が落ち、冷たい夜風が吹きすさぶ中、一本の焚き火がパチパチと燃えていた。
その火を囲んでいるのは、人類の希望――勇者一行である。
「……勇者様。今夜の夕食です」
魔法使いの少女が、申し訳なさそうに差し出したのは、布袋に入ったカチカチの物体だった。
教会から支給された、由緒正しき**「聖なる干しパン」と、保存性を極限まで高めて味が抜けた「塩漬け肉」**だ。
「……ありがとう」
勇者アルカスは、それを受け取った。
彼は歴代最強の聖騎士と謳われ、魔王討伐の勅命を受けた若き英雄だ。輝く金髪、碧眼、そして鋼の肉体。
しかし、その頬は少しこけ、瞳には空腹の陰が差していた。
「……硬いな」
アルカスはパンを石で砕くようにして齧った。
ガリッ。
味はしない。ただ、口の中の水分を奪っていくだけの小麦の塊。
「贅沢は敵だ。我々は清貧を旨とし、魔王という悪を討たねばならん。……この試練もまた、神の与えし糧なり」
アルカスは自分に言い聞かせるように呟いた。
しかし、隣で戦士の大男が腹をさすりながら呻く。
「でもよぉ勇者。最近、噂で聞いたぜ? 魔王軍の連中、なんかめちゃくちゃ美味いモン食ってるらしいぞ」
「なんだと?」
「捕虜になった兵士が言ってたんだ。『あそこの捕虜飯は、王都の三ツ星レストランより美味かった』って泣いて帰ってきたんだと」
「馬鹿な」
アルカスは一蹴した。
「魔族の食事など、生肉と泥水に決まっている。それは魔族のプロパガンダか、あるいは強力な『幻覚魔法』による精神攻撃だ。惑わされるな」
アルカスは塩辛いだけの肉を飲み込み、空腹を誤魔化した。
しかし、彼は知らなかった。
その「幻覚」よりも恐ろしい「現実」が、すぐ近くまで迫っていることを。
一方その頃。魔界最大の湖、「セイレーン湖」。
私――味野リカは、湖畔に立ち、腕組みをしていた。
「……いないわね。グルタミン酸の相方」
「相方?」
荷物持ちの相棒、狼男のヴォルクが首を傾げる。
「そうよ。『白い粉(グルタミン酸)』の量産には成功したわ。でも、それだけじゃ片手落ちなの。旨味には**『相乗効果』**という魔法があるのよ」
私は、白衣のポケットから手帳を取り出した。
「グルタミン酸に、魚介類に含まれる核酸系旨味成分――『イノシン酸』を組み合わせる。するとどうなるか? 旨味の強さは、単純な足し算じゃなく、掛け算のように7倍から8倍に跳ね上がるの!」
「な、7倍!? 味が7倍濃くなるのか!?」
「そう。これぞ日本人が発見した最強の方程式。……だから魚が必要なのよ。この湖を支配している海軍提督に、極上の魚介類を融通してもらわないと」
その時。
ザバァッ!!
湖面が割れ、水しぶきと共に美しい女性が姿を現した。
上半身は人間、下半身は魚。透き通るような青い鱗と、長い髪。
魔王軍・海軍提督、人魚のローレライだ。
「……騒々しいわね、陸の獣たち」
ローレライの声は、ハスキーで少し掠れていた。
彼女の手には、生きたままの巨大なイカの足が握られている。彼女はそれを、生々しい音を立てて齧っていた。
「ゲッ、ローレライ殿……。まーた生で食ってるのか」
ヴォルクが顔をしかめる。
「当たり前でしょ。命は、その血肉が温かいうちに頂くのが流儀よ。貴方たちみたいに、焼いたり煮たりして『死体』にしてから食べるなんて、野蛮で吐き気がするわ」
ローレライは、典型的な**「魔界式・生食主義者」**だった。
しかし、その顔色は悪い。
「……ふん。最近は獲物が減って、魔力の補充が追いつかないのよ。おかげで自慢の歌声も出ないわ」
彼女はイカの足を放り投げた。
「帰ってちょうだい。加熱した料理なんて、泥団子と同じよ」
カチン。
私の理系脳のスイッチが入った。
「……野蛮? 泥団子?」
私は一歩前に出た。
「聞き捨てならないわね。加熱と加圧は、単なる調理じゃないわ。**『消化の外部委託』**よ!」
「は?」
「あんた、そんな硬いゴムみたいなイカを生で食べて、栄養が吸収できると思ってるの? 消化不良で魔力を垂れ流してるだけじゃない! だからそんなに顔色が土気色なのよ!」
「なっ……! 無礼な人間ね!」
ローレライが柳眉を逆立てる。
「いいわ。だったら証明して見せなさいよ! その『調理』とやらで、この生食よりも優れたエネルギー摂取ができるならね!」
「上等よ。……タイタン! 出番よ!」
私の号令と共に、湖畔の岩陰から巨人が立ち上がった。
重装歩兵団長、岩石のタイタンだ。
彼は農場開拓ですっかり私の信奉者になっており、今回は力仕事要員としてついてきてくれたのだ。
「……任せろ。花を育てるのは苦手だが、魚釣りなら……」
ズガァァァァン!!
タイタンは、巨大な岩石を湖の中心に投げ込んだ。
凄まじい水柱が上がり、湖底で眠っていた湖の主――**「グランド・クラーケン」**が、衝撃で気絶して浮き上がってきた。
全長20メートル。その足は丸太のように太く、タイヤのように硬い。
「で、でかい……。あんなの、どうやって料理するんだ?」
ヴォルクが見上げる。
「焼いても煮ても、硬すぎて噛み切れないぞ?」
「そうね。普通の鍋なら、3日煮込んでもゴムのままでしょうね」
私はニヤリと笑い、ヴォルクの荷物袋から、巨大な金属の塊を取り出させた。
それは、ドワーフのガントたちに作らせた、最新鋭の調理器具。
『超高圧対応型・ミスリル製圧力鍋(容量500リットル)』。
鈍く銀色に輝くそのボディは、戦車の装甲のように分厚く、蓋には厳重なロック機構と、蒸気を逃がすためのバルブがついている。
「解説しよう! 圧力鍋とは、密閉した容器内で液体を加熱し、蒸気を逃がさないことで内部の圧力を高める装置である!」
私は白衣を翻して説明した。
「気圧が上がれば、水の沸点も上がる。この鍋の中は、**2気圧・120℃**の超高温・高圧環境になるわ!」
私はタイタンに指示し、クラーケンの足をぶつ切りにして鍋に放り込ませた。
さらに、臭み消しの香味野菜と、たっぷりの水を投入。
そして、蓋を閉め、ボルトで厳重にロックする。
「120℃の熱水は、最強の溶剤よ。強固に絡み合ったコラーゲン繊維を、化学的に**『加水分解』**して、ゼラチン質へと溶かし込む! 硬い殻も、骨も、全てを液体に変えるのよ!」
点火。
ドラゴンの火炎袋を使った強力なバーナーが、鍋の底を炙る。
数分後。
鍋の上についた「重り」が、カタカタと震え始めた。
シュッシュッシュッシュッ……!!
激しい音と共に、白い蒸気が噴き出す。
鍋全体が、唸りを上げて振動している。
それはまるで、中に封じ込めた怪物が暴れているような、あるいは新しい命が産声を上げているような、力強い音だった。
その頃。
湖から数キロ離れた「嘆きの森」では、異変が起きていた。
勇者アルカスは、瞑想をしていた。
空腹を紛らわせるため、精神を研ぎ澄ましていたのだ。
しかし、その研ぎ澄まされた五感が、風に乗って流れてきた**「あるもの」**を捉えてしまった。
「……ん?」
アルカスは鼻をひくつかせた。
森の冷たい空気に混じって、温かく、濃厚な香りが漂ってくる。
それは、焼いたパンのような、煮込んだ肉のような……いや、もっと根源的な、生物の脳髄を直接刺激するような香り。
魚介の出汁の香りだ。
高温高圧下で急速に抽出された、アミノ酸と核酸の爆発的な芳香。
「な……なんだ、この匂いは……!?」
アルカスの胃袋が、意思に反して「ギュルルルル」と鳴いた。
周りの仲間たちも、騒然となっている。
「おい、なんかめちゃくちゃいい匂いがしないか?」
「なんだこれ……海? いや、極上のスープの匂いだ……」
「ヨダレが……止まらない……」
手に持っていた「聖なる干しパン」が、ただの石ころに見えてくる。
口の中に、食べたこともない「旨味」の幻覚が広がる。
温かいスープを飲んだ時の、あの幸福感。喉を通る熱さ。五臓六腑に染み渡る滋養。
「……いかん!!」
アルカスは叫び、自分の頬を叩いた。
「警戒せよ! これは魔族の新手の攻撃だ! 嗅覚を通じて我々の戦意を削ぐ、高度な精神干渉(飯テロ)だ!!」
「しかし勇者様、この匂い……抗えません!」
「どの方角だ! 魔王城か!?」
「くそっ、卑怯な魔族め……こんな美味そうな匂いをさせるとは……!」
勇者一行は、見えない敵と戦い、半狂乱になっていた。
彼らの打倒魔王の決意は、「平和を取り戻す」から「あの美味いもんの正体を暴いて食う」へと、微妙に変質し始めていた。
湖畔。
1時間の加圧が終了した。
私は火を止め、圧力が下がるのを待ってから、厳かに蓋を開けた。
モワァァァァ……!
立ち上る湯気と共に、周囲一帯が「美味しさ」の結界に包まれた。
鍋の中身は、クラーケンの足の原型を留めていなかった。
白濁し、ドロドロに溶けた液体。
骨も皮も、全てがスープになっている。
「……すげえ匂いだ。でも、リカ。なんか泥水みたいに濁ってるぞ?」
ヴォルクが鍋を覗き込む。
「ええ。これじゃ雑味が多すぎるわ。ここからが仕上げよ」
私は、もう一つの新兵器――**『魔導遠心分離機』**を稼働させた。
ドロドロのスープを容器に移し、高速回転させる。
ヒュイィィィィン……!
強烈なG(重力)が、液体の中の成分を比重ごとに強制分離する。
重い「骨や殻のカス」は底へ。
軽い「余分な油」は上へ。
そして、その中間に――純粋な旨味エキスだけが残る。
「抽出!」
私がコックをひねると、分離機から液体が流れ出した。
それは、さっきまでの濁りが嘘のように消え失せ、夕日を浴びてキラキラと輝く、透き通った**「琥珀色の液体」**だった。
「完成よ。『琥珀色の液体』」
私はその液体を、スープ皿ではなく、あえて理科実験用の**「試験管」に注いだ。
そして最後に、懐から取り出した「白い粉」**を、ほんのひとつまみ、パラパラと振り入れた。
キラキラ……。
粉が溶ける。
その瞬間、スープの中で見えない化学反応が起きた。
クラーケンのイノシン酸と、白い粉のグルタミン酸が出会い、旨味の強度が7倍に跳ね上がる。
これが、「旨味の相乗効果」。
「さあ、ローレライ。飲みなさい」
私は試験管を突き出した。
「これが、貴方の言う『生』よりも濃い、生命の結晶よ」
ローレライは、琥珀色の液体を疑わしげに見つめた。
「……ただの澄んだ水じゃない。本当にこれが、あのイカなの?」
「騙されたと思って飲んでみて。一口でいいから」
ローレライは、震える手で試験管を受け取った。
クン、と匂いを嗅ぐ。
その瞬間、彼女の瞳孔が開いた。
「……!」
そして、意を決して液体を口に含んだ。
カッッッ!!!!
衝撃が走った。
味付けは、微量の塩だけ。
それなのに。
口に含んだ瞬間、脳内で何百匹ものクラーケンが暴れ回るような、圧倒的な情報の奔流。
濃厚。芳醇。そして、どこまでも深いコク。
喉を通る液体は熱いはずなのに、体中に染み渡る感覚は、まるで母なる海に抱かれているような優しさだった。
「ぁ……ぁぁ……ッ!?」
ローレライが、試験管を握りしめたまま膝をついた。
「熱い……! 喉が……胃が……熱い魔力で満たされていく……!」
彼女の体から、青白い光が溢れ出す。
分解・吸収されやすくなったアミノ酸とペプチドが、即座に彼女の細胞を修復していく。
枯れていた喉の粘膜が再生し、鱗に潤いが戻る。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ♪」
ローレライが声を漏らした。
それは、ただの吐息なのに、周囲の空気を震わせ、湖の水面を波立たせるほどの美しい響きを持っていた。
声が、戻ったのだ。
「……嘘みたい。力が……声が、溢れてくるわ!」
ローレライは涙を流し、私を見上げた。
「生で食べるより……ずっと、ずっと『命』を感じる……! なにこれ、魔法薬なの!?」
「いいえ。ただのスープよ。科学的に正しく調理しただけのね」
私はニッコリと笑った。
「どう? 加熱調理も悪くないでしょう?」
ローレライは、私の足にすがりついた。
「ごめんなさい! 私が間違っていたわ! もう生のイカなんてゴムみたいで噛めない! 毎日この『黄金の汁』を飲ませてちょうだい!!」
「はいはい。その代わり、新鮮な魚介類を定期的に納品してね」
こうして、頑固な生食主義者の歌姫は、圧力鍋の威力と旨味の相乗効果によって、完全に陥落したのだった。
その夜。
魔王軍の海軍基地には、臨時の「スープ・スタンド」が設置された。
クラーケンのスープを飲んだ人魚や魚人たちは、皆一様に活力を取り戻し、湖には美しい歌声が響き渡った。
一方、数キロ離れた森の中。
勇者アルカスは、まだ眠れずにいた。
「……匂いは消えたが……あの味の幻覚が消えない……」
彼は、手元の干しパンを握りつぶした。
口の中には、まだあの「旨味」の余韻が残っている気がする。
それは、質素な教会の食事では決して味わえない、悪魔的な誘惑だった。
「くっ……! 魔王軍め……! 必ず貴様らの正体を暴き、その『源』を断ってやる……! 」
勇者の決意は、妙な方向へとねじ曲がりつつあった。
そして、魔王城の厨房。
私は、手に入れた魚介類と、前回の醤油、そして今回のスープを見比べながら、次なる野望に燃えていた。
「イノシン酸は確保した。醤油もある。麺もある」
ピースは揃った。
あとは、これらを統合し、さらに魔王城の全軍を賄えるだけの「大量生産体制」を整えるだけだ。
「……でも、まだ足りないわね」
私は呟いた。
「最高の定食には、やっぱり最高の**『白飯』**がなくちゃ」
私の視線は、地図上の東の湿地帯――「水田エリア」へと向けられていた。
そこには、稲作を得意とする種族がいるはずだ。
食卓革命は、いよいよ「炭水化物」の王様へと手を伸ばす。
勇者との接触も、そう遠くないかもしれない。




