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第6話:ドワーフの鍛冶場は「沸点」の違いで回ります ~酢になったヴィンテージ・ワインを「蒸留」で黄金のブランデーへ!~

魔王城、第3厨房。

 かつては汚物と獣臭が充満していたこの場所も、私――味野あじのリカの着任以来、衛生管理の行き届いた清潔な空間へと変貌を遂げていた。

 しかし、どんなに清掃を徹底し、レシピを改良したところで、越えられない壁がある。

 それは、「道具」の壁だ。

「……くっ、重い……! 乳酸が溜まる……!」

 私はボウルを抱え、必死の形相で泡立て器を振るっていた。

 中身は、魔界牛の濃厚なミルク。

 これを撹拌かくはんし、脂肪球を破壊して空気を抱き込ませ、ホイップクリームを作ろうとしているのだが……。

「限界よ! 手首が腱鞘炎になるわ!」

 ガチャン!

 私は泡立て器を叩きつけた。

 ボウルの中の液体は、まだトロトロとした状態で、理想のツノが立つ気配はない。

「どうしたリカ、癇癪かんしゃくか? カルシウム不足なら骨を齧るか?」

 野菜の皮むきをしていた相棒の狼男・ヴォルクが、心配そうに声をかけてくる。

「違うわよ! 文明の利器が足りないの! 生クリームを作るのも、バターを分離するのも、マヨネーズを乳化させるのも……全部手作業なんて非効率すぎるわ!」

 私は血走った目でヴォルクに詰め寄った。

「私が欲しいのは筋肉じゃない。**『遠心力』と『回転トルク』よ! モーターで駆動する撹拌機、あるいはミルクから脂肪分を一瞬で分離する『遠心分離機』**が必要なの!」

「えんしん……なんだって? また訳のわからん呪具を欲しがって……」

「呪具じゃないわ、調理器具よ! これがあれば、料理のレパートリーは飛躍的に広がるの。フワフワのムースも、濃厚なバターソテーも思いのままよ!」

 その時。

 コツン、コツン、と優雅なヒールの音が厨房に響いた。

「……あら。随分と景気のいい話をしているじゃない」

 入り口に立っていたのは、真紅のドレスを纏った妖艶な美女。

 魔王軍・魔導師団長にして、高位の吸血鬼ヴァンパイア、カーミラだ。

 彼女は「プリン事件」以来、私の料理のスポンサーとなり、頻繁に厨房へ顔を出すようになっていた。

「カ、カーミラ様! お疲れ様です!」

 ヴォルクが直立不動で敬礼する。

 カーミラはそれを無視し、私の手元――泡立ちかけのミルクを覗き込んだ。

「リカ。前回のプリンは素晴らしかったわ。あの滑らかさ、血よりも濃厚なコク……夢に見るほどよ。でもね」

 彼女は長い爪でボウルの縁をなぞった。

「私、最近少し飽きてきたの。もっとこう……大人の優雅さ、背徳的な香りが欲しいのよ。わかるかしら?」

「背徳的な香り……ですか」

 私は腕組みをした。

「要するに、洋酒リキュールを使ったデザートをご所望で?」

「ええ、察しがいいわね。芳醇な酒の香りと、甘美なクリーム。それが合わされば最高じゃない?」

「作れますよ」

 私は即答した。

「ただし、条件があります。今の厨房設備では、貴女を満足させるレベルのクリームや生地が作れません。先ほどヴォルクに話していた**『遠心分離機』や『高圧オーブン』**が必要です」

 カーミラは目を細めた。

「道具? なら、作らせればいいじゃない。この城には腕利きの職人がいるでしょう?」

「ドワーフたちですか? 彼らは武器の製造で忙しいと聞いていますが……」

「ふん、私の命令よ。魔導師団長の権限で優先的に作らせてあげるわ」

 カーミラは妖しく微笑んだ。

「その代わり……もし期待外れのデザートを出したら、その遠心なんとか機ごと貴方をひねり潰すから覚悟なさい」

「……交渉成立ですね」

 こうして、私たちは利害の一致(食欲と物欲)により、城の最下層にある「鍛冶場」へと向かうことになった。


 魔王城の地下深層。

 そこは本来、地熱と溶鉱炉の熱気で灼熱地獄と化しているはずの場所だ。

 ハンマーが鉄を叩く音が轟き、ドワーフたちの掛け声が響き渡る活気あるエリア――のはずだった。

 しかし。

 重厚な鉄の扉を開けた私たちが感じたのは、熱気ではなく、ひんやりとした冷気と、陰鬱な静寂だった。

「……何これ。お通夜?」

 私が呟くと、カーミラも眉をひそめた。

「炉の火が消えているわね。サボタージュかしら?」

 広大な鍛冶場の中、炉は冷え切り、鉄床かなとこには埃が積もっている。

 そして、あちこちに転がる酒樽の陰で、ドワーフたちが死んだように寝転がっていた。

「おい! 貴様ら! 魔導師団長の前だぞ、起きろ!」

 ヴォルクが怒鳴るが、ドワーフたちは「うぅ……」「もうダメだ……」と呻くだけで動こうとしない。

 その奥、一番大きな酒樽の前で、ひときわ小柄だが筋肉質の老ドワーフが、膝を抱えて座り込んでいた。

 魔王軍・鍛冶師団長のガントだ。

「……ガント。何をしているの?」

 カーミラが冷ややかな声で問いただす。

 ガントは、虚ろな目でこちらを見上げた。その髭はボサボサで、顔色は土気色だ。

「……ああ、カーミラ様か。……殺すなら殺してくれ。俺たちゃもう、おしまいだ……」

「なんですって?」

「酒だ……。酒が、死んだんだ……」

 ガントは、抱えていた樽の蓋を開けた。

 その瞬間。

 ツーーーン……!!

 鼻の奥を突き刺すような、強烈な酸っぱい臭いが漂ってきた。

 腐敗臭ではない。もっと鋭利で、揮発性の高い刺激臭。

「くっさ!? なにこれ、お酢!?」

 私が鼻をつまむと、ガントは涙を流して頷いた。

「そうだ……酢だ。ただの酢じゃねえ。魔王様即位300年記念の、最高級ヴィンテージ・ワインだ。この地下倉庫に眠っていた100樽すべてが……一夜にして、ただの酸っぺえ汁になっちまったんだよぉぉぉ!!」

「なっ……!?」

 カーミラが絶句した。

「100年物のヴィンテージが!? 私のコレクションも含まれているはずよ!? 全部ダメになったの!?」

「全滅だ! 味見したが、喉が焼けるほど酸っぱい! こんなもん飲めるか!」

 ガントが樽を殴りつける。

「俺たちドワーフにとって、酒はガソリンだ。血液だ! 毎日泥のように働いて、最後に極上の酒を煽るのが唯一の生き甲斐なんだよ! それが……全部酢になっちまったら、もうハンマーなんて振れねえよぉぉぉ!」

 ドワーフたちが一斉に号泣し始めた。

 なるほど。ストライキの原因は、モチベーションの源泉たる「酒」の喪失か。

「でも、どうして急に?」

 ヴォルクが尋ねる。

「最近の異常気象だ。長雨で地下の湿度が上がりすぎたんだ。そのせいで、空気中に漂っていた悪い菌が樽に入り込んじまったんだろう……」

 私は樽の中身を指ですくい、舐めてみた。

 強烈な酸味。舌が痺れるほどのアシッド感。

 しかし、腐敗特有の不快な雑味はない。

「……なるほどね。**『酢酸菌アセトバクター』**の仕業だわ」

 私は冷静に分析した。

「ワインに含まれるアルコール(エタノール)を餌にして、酢酸菌が繁殖したのよ。アルコールが分解されて、酢酸……つまりお酢に変わってしまった。これを『酢化さくか』と呼ぶわ」

「サクカだか何だか知らねえが、酒じゃなくなったことに変わりはねえ!」

 ガントが嘆く。

「もう終わりだ。新しい酒を仕込んでも、熟成には何年もかかる。俺たちはシラフで干からびて死ぬんだ……」

 絶望するドワーフたち。

 イライラして爪を噛むカーミラ。

 このままでは、私の欲しい調理器具どころか、魔王軍の武器供給すら止まってしまう。

 しかし。

 私の理系脳は、この状況を「詰み」とは判断していなかった。

 むしろ、チャンスだと計算していた。

「……ガント。諦めるのは早いわよ」

 私は仁王立ちになり、ドワーフたちを見下ろした。

「この酢になってしまったワイン……私が元の『酒』に戻してあげると言ったら、仕事をしてくれる?」

 ガントが弾かれたように顔を上げた。

「はぁ!? バカ言うな! 一度酢になった酒が戻るわけねえだろ! 水がワインになる奇跡じゃあるめし!」

「奇跡じゃないわ。**『科学サイエンス』**よ」

 私はニヤリと笑った。

「正確には、元に戻すんじゃない。この汚染された液体から、純粋な『アルコール』だけを救出するのよ。……ヴォルク、準備して! 銅管とフラスコ、あと冷却用の水槽が必要よ!」


 私の指示により、死んでいた鍛冶場がにわかに動き出した。

 「酒が戻るかもしれない」という一縷の望みに賭けたドワーフたちが、私の設計図通りに金属を加工し、即席の装置を組み上げていく。

 出来上がったのは、理科室の実験器具を巨大化させたような、奇妙な釜だ。

 ワインを入れる「加熱槽」。

 そこから伸びる、螺旋状に巻かれた長い「銅管(冷却管)」。

 そして、その先にある「受器」。

 そう、**「蒸留器ポットスチル」**である。

「いい? 原理を説明するわ」

 私は黒板にチョークで図を描きながら、ドワーフたちに講義を行った。

「この樽の中身は、今は『水』と『酢酸』、そしてまだ分解されずに残っている『アルコール』の混合物よ」

「うむ……」

「物質にはそれぞれ、沸騰して気体になる温度――**『沸点』**があるわ。水の沸点は100℃。酢酸の沸点は118℃」

 私は数字を書き殴る。

「そして、アルコールの沸点は……**約78℃**よ」

 ガントが目を見開く。

「78度……? 水より低いのか?」

「そう! つまり、この液体を加熱して、温度を80℃前後に保てばどうなるか? 水や酢酸は液体のままだけど、アルコールだけが先に沸騰して、蒸気になって飛び出してくるわ!」

 私は螺旋状の銅管を指差した。

「その蒸気をこの管に集め、水で冷やしてやれば、再び液体に戻る。……そうして集まった雫こそが、不純物を取り除いた純度100%に近いお酒よ!」

 ドワーフたちがざわめく。

「沸点の違いを利用して……成分を分けるだと?」

「分離精製……まさか、そんなことが可能なのか?」

「論より証拠よ。点火!」

 ボッ!

 加熱槽の下に火が灯された。

 中には、あの酸っぱいワインが並々と注がれている。

 私は温度計を睨みつけ、火加減を厳密に指示する。

「温度上昇! 70℃……75℃……ストップ! 火を弱めて! 80℃を超えさせないで! 水蒸気が混ざると味がボケるわ!」

 私の指示に合わせて、ヴォルクとドワーフたちが必死にふいごを調整する。

 緊張感が走る。

 液体がコトコトと音を立てる。

 やがて。

 冷却管の出口から、最初の一滴が垂れた。

 ポタッ。

 透明な、クリスタルのような雫。

 それが受器の底に落ちた瞬間、鍛冶場に信じられない香りが広がった。

 フワァァァ……。

 それは、酢のツンとする刺激臭ではない。

 ブドウの皮と果肉を何年も熟成させたような、濃厚で甘い果実香。

 そして、鼻孔をカーッと熱くするような、強烈なアルコールの揮発臭。

「……おい、嘘だろ」

 ガントが鼻をひくつかせる。

「なんだこの匂いは……。ワインなんてもんじゃねえ。もっとこう、魂を直接揺さぶるような……」

 ポタ、ポタ、ポタ……。

 雫は次々と滴り落ち、やがて受器の中に黄金色の液体が溜まっていく。

 ワインを蒸留して作られる酒。

 すなわち、**「ブランデー」**の誕生だ。

「抽出完了。……さあ、試飲の時間よ」

 私はグラスに、出来たばかりのブランデーを注いだ。

 量はわずか指一本分。しかし、その液体が放つ芳香は、部屋の隅々まで届くほど強い。

「ガント、責任者として味見をして」

 グラスを差し出すと、ガントは震える手でそれを受け取った。

 ゴクリ、と喉を鳴らす。

 そして、一気に煽った。

 カァァァァァァーーーーッ!!!!

 ガントの目が飛び出さんばかりに見開かれた。

 顔色が、土気色から一瞬で真っ赤に染まる。

「ぐ、ぐぉぉぉぉぉぉ!!」

 ガントが喉を押さえて叫ぶ。

「熱い! 熱いぞ! 溶岩を飲んだみてえだ! 喉が焼ける! 胃袋が爆発する!」

「アルコール度数は推定60%オーバーよ。今までの薄いワインとは次元が違うわ」

 ガントは咳き込み、そして――ニヤリと、凶悪な笑みを浮かべた。

「……だが、最高だ」

 ガントが空になったグラスを掲げる。

「酢の味なんて微塵もしねえ! ブドウの魂そのものを飲んでるみてえだ! 甘くて、熱くて、頭がクラクラする……これこそ、俺たちが求めていた『ガソリン』だぁぁぁ!」

 ワァァァァァァァ!!

 ドワーフたちが歓声を上げた。

「族長! 俺にもくれ!」「飲ませろ!」

 次々と蒸留されたブランデーが振る舞われる。

 一口飲んだだけで、屈強なドワーフたちが千鳥足になり、しかし目には爛々とした活力が戻っていく。

「うひょー! 力が湧いてくるぜぇぇ!」

「ハンマー貸せ! 鉄を叩きてえ!」

「俺は無敵だ! ミスリルだって素手で曲げられる気がする!」

 完全にキマってしまっている。

 高濃度アルコールによる酩酊と興奮。

 これなら、どんな無理難題もこなしてくれるだろう。

「さて、次はスポンサー様への接待ね」

 私は、傍観していたカーミラに向き直った。

 彼女は、ドワーフたちの狂乱を冷ややかに、しかし興味深そうに見ていた。

「……野蛮ね。でも、香りは悪くないわ」

「カーミラ様には、このブランデーを使った特製スイーツをご用意しました」

 私は、あらかじめ焼いておいた**「ブリオッシュ」**を取り出した。

 たっぷりのバターと卵を使った、リッチなパンだ。

 これを、出来たてのブランデーに砂糖と水を加えて煮詰めた「熱々のシロップ」の中に、ドボンと浸す。

 ジュワワワワ……。

 パンがシロップを吸い込み、膨らんでいく。

 仕上げに、「ホイップクリーム」を添え、ミントの葉を飾る。

「**『吸血鬼のためのサバラン ~黄金のブランデー漬け~』**です」

 カーミラは、シロップが滴るケーキをフォークで切り取った。

 口に運ぶ。

 ジュワッ。

 噛んだ瞬間、スポンジから溢れ出す濃厚なシロップ。

 強烈なブランデーの香りが鼻に抜け、砂糖の甘さがアルコールの刺激を包み込む。

「……んんっ……♡」

 カーミラが、艶っぽい声を漏らした。

 頬がほんのりと桃色に染まる。

「……すごいわ。お酒を『食べる』なんて……。甘くて、辛くて、熱い……。まるで、情熱的な口づけをされているみたい……」

 彼女の赤い瞳がトロンと潤む。

「酔っちゃう……。でも、止まらないわ。……リカ、貴方って本当に悪い子ね」

「最高の褒め言葉です」

 カーミラは上機嫌でサバランを完食した。

「いいわ、合格よ。……ガント! 聞いているわね!?」

 酔っ払ったガントが「へい!」と直立する。

「この娘の言う道具、全て最優先で作りなさい! 予算は私が持つわ! その代わり、このおブランデー、私の屋敷にも樽で納品なさい!」

「合点承知でさぁ!!」


 その夜、鍛冶場は不夜城となった。

 ブランデーを燃料にしたドワーフたちは、常人の3倍の速度と、神懸かった精度でハンマーを振るった。

 カンカンカンカン!!

 リズミカルな金属音が、朝まで鳴り止むことはなかった。

 そして翌朝。

 第3厨房には、銀色に輝く機材が鎮座していた。

 『魔導ステンレス製・高速遠心分離機』。

 『高圧蒸気滅菌対応・圧力鍋』。

 『精密温度管理オーブン』。

 私の設計図を完璧に、いや、それ以上のクオリティで再現したオーバーテクノロジーの結晶だ。

「……美しい」

 私は遠心分離機の滑らかな曲線美を撫でた。

「これで……これで勝てるわ。乳化も、抽出も、殺菌も思いのままよ」

「……リカ、よかったな」

 ヴォルクがげっそりした顔で入ってきた。

「だが、被害も甚大だぞ」

「え?」

「ドワーフたちは全員、二日酔いで再起不能だ。炉の火も消えちまった」

「あらら」

「カーミラ様も、『頭が割れる……日没まで棺桶から出ない……』と伝言があった」

 私は肩をすくめた。

「良薬も過ぎれば毒、ってことね。ま、彼らも久しぶりの美酒に溺れたかったんでしょう」

 私は新しい遠心分離機に、新鮮なミルクを注ぎ込んだ。

 スイッチオン。

 ヒュイィィィン……!

 静かで、力強い回転音。

 ものの数秒で、比重の軽い「生クリーム」と、重い「脱脂乳」がきれいに分離されていく。

「ふふふ……! 最高よ! これでバターも作り放題!」

 私は高笑いした。

 醤油と、ラーメン、そして最新機材。

 必要なピースは揃いつつある。

「次は……そうね。もっと『繊細な味』がわかる相手が必要だわ」

 私は窓の外、遠くに見える湖の方角を見つめた。

 そこには、魚人族マーマンや、水棲魔族たちが住んでいるはずだ。

「魚介系の出汁スープ……欲しいわね」

 私の野望は、蒸留されたアルコールのように、純度を高めながら燃え上がり続けていた。

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