第5話:理論値通りにいかない!? 分離する豚骨と暴れるグルテンを、物理でねじ伏せる「泥まみれのラーメン革命」
魔王城の食卓改革は、順調に進んでいるように見えた。
スープ、保存食、そして前回手に入れた「醤油」。
日本人の魂とも言える調味料を手に入れた私――味野リカだったが、厨房の片隅で、完成した醤油を舐めながら絶望していた。
「……虚しい」
醤油は完璧だ。芳醇な香りと、深いコク。
しかし、これを何に使えばいい?
ただ肉にかけるだけ? 野菜を炒めるだけ?
違う。醤油が真価を発揮するのは、炭水化物と出会った時だ。
白米か、あるいは――。
「……ラーメンよ」
私の脳裏に、湯気を立てる丼が浮かんだ。
豚骨と鶏ガラを炊き出した濃厚なスープ。醤油のキレ。背脂の甘み。そして、それに絡みつく**「麺」**。
今の魔王城には、スープとタレを作る技術はある。
だが、肝心の「中華麺」が存在しないのだ。
「小麦粉はあるわ。でも、ただこねても『うどん』にしかならない。ラーメン特有の黄色くてコシのある麺を作るには、**『かんすい』**による化学反応が必須なのよ!」
私は立ち上がった。
ないなら作る。それがリケジョの流儀だ。
そして、麺を打つには良質な小麦が必要だ。魔界の劣悪な小麦粉では、ボソボソの麺にしかならないだろう。
「行くわよ、ヴォルク。農場へ視察に行くわ」
「またか……。今度は何を作る気だ?」
兵站局長のヴォルクが、嫌な予感を顔に張り付かせてついてくる。
「決まってるでしょ。男たちの胃袋を鷲掴みにする、究極のスタミナ食……**『ラーメン』**よ!」
魔王城の裏手に広がる、広大な荒れ地。
そこは「農場」と呼ぶにはあまりに無惨な光景だった。
赤茶けた土はひび割れ、酸性雨の影響で草木は枯れ果てている。
その荒野の中心に、小山のように巨大な岩石の塊がうずくまっているのが見えた。
「……ヴォルク、あれは何? 岩山?」
「いや、あれは魔族だ。……この農場の警備と開拓を任せている、重装歩兵団長のタイタン殿だ」
ヴォルクが畏敬の念を込めて紹介する。
「タイタン……。ギリシャ神話の巨神族そのままね」
私が感心して見上げていると、その巨体がゆっくりと動いた。
全身がゴツゴツした岩盤で構成されたゴーレムのような姿。しかし、その岩の指先には、押し潰されて枯れた小さな花があった。
「……まただ。また、俺は殺してしまった……」
低く響く声には、深い悲しみが滲んでいた。
「ヴォルクか……。見ろ、この有様を。俺は花を愛でたいだけなのに……俺の体は重すぎて、触れるものすべてを砕き、土を固めてしまう。……俺は、破壊することしかできない呪われた存在なのだ」
タイタンは、魔王軍随一の怪力と防御力を誇る猛将だ。
しかしその内面は、誰よりも自然を愛し、生命の輝きに憧れる、詩人のような心を持っていた。
自分の巨体が植物を育てるのに不向きであることに、彼は深く傷ついているのだ。
「……デリケートな巨人ね」
私が呟くと、その足元から殺気立った声が飛んできた。
「おい、人間。何ジロジロ見てやがる」
タイタンの足元には、部下の兵士たち――オークやトロールからなる**「重装歩兵小隊」**が屯していた。
その中から、豚の顔をした巨漢のオークが、ドカッと立ち上がって立ちはだかった。
全身傷だらけで、隻眼の古強者といった風情だ。
「ここは遊び場じゃねえぞ。とっとと失せろ」
オークが鼻息荒く威嚇してくる。
ヴォルクが慌てて割って入った。
「よせ! 彼女は味野リカ。例の『魔薬ジャーキー』の開発者だ」
そして、私に向き直る。
「リカ、こっちはゴズ。この現場を仕切っている小隊長だ。口は悪いが、現場の信頼は厚い」
「ゴズ、ね」
私は名前を頭に刻み、彼を見上げた。
周りの兵士たちは皆、痩せこけて目が血走っている。
「腹減った……」「こんな石ころだらけの畑で、何ができるってんだ」という怨嗟の声が聞こえる。
「あなた達、毎日乾パンと泥スープで満足? 死ぬほど美味い麺料理を腹いっぱい食べたくない?」
ゴズの耳がピクリと動いた。
「……麺だと?」
「そう。ただし、材料がないわ。あなた達の『筋肉』と『労働力』を提供してくれるなら、報酬として現物支給する。どう?」
ゴズは鼻を鳴らした。
「ケッ、ジャーキーの件は聞いてるが……俺たちは腹が減ってイラついてんだ。もし不味いモン出したら、その細い首へし折るぞ」
「上等よ。その言葉、後悔させてあげるわ」
こうして、即席の「農場改革&ラーメン開発プロジェクト」が始まった。
まずは土壌改良だ。
「タイタン! あなたの力が必要よ!」
私が名前を呼ぶと、巨人がのっそりと顔を上げた。
「俺の力……? また何かを壊せというのか……」
「ええ、壊して! そこの石灰岩の山を、粉々に粉砕してほしいの!」
私は説明した。この土は酸性で死んでいる。生き返らせるには、アルカリ性の石灰が必要なのだと。
「破壊が再生に繋がることもあるのよ。あなたの怪力は、命を育むための力になるの!」
「……破壊が、再生に……」
タイタンの岩の瞳が、微かに光った気がした。
「わかった。やってみよう」
ズガァァァァン!!
タイタンの一撃が、岩山を粉々に砕いた。
出来上がった「消石灰」を畑に撒き、酸性の土を中和する。
さらに、厨房から出た生ゴミ堆肥を混ぜ込み、ゴズたちに耕させる。
「よし、土台はできた。次はスープ作りよ」
私は畑の脇に巨大な寸胴鍋を設置した。
材料は、大量の**「オークの骨」**と、香味野菜、そして水。
豚骨ラーメンの肝は、骨髄に含まれるコラーゲンをゼラチン化させ、さらに脂と水を乳化させて「白濁スープ」にすることだ。
「強火でガンガン煮込むのよ!」
私は火を焚き、鍋をかき混ぜた。
計算では、3時間ほどで白濁するはずだ。
……しかし。
「……おかしい」
数時間後。
鍋の中にあるのは、白濁したスープではなく、**「黒ずんだ泥水のような液体」と、その上に分離して浮いている「分厚い油の層」**だった。
「なんで!? なんで乳化しないの!?」
私は焦った。pH調整も完璧なはずだ。
味見をしてみる。……獣臭い。ただのお湯と油だ。これじゃ飲めない。
「おい、人間……」
ゴズが鍋を覗き込み、顔をしかめた。
「なんだこのドブ水は。俺たちに毒を食わせる気か?」
「ち、違うわ! 魔界の水が……硬水すぎるのよ! ミネラル分が多すぎて、乳化を阻害してるんだわ!」
私の計算ミスだ。日本の軟水とは勝手が違う。
兵士たちの視線が冷ややかになる。「やっぱり口だけかよ」「腹減った……殺すか」
「ま、待って! 次は麺よ! 麺さえ成功すれば……!」
私は冷や汗をかきながら、収穫したばかりの**「魔界小麦」**を製粉し、生地作りに入った。
かんすい代わりの草木灰の上澄みを加え、小麦粉と混ぜる。
黄色く発色し、独特の香りが立つ。ここまではいい。
問題は、こねる作業だ。
「くっ……!?」
生地に手を入れ、体重をかけた瞬間、私は驚愕した。
硬い。
尋常じゃなく硬い。
まるでゴムタイヤか、コンクリートを練っているようだ。
「なによこれ……グルテンの結合力が強すぎる……!」
魔界の過酷な環境で育った小麦は、タンパク質が異常に発達していたのだ。
私が全力で押しても、ビクともしない。
麺棒で伸ばそうとすると、バチン!と弾け飛んで、私の顔を直撃した。
「痛っ……!」
私は尻餅をついた。頬に赤い跡がつく。
目の前には、黒くて硬い、ただの小麦の塊。
スープは分離。麺はゴム。
完全な失敗だ。
「……ケッ、見てられねえな」
ゴズが唾を吐いた。
「期待した俺たちがバカだったぜ。おい野郎ども、引き上げるぞ」
兵士たちが背を向ける。
ヴォルクがオロオロしている。
悔しい。
科学が、理論が、魔界の暴力的な素材に負けた?
いいえ、違う。
私が、一人でなんとかしようと驕っていただけだ。
ここは魔界。私のひ弱な腕力や、前世の常識だけで太刀打ちできる場所じゃない。
私は泥だらけの手で立ち上がり、叫んだ。
プライドなんて、スープの底に沈めてやる。
「……待ちなさい!」
ゴズが足を止める。
「ゴズ! ……お願い、力を貸して!」
私は、彼の背中に向かって名前を叫んだ。
「あ?」
「私の計算ミスよ。一人じゃ無理だわ。このふざけた食材をねじ伏せるには、あなた達の『筋肉』が必要なのよ!」
私は深々と頭を下げた。
ゴズが私を睨みつける。
その時、それまで黙っていた巨人のタイタンが、ズシンと一歩進み出た。
「……ゴズ。彼女の手を見ろ」
タイタンが低い声で言った。
「泥だらけで、マメが潰れている。……口先だけの奴の手じゃない。彼女もまた、何かを作り出そうと戦っている戦士だ」
ゴズが私の方を振り返る。
しばらくの沈黙の後、彼は頭をガシガシと掻いた。
「……チッ。わーったよ、団長にそう言われちゃあな」
ゴズが腕まくりをした。その丸太のような腕に血管が浮き出る。
「どうすりゃいいんだ、チーフ? 暴れりゃいいのか?」
そこからは、戦争だった。
科学を、筋肉で強制執行する戦いだ。
「スープ班! トロール部隊、前へ!」
私は指示を飛ばす。
「硬水で乳化しないなら、物理的に叩き割るしかないわ! 巨大団扇で風を送って、火力を最大にしなさい! 鍋の中で竜巻を起こすのよ!」
「オウッ!!」
トロールたちがドラゴンの火炎袋をふいごで刺激し、業火を作り出す。
ボコボコボコッ!!
鍋の中がマグマのように激しく対流し、油と水が強制的に混ざり合っていく。
「製麺班! オーク部隊、靴を脱げ!」
私はゴムのような生地を、清潔な布で包み、地面に置いた。
「手じゃ無理よ。全員で踏むの! 敵の頭蓋骨だと思って、踵で踏み潰しなさい!」
「おうよ! 足踏み用意!」
ドスン! ドスン! ドスン!
数十人のオークたちが、掛け声に合わせて生地を踏みつける。
地響きが鳴り、土煙が舞う。
最強のコシを持つ魔界小麦が、重装歩兵の体重によって、徐々に、しかし確実に平らになっていく。
「もっと腰を入れて! グルテン組織を破壊するんじゃない、鍛え上げるのよ! イチ、ニ! イチ、ニ!」
「イチ、ニ! 麺! 麺!」
汗と土埃にまみれながら、私たちは一つの目的のために動いていた。
ただ、美味いものが食いたい。
その原始的な欲求が、種族を超えてリンクする。
「よし、スープ乳化! 白濁したわ!」
鍋の中は、クリーミーな白色に変わっていた。
「麺、圧延完了! カットするわよ!」
タイタンが巨大な包丁を振るい、踏み固められた生地を豪快に切り刻む。
極太で、縮れた、荒々しい麺が出来上がった。
仕上げだ。
丼に、**「白い粉」と「醤油ダレ」**を入れ、白濁スープを注ぐ。
茹で上がった麺を入れ、その上に茹で野菜と、厚切りの煮豚、そして刻みニンニクを山盛りにする。
最後に、背脂をチャッチャと振りかける。
「完成よ……! 『魔界流・豚骨醤油ラーメン(苦労マシマシ・背脂チャッチャ)』!!」
夕暮れの荒野。
作業を終えた兵士たちが、湯気を立てる丼を囲んで座り込んでいた。
誰も口を聞かない。
ただ、目の前の暴力的な香りに、喉を鳴らしている。
「……食おうぜ」
ゴズが箸を持った。
ズルッ。
極太麺を啜り上げる。
ガツンッ!!
ゴズの動きが止まった。
豚骨の濃厚なコク。醤油のキレ。白い粉の旨味。ニンニクの刺激。
それらが奔流となって押し寄せる。
そして何より、麺だ。
彼らが踏み固めた麺は、強烈な弾力で歯を押し返し、噛むたびに小麦の香りが爆発する。
「…………ッ!!」
ゴズが、天を仰いだ。
「……なんだこれは。泥水かと思ったが……違う」
ゴズの目から、涙がこぼれた。
「これは……俺たちの味だ。俺たちの汗と、筋肉と、クソみたいな労働が……こんなに美味いものに変わるのか……!」
その言葉を合図に、兵士たちが一斉に食らいついた。
ズルズルズル! ガツガツ!
「うめえ! なんだこれうめえ!」
「麺が生き物みたいだ! 喉越しが最高だ!」
「スープだけで飯が食えるぞ!」
タイタンも、岩の体から美しい花を一斉に咲かせながら、スープを飲み干している。
「大地の味がする……。俺が耕した土が、俺を生かしてくれる……。破壊だけじゃない、俺の手で『恵み』を生み出せたのだな……」
巨人の目から落ちた涙が、地面に染み込み、そこから新たな芽が吹いた。
私は、その光景を少し離れて見ていた。
私も泥だらけで、髪はボサボサだ。
手元の小さなお椀で、ラーメンを啜る。
「……ん。美味しい」
化学調味料だけじゃない。
やっぱり料理には、スパイスが必要なんだ。
「苦労」と「団結」という名の、最高のスパイスが。
「おい、チーフ!」
ゴズが丼を掲げて叫んだ。
「おかわりだ! まだあるか!?」
「あるわよ! 替え玉、いくらでも用意してあげるわ!」
歓声が上がる。
魔王城の裏庭に、ラーメンをすする音と、野太い笑い声が響き渡った。
翌日。
重装歩兵団の全員が、強烈な筋肉痛とニンニク臭で動けなくなり、魔王様からクレームが来た。
しかし、彼らの顔は晴れやかだった。
そして私は、魔王軍の中に最強の親衛隊――通称**「ラーメン部隊」**を手に入れたのだった。




