第1話:転生先はブラック厨房!? スライムは「保水剤」であり「極上スープ」の原料です
料理とは、魔法ではない。
それは、熱伝導、浸透圧、タンパク質の変性、そしてメイラード反応などが複雑に絡み合う、純然たる**「化学実験」**である。
日本の食品メーカー開発部で、「究極のカップ麺」開発に命を削っていた私――味野リカは、その真理を誰よりも理解していたつもりだ。
……まさか、その命が本当に削りきれて、過労死してしまうとは思わなかったけれど。
そして、目が覚めたらここだ。
薄暗く、じめじめとした石造りの部屋。
鼻を突くのは、獣臭さと、何かが腐敗したような酸っぱい臭い。
目の前には、巨大な釜と、ドス黒い肉塊を鉈で叩き切っている緑色の肌の小男――ゴブリン。
「……おい、新入り! 何ボケっとしてやがる! オーク肉の下処理を手伝え!」
ゴブリンに怒鳴られ、私は現状を再確認する。
どうやら私は、死んで異世界に転生したらしい。
しかも、キラキラしたお姫様や聖女様ではない。
魔王軍の胃袋を支える、魔王城・第三厨房の「下級給仕」として。
「……ハイハイ、わかったわよ」
私はため息交じりに立ち上がり、調理台に近づいた。
そこには、今夜の夕食になるらしい「オークの肉」が置かれていた。
剛毛が生えたままの皮。血抜きもされずに酸化して黒ずんだ赤身。そして、横には泥水のように濁ったスープが煮立っている。
「……何これ」
私の理系脳が、瞬時に警告音を鳴らした。
「pH調整も、酵素分解もされていない……。こんな硬直したタンパク質の塊を、ただ煮込むだけ? 旨味成分がドリップとして全部流れ出てるじゃない!」
私は頭を抱えた。
不衛生。非効率。そして何より――「マズそう」。
味への探求心だけで生きてきた私にとって、ここは地獄以上の地獄だった。
◇
「ぐぅぅ……。い、胃が……焼ける……」
その時、厨房の重い扉が開き、一人の男がよろめきながら入ってきた。
長身痩躯。軍服のような黒いコートを纏い、銀色の髪の間からは、犬科の動物のような「耳」がピンと立っている。
顔立ちは整っているが、顔色は青白く、今にも死にそうだ。
「ヴォルク様!?」
ゴブリンの料理長が慌てて駆け寄る。
彼はヴォルク。魔王軍の兵站局長を務める、人狼族の高官らしい。つまり、ここの責任者だ。
「ど、どうされましたか!?」
「胃が……痛いのだ……。連日の会議と、貴様らの作る油ギトギトの飯のせいで……胃壁が限界を迎えている……」
ヴォルクは脂汗を流しながら、カウンターに突っ伏した。
「頼む……何か、胃に優しくて、栄養のあるものをくれ……。このままでは餓死してしまう……」
「へい! それなら、精のつく『オークの生レバー』がありやすぜ!」
ゴブリンが得意げに、血の滴るレバーを差し出した。
「ひぃッ……!?」
ヴォルクが青ざめて口元を押さえる。当然だ。弱った胃腸に生肉、しかも寄生虫のリスクがある臓器など、自殺行為に等しい。
「待ちなさい」
見かねた私は、ゴブリンの手を掴んで止めた。
「あんた、上司を殺す気? そのレバー、表面に菌が付着してるわよ。食中毒待ったなしだわ」
「あぁ!? なんだ新入り、偉そうに!」
「どいてなさい。……ヴォルクさん、でしたっけ?」
私は白衣の袖をまくり、瀕死の狼男を見下ろした。
「消化が良く、滋養があり、かつ傷ついた胃粘膜を修復する食事がご所望ですね?」
「あ、ああ……。作れるのか……?」
「作れます。……材料は、そこにありますから」
私が指差したのは、厨房の床を這い回っている**「緑色のプルプルした物体」**だった。
「……は?」
ヴォルクとゴブリンの声が重なる。
「ス、スライム? あれは食材じゃねえぞ! 掃除用の雑巾代わりだ!」
「黙ってて。成分分析……水分98%。残りは植物性プランクトン由来の多糖類と、微量のタンパク質。……構造的には寒天やゼラチンに近いわね」
私は厨房の隅へ歩み寄り、逃げようとする**「グリーン・スライム」**を鷲掴みにした。
ピチャッ、と跳ねるスライム。
「よし、鮮度良好」
「お、おい貴様! 正気か!?」
ヴォルクが悲鳴を上げる。
「スライムなんて食ったら、胃の中で暴れて溶かされるぞ!」
「大丈夫です。物理的に細胞膜を破壊し、熱変性させれば、ただの『ゲル化剤』ですから」
私はスライムをまな板……ではなく、清潔なボウルに放り込んだ。
ここからは、料理ではない。**実験**の時間だ。
◇
「まず、不純物の除去!」
私はスライムに岩塩を振りかけ、浸透圧で体内の水分を排出させた。
キュ〜ッという音と共に、スライムが縮み、泥や汚れが浮き出てくる。
それを丁寧に水洗いし、純粋な「緑色のゼリー質」だけを残す。
「次に、臭み消し(マスキング)!」
厨房に吊るされていた乾燥ハーブ――魔界独自の毒草らしいが、成分を嗅ぐと『セロリ』や『ローリエ』に近い――を鍋に投入。
さらに、鶏ガラ……の代わりになりそうな「コカトリスの骨」を砕いて入れ、水と共に煮立たせる。
「そして、スライム投入!」
沸騰したスープに、処理済みのスライムを入れる。
一瞬で溶け出し、スープにとろみがつく。
ゴブリンたちが「うわぁ……」「魔女だ……」と引いているが、無視だ。
私は鍋の中を撹拌しながら、その色と粘度をチェックする。
悪くない。スライムに含まれる良質なコラーゲンと多糖類が溶け出し、極上のとろみスープになっている。
しかし、これだけでは足りない。
今のままでは、ただの「味が薄いゼリー寄せ」だ。
決定的な何かが欠けている。そう、**「旨味」**だ。
「……ふふ。出番ね、私のとっておき」
私は懐から、小さな小瓶を取り出した。
中に入っているのは、サラサラとした**「白い粉」**。
怪しい薬ではない。
これは、私が転生した際に唯一持っていた純度99.9%の魔法の粉。
すなわち、L-グルタミン酸ナトリウム。
化学調味料。うま味調味料。
呼び方は何でもいい。これは、料理を劇的に美味くする「科学の結晶」だ。
「……おい、なんだその白い粉は……? 毒か? それとも禁断の秘薬か……?」
ヴォルクが怯えた目で見てくる。
「ある意味では秘薬ですね。脳髄を直接刺激する、幸福の粉です」
私はニヤリと笑い、白い粉を鍋にパラパラと振り入れた。
サァッ……。
粉がスープに溶けた瞬間。
鍋から立ち上る湯気の香りが、劇的に変わった。
ただの獣臭いスープが、濃厚で、芳醇な、食欲をそそる「コンソメ」の香りへと進化したのだ。
グルタミン酸と、コカトリスの骨に含まれるイノシン酸。
この二つが掛け合わさることで、旨味は7倍から8倍にも増幅される。
これが**「旨味の相乗効果」**だ。
「仕上げに、氷魔法石で急冷!」
私は鍋を氷水で冷やし、スープをゲル状に固めた。
スライムの保水力が働き、プルプルのジュレが出来上がる。
「完成です。『スライムのコンソメジュレ・冷製仕立て』」
私はガラスの器にジュレを盛り付け、ヴォルクの前に差し出した。
黄金色に透き通るその料理は、薄汚い厨房の中で、そこだけ光り輝くオーパーツのように見えた。
◇
「……こ、これが……スライム……?」
ヴォルクは、信じられないものを見る目でスプーンを持った。
「見た目は……宝石のように美しいが……」
「とっとと食べてください。温度が上がると粘度が変わります」
急かされ、ヴォルクは恐る恐るスプーンを口に運んだ。
プルンッ、とした食感。
口に含んだ瞬間、体温でジュレが溶け出し、冷たいスープとなって舌の上に広がる。
カッッッ!!!!
ヴォルクの目が、限界まで見開かれた。
狼の耳がピンと立ち、尻尾がバッと膨らむ。
「――ッ!!??」
声にならない衝撃。
舌を駆け巡る、爆発的な旨味の奔流。
コカトリスの濃厚なコク。ハーブの爽やかな香り。
そして何より、白い粉がもたらす、脳が溶けるような強烈な「美味しい」という信号。
「う……うまいッ!!!」
ヴォルクが叫んだ。
「なんだこれは!? 喉越しは絹のように滑らかで、味は深淵のように深い! 痛んでいた胃壁に、慈雨のように染み渡っていく……!!」
ヴォルクの手が止まらない。
猛烈な勢いでジュレを掻き込んでいく。
「あぁ……熱い! 腹の底から力が湧いてくる!」
スライムの粘液成分が胃壁を保護し、さらに高濃度の栄養素とアミノ酸が、疲弊した体に即座に吸収されていく。
ヴォルクの青白かった顔色が、みるみるうちに紅潮し、筋肉がパンプアップしていくのが見える。
ドクン、ドクン!
魔力が活性化し、彼の周りに青白いオーラが立ち上り始めた。
「うおおおおおん!!」
ヴォルクが遠吠えを上げた。
「すごいぞ! 胃痛が消えた! というか、魔力が溢れて止まらん! 今なら勇者パーティーを単独で壊滅させられそうだ!!」
「……あ、やっぱり」
私は冷静に観察ノートを取り出した。
「魔界の食材と化学調味料を合わせると、ドーピング効果が出るのね。……メモメモ。『グルタミン酸による魔力回路の強制開放』っと」
完食したヴォルクは、荒い息をつきながら、私の方へ向き直った。
その瞳は、獲物を見る肉食獣のようにギラギラと輝き、そして潤んでいた。
「……貴様、名は?」
「味野リカです」
「リカ……! お前は天才だ! 魔界の救世主だ!」
ヴォルクが私の手を取り、ガシッと握手した。
「頼む! 俺の専属料理人になってくれ! いや、この厨房の全権を任せる! 好きなだけその『白い粉』を使っていいから、俺に美味いものを食わせてくれ!!」
熱烈なヘッドハンティング。
しかし、私は冷静にその手を振り払った。
「お断りします」
「なっ、なぜだ!?」
「環境が最悪だからです」
私は厨房を指差した。
「見てください、この不衛生な環境。床はベトベト、換気扇は油まみれ、調理器具は錆だらけ。こんな場所で料理なんて、科学への冒涜です」
私は仁王立ちになり、宣言した。
「私が料理を作る条件は一つ。**『完全な衛生管理』と『最新の調理機材』**を揃えること」
「……え?」
「まずはこの厨房を、無菌室レベルまで改装してもらいます。予算は青天井でお願いね?」
ヴォルクは呆気にとられていたが、口の中に残る極上の味の記憶には抗えなかったらしい。
彼は深く頷き、敬礼した。
「……わかった。兵站局長の権限において、全予算を投入しよう。だから頼む、明日の朝飯も作ってくれ……!」
交渉成立。
こうして、元リケジョ・味野リカによる、魔王城の食卓改革が幕を開けた。
明日からは、遠心分離機と高圧蒸気滅菌器の導入だ。
「ふふふ……楽しみね。次はドラゴンの火炎袋を使って、1000度の直火焼きステーキでも作ろうかしら」
私の呟きを聞いて、厨房のゴブリンたちが震え上がったことに、私は気づかなかった。




