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勇者の母

 ごめんくださあい。

 わたくし、西の果てにある国から来ました、ジルべ村の……まあ、名乗らなくても門が開くのね。随分と不用心ではないかしら。わたしが盗賊だったりしたらどうするつもりなの? とは言っても魔王の母君のお屋敷だものね、盲人の女など気にも留めない存在なのでしょう。勝手にお邪魔してもいいのかしら? いいわよね。門は開いたのだし。急を要しているのだもの。お邪魔するわ。

 さて。まずはどこかにぶち当たらないと。

 きっととても広いわよね。村より広かったらどうしよう? けれども私の視界よりは狭いに違いないわ。どこまでも何もないわけがないでしょうし。

 あら。

 案外とあっけなく杖先がぶつかった。石じゃない。これは壁? 門を出て、すぐ? そういう造りなのかしら。あら、あら、でもこの壁、何か音が──えっ。




「……何が起こったかは分かりませんが、わたしの前に、どなたかいらっしゃいますね」

 突然、ええきっとこの表現が正しいわ、放り出された、冷たくざらついた床から身を起こす。左手に握ったままの杖を置き、膝を揃えて、耳を傾けた。

「このお屋敷の方でしょうか。風の音がしません、床は、地べたではない。家の中に入れてくださったの? 一応、お声がけはしたのですけれど、不法に侵入した形となったのなら、ごめんなさい。そして、少しでいいのです、温情をいただけませんか。お話を聞いていただきたいのです。どうか」

 とても厚かましいことを言っていることは分かっている。この場で切り刻まれても文句は言えない。目が見えなくて良かったと少し思う。自分がバラバラになるところを見なくて済む。

「お願いいたします、どうか、お話だけ。この世に君臨する魔王様の、お母様に、わたくしはお話をするため山を越えて来たのです」

 床を、何かが擦る音。

 硬い何かが、ガリガリと。

 その音が少しずつ、わたしの近くまで寄ると、わたしの髪が冷たい風に揺らされた。吐息だわ。なぜかそう強く思い、そしていま、わたしの前にいる生き物は、わたしにきちんとその存在を知らせてくれているのだと察した。床を擦る音とは想像もつかないほど、細く、枝のようにしなやかな何かが、わたしの手に触れ、甲を滑る。

『旦那はどうした』

 滑った文字は人間の言葉だった。

 会話ができることに安堵し、口許が緩む。

「家に。置いてきました。ひどく止められたもので」

 甲を滑る文字が戸惑ったように皮膚を叩いてくる。

『一人で来たのか』

「いいえ、途中までは、案内の方と。随分と恐れられているのですね、この場所は。わたしには分かりませんが……どこも危険には変わりないので」

『馬鹿が』

「承知の上でございます」深く頷き、息遣いを探して顔を上げると、微かにまつ毛がそよぐくすぐったさがあった。「あなたは、何という方ですか。宜しければ、このお屋敷にいらっしゃるという魔王様のお母様に取り次いでいただけないでしょうか」 

『話なら私が聞く』

 それきり動かなくなった気配に、あまり我が儘も言っていられないと居住まいを正す。何せこちらは約束もなく押しかけてきた身なのだ。話を聞いて貰えるだけでも有難いと思わなければ。

「それでは。初めまして。わたくし、十九年前にこの世に生まれた勇者の、母にございます。魔族の方ならばご存知かもしれませんが、わたくしの息子が、先日、魔王を倒しに行くと家を出て行きました」

『噂はかねがね』

「ええ、そうでしょう。馬鹿なのです。わたしに似て。馬鹿は噂になりやすい」

『その馬鹿息子が、何だ』

「ひとさまのお子さんのところに出向くと言うのなら、まず、母親であるわたくしが挨拶に来るべきだと思いました」

『馬鹿が』

「息子は、まだ訪ねていませんよね。ご迷惑をおかけしていませんか」

『そういう話じゃないだろう』

「そういう話なのです」

 沈黙。

 それから目の前の生き物が身じろぐ音は、雪を踏みしめるように柔らかく、慎重に、軋んでいた。

『お前は一体、何の話をしにきた?』

「ですから、」

『息子の、命乞いか? 必要ない。分かっているだろう。勇者は、敗けない。魔王には。決して』

「わたしは、」

『まさかとは思うが、同情か? 魔王や、その母に対する』

 硝子を引っ掻くような笑い声だった。

『魔王は、罪の証だ。この世で最も大きく、深く、腕がいくつあっても足りないほど重い。裁けるのは、勇者だけだ』

「ですが魔王もその母親も何もしていないではありませんか」

『戦争でたくさん殺した』

「何百年も前の罪を、わたくしの息子に、裁けと言うのですか? 無関係なのに」

『権利がある。印を持って生まれた者には、絶対だ』

「ならばわたくしの息子が下した決断に、異議はないということですね」

『受け入れるだろう』

「それを聞いて安心しました」

『話が見えない』

「見えないものの中で、いちばん、面白いと思うのです。お話合いをするということは」

『無意味だ』

「でもあなたはお話をしてくれています。手にこうして、文字を、わたしたちの言葉で、伝えてくれています。無視をすることもできるのに、あなたはそうしていません。見えていないと言いながら、ちゃんと、わたしに向き合ってくれているではありませんか。そこに意味がないとは思えません。そして、確信しました。ええ。きっとわたしの息子なら、勇者ならば、それを成し遂げてくれるでしょう」

 魔王を倒しに行くと言った息子を、危うく、殴りかけたけれど。

 話し合いをすれば、早とちりだった。

「近々、わたくしの息子が魔王城に遊びに行くと言っていました。わたしや夫にも黙って魔族の言葉を練習して、お話合いをするために。今ごろ、遥か北にあるという毒の沼を渡っていることでしょう。勇者は、魔王とお友だちになりたいと言っていました」

「馬鹿な」

「その声」

 わたしは手の甲で震えている言葉だったものを握りしめ、心底安心して、笑いかけた。それは聞いたことのある、いつの間にかすっかり聞き慣れていたお友だちの声だった。

「あなただったのですね。お友だちに会えるとは思わなかった。嬉しいわ。ねえ、あなたはどうして、人間の言葉を覚えたの?」

「それは、」

 それは、だって、と彼女が拙く言った。「争いたく、なかったから」

「ならばお話合いをいたしましょう。魔王のお母様ともお話ができるといいのだけれど……。しまったわ。わたしも魔族の言葉を勉強しておくんだった。勢いと情熱だけで来てしまったわ」

「魔王の母は、あたくしです」

「まあ!」びっくりして手を叩く。「あらあら、そうなの? なあんだ、じゃああなたに教えてもらえばいいんじゃない! おやつでも持ってくるんだった、荷物になるかと思って……。いやだわ、わたし今どんなふうに見える? 泥だらけだとは思うんだけど、いやだ、お友だちの家を汚しちゃうわね。ごめんなさい。日を改めるわ。また遊びに来てもいい?」

「おまえ、ほんとうに、」

「面白い女?」

「ええ……。ねえ、あたくし、……聞いてもらいたいことが、たくさんあるの」

「何でも聞くわ。ねえわたしたち、お互い母親よ。何でも話して」

「あたくし、」 


 それからわたしたちはたくさんのお話をした。

 子どもの話は尽きなくて、ほとんどが悩み相談だった。

 彼女はとても、ずっと苦しい思いをしていて、そして後悔をしているようだった。

 

 わたしの息子は、魔王と仲良くできるかしら?

 きっと大丈夫でしょう。それからのお話が、とても楽しみだわ。

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