魔王の母
あたくしたち魔族が子を成すためには他族の命を奪うしかありません。
奪った命が多ければ多いほど、より強く、より邪悪な子どもが生まれるのです。そして最も数多くの命を奪い、宿し、そうして産み落とされた者が、やがて魔族の王となるのです。
あたくしはその魔王を産んでしまいました。
しかし子どもが欲しかったわけではありません。
およそ三百年前のことです。
酷い戦でございました。人間同士の争いは国境までを越え、魔族にも大いに影響を及ぼしました。あたくしは、自分の領土を守るために、多くの……人間を殺しました。お話合いでの解決はできそうにありませんでした。もどかしいことに、あたくしはそのとき、人間の言葉を話すことができなかったからです。戦争は百年続き、世界を覆い、皆が疲弊していました。あたくしはこの手で奪った人間の命を数えていました。それが、どこの、誰よりも、多くなったとき、抱えきれず、落としてしまいました。
そうして誕生した魔王が、長かった戦争を一夜にして終わらせました。
圧倒的な力の前では、人間も魔族も成すすべがなく、降伏するしかなかったのです。
世界が。
魔王を恐れ、ひれ伏しました。
あたくしは魔王を──自分の子どもを殺そうとしました。
敵いませんでした。あたくしの腕をいくつか吹き飛ばした彼の表情が、ニ百年経った今でも忘れられません。それはあたくしが殺した人間たちの表情によく似ていました。恐怖や、怒り、悲しみ、深い絶望。魔族の子は殺した種族の姿に似るのです。彼は、あたくしが殺した人間と似た姿で、あたくしの腕を吹き飛ばし、四つの瞳から透明な雫をこぼしていました。それが涙だということを、あたくしは知っていました。
彼を殺すことはできませんでした。
どうして。
それから二百年、ずっとそう思っていました。
どうして。
産んでしまったのだろう。
どうして抱えていられなかったのだろう。
あたくしの腕の数でも、奪った命が重すぎて、耐えられなかった。
耐えるべきだった。
そうしていたら、きっと誰かが、きっと、戦争を終わらせてくれたでしょう。
あたくしは魔王など産みたくはなかった。
産んでしまったら、だって魔王は、勇者に倒されてしまいます。
世界は、そうなっている。遥か昔から。魔族も、人間も、皆が知っています。魔王が生まれれば、勇者が生まれる。誰が自分の子どもを死地へ見送りたいと思うでしょう? せっかく生まれた、命を。戦わせて、その命、果てるまで。
宿命というものでしょうか。
他の命を奪い、子を成す魔族は、長い歴史の中で、大きな戦争のときにしか魔王が誕生しません。魔族は長命です。種の繁栄にさほど興味がありません。魔族の容姿で蜘蛛や山羊が多いのはそのためです。身内が減ったと感じたとき、昆虫や野生動物に手をかけ、子を宿す。人型の魔族が滅多にいないのは、それが理由なのです。歴代の魔王も、漏れなく人の形をしていました。そして皆、勇者に倒されています。
魔王を産み、戦争が終わって二百年、あたくしはずっと怯えていました。
いつ勇者が生まれるのか。
いつあたくしの子どもが勇者に殺されてしまうのか。
そうなる前に、いっそあたくしがこの手で。
毒を盛っても、溶岩に突き落としても、雪山に埋めようとしても、全ては失敗に終わりました。あたくしが奪ってきた命は皆すべて重く、愛しく、そして尊いものでした。求められて生まれてきた命でした。あたくしはその命を奪い、産み、そうして生まれてしまった魔王を、何度も、また、殺そうとしました。
二百年間。勇者は中々生まれず──もしかしたら、生まれていたのかもしれません。印のついた子どもを、親が隠して育ててきた例が、いくつかあります──飢饉も、天災も、疫病も、時間と共に乗り越え、すっかり落ち着いてしまった今の世で、とうとう、勇者が生まれたと風の噂で聞きつけました。
ああ。
あたくしの子どもが殺されてしまう。
どうすれば良いのか分かりませんでした。ただ、強く、嫌だ、と思いました。
勝手なものでしょう。あたくしは何度もあの子を殺そうとしたのに。
愚かにも、その衝動のまま、生まれた勇者をこっそりと見に行きました。殺してしまえばいい、と思っていたのかもしれません。勇者さえいなければ、あたくしの子どもはまだ生きていられると。
そこには、確かに勇者の印のついた生まれたばかりの赤ん坊と、それを祝福する人間たち、そして隅で杖を握りしめ静かに涙を流しているひとりの女がおりました。
その女が赤ん坊の母親であることは、においで分かりました。あたくしが傍らに立っても、赤ん坊を抱いて祝福を捧げている人だかりの方へ顔を向けていました。
「お前、なぜ、泣いているの」
あたくしが人間の言葉を発したのは、戦争の時以来でした。戦争の間、必死になって覚えた人間の言葉が、初めて、会話となりました。
「……わたし、嫌なんです」
「なにが嫌なの」
「子どもに、ひとを殺させたくありません」
「ひ、と? 魔王のことか」
「はい」
「……滅多なことを口にするな。異端審問にかけられるぞ」
女はそこで初めてあたくしの方へ顔を向け、閉じていた瞼を僅かに開けて、彷徨うように首を傾げました。あたくしは人間の振りをしていましたが、それがもしや無駄なことなのではと思い、目の前で、腕を一本多く生やしてやろうかと考えました。しませんでしたが。「……お前、目が見えないのね」
「はい」
女は素直に頷き、握っていた杖をささくれだらけの指で撫でました。「生まれてからずうっと。これはきっと天からのメッセージなのだと、よく言って聞かされました」
「そう」
「ですがわたしは、そんなもの、信じていません」
「なに?」
「目が見えないのは、そういう病気だったというだけです」
「ええ、ええ、そうね」
「わたしの息子が勇者の印がついたのも、何か理由があったからだとは思えません」
「……魔王を倒すためでは?」
「ひとを殺すことは、悪いことです。たとえ如何なる理由があろうとも」
「そうよ」その通りだわ。「でも、魔王はひとではないわ」
女はあたくしを真っ直ぐ見上げて言いました。
「ですが、魔王も母から生まれたと聞きます。わたしは自分の息子に、誰かの大事な子どもを殺してほしくはありません」
それから、さめざめと泣きだしました。
「わたし、目が見えないながらも清く正しく生きてきたつもりです。嘘も吐かなかったし、盗みもしなかった。殺しなんて以ての外。夫以外の男と遊んだりもしなかったわ。子どもにもそうしろと言うわけじゃありません、ただ、悪いことは悪いことだと知って欲しいだけなのです。殺しを大義名分とされたら、どうやって抗えばいいんでしょう。わたしの倫理観はきっと通用しなくなります。そうなったら、殴ってでも、止めるべきなの? 生まれて初めて殴る相手が自分の息子だなんて、とても耐えられません。あんなにお腹を痛めて……産んだのに。見ることもできない可愛い顔を殴れって言うの? 無理だわ、できません。でも、やるわ。あの子がいつか、周りに流されて魔王を倒しに行くと言う日がきたら、徹底的に叩きのめす。お話合いの始まりよ」
「おまえ、」あたくしは適切な言葉が見つからず、少しの間の後、一番合っていると思われる言葉を訝りながら吐きました。「面白い女」
「よく言われます」
女は泣いていたはずが、ころりと笑いました。「目がこれなもので、口ばかり達者になってしまったの」
あたくしは何と反応したらいいか分からず、もう一度、今度は確信をもって言いました。「面白い女だわ、お前」
勇者の母親は面白く、不思議で、そして誰より強く見えました。
戦争でたくさんの人間を殺してきたあたくしとは何もかもが違うのに、なぜか、本当に。とても強く見えたのです。
それからあたくしは、何度も勇者の母親を訪ねるようになりました。当初は少しだけ、赤ん坊のうちに勇者を殺してしまえばいいと考えていましたが、彼女と会って話すうちに、そんな考えは消えてなくなっていきました。
勇者はすくすくと育ちました。
彼女から聞いた話によると、そして十八歳の誕生日、彼は覚悟を決めた顔で言ったといいます。
「母さん、おれ、魔王を倒しに行ってくる」
彼女は生まれてはじめて、殴りかかるため拳を振り上げたそうです。