レオ・オルデンバーグ「サードプレイス」
レオ・オルデンバーグ「サードプレイス コミュニティの核になる『とびきり居心地のよい場所』」(みすず書房)読了。
解説が酔いどれ学者のモラスキーで、表紙が西荻窪の戎であるから、早く読みたかったのに、4500円という定価でなかなかに読めなかったがネットでクーポンやポイント割引の古本でゲットして、ようやく読了。
第一の場所~家庭・家族、第二の場所~会社・勤め先とは別の第三の場所サードプレイスを都市論の社会学者が論じたもの。
約10年前に出て、約1年前に15刷が出たからみすず書房の人文書にしては売れた方だと思う。
英国のパブ、仏国のカフェにビストロ、独国のビアガーデンと欧州には語らうサードプレイスがあり、そこでは約束もしてないのに、いやむしろ約束がないから気楽(強制力がない)で、常連という店主でもリーダーでもないけど、自然とルールを教える存在が何人かいて、酒の飲みすぎで吐くような奴や無口な輩はなんとなく排除し、階級や人種関係なく会話で楽しみ、話過ぎたらのどを潤す酒や茶を飲むハレの場所なのだが、これが米国にはない。
米国はティム・バートンの映画にあるような画一的な家屋が並ぶ、都会でも田舎でもない郊外が、そんなサードプレイスを排除して、米国人とお父さんたちは会社の重圧と家族の憤懣を吐き出す場所がない!というのが80年代末期に書かれた本書の主題である。
この本はとても面白く、むしろサードプレイスこそ、第一の家族や第二の勤め先より早く、封建時代のどの国にもあった〈若衆宿〉のようなものも例に挙げており、同時に、反論で「飲ん兵衛たち飲んでいるだけでなく、政治活動やボランティアしていた方が有意義じゃあないか?」があるが、米国独立戦争の発火点に西部劇に出てくるような居酒屋は重要な場であり、ファシズムや共産主義が外食先で3人以上話すな!と法律を作ることから、むしろサードプレイスこそが新しい革新の発想の地であることが判る。
ここに実存主義者の作家たちが集まったカフェ・ドゥマゴや江戸の文人が集った木村蒹葭堂も想起するだろう。
だがなにより私は現在東京を思い描きながら本書を読んだ。
日本は居酒屋が多い。
名古屋市に4年住んでいて、あすこも巨大ショッピングモールで自動車を使い週末に買い物してね!のライフスタイルと都市計画だから、酒は飲めないのだが、それでも居酒屋という個人商店は点在していた。
この5年くらい、飲み仲間の上司と煮込み・焼きとんにハマり、いざ書籍やネットで調べて美味い店を探し求めたが、実際、私が西荻窪で、上司が千葉ということもあろうが、総武線沿線には名店が多く、船橋ら千葉エリア、新小岩ら葛飾エリア、秋葉原ら東京エリア、四谷ら新宿エリア、そして中野から吉祥寺の地帯とこの5年間で多分200件は二人で、焼きとんと煮込みの美味い店に行った、酷い時は週五で飲んだ。
で、私はとてもシャイな男なんだが、上司は直ぐに店主や隣に座った客と仲良くなる。
何度か奢ったり、逆に店主からサービスを受けたり、それを元で仕事を受けたり、黒人や女子大生とも話したこともあった。
見事なサードプレイスを体現していた。
でもそれ以外ならば、行列のできるラーメン屋(特に二郎系)は会話しないが、凄い同志意識があるし、なによりコミケがあって、アレこそ会社と家族とは違う第三の領域なのだが、それが年に5日であることが面白い。
そのコミケの発祥は米国のSF大会なのだが、映画で見る米国のSFおたくこそ家族や勤め先とは別の〈同志〉がいる描写をされているのである。
ゼロ年代以降、おたく的なものがサブカル的なものを駆逐したイメージがあったが、サブカルのライブハウスや中古レコード(ヴィレッジヴァンガードでも可)はサードプレイスを形成できなかったのであろう。
それとそれではこの20年は席巻してきたネット内はどうだろうか。
確かにTVと違いインタラクティブで、youtubeやTikTokはひとを集められるコンテンツであり、談論風発だ。
私、酒ないと人としゃべれないのですよ。
対話だと情報量が多いからだと思っている。
声の調子、目線の動かし方、身振り手振り、仕草や小道具、と処理に追いつかないのだが、飲酒でデチューンすると楽しく話せる。
実際、理髪店で髪の毛が落ちてくるので、目をつむっているから話せる。
でも未だにシラフではかなり仲のいい相手でも15分以上話すとボーつとしたり、耳の聞こえが悪くなる。
おそらくネット内のコミュニケーションにはこういう文字情報や動画以外の情報がない。
私はそれで難儀しているが、それこそがサードプレイスで味わえる情報なのだ。
色々と書いたが、サードプレイスはそれでも皆が求めるから残り続ける、ネットやコロナという昔では考えられないものに駆逐されようともしている。
学生時代はそれがサードプレイスだったことも思い出した。