運命と自由の対立
さて、突然だが
『貴方は運命を信じるか?』
某神父のような台詞で申し訳ないのだが、この問いは非常に興味深いものだ。
とはいってもまだピンとこない人が多いだろう。
そこで、まずは運命について話をしようと思う。
運命の定義。それは人には変えることの出来ない意志だ。
そして運命というのはわりと身近に存在している。
例えば、人は皆平等に必ず死ぬということ。子は生まれる親(環境)を選ぶことができないということ。等がある。
人は必ず老い必ず天寿を全うする。技術の発展により老いを遅らせることは出来ても最後に待っているのは皆平等な『死』である。
また、子が生まれる環境についても同じようなことが言える。いや、言えてしまうのだ。
愛がない親よりは愛を注いでくれる親が良いだろうし、お金が無い環境よりかはお金がある環境の方が良いだろう。
しかし我々は選択出来なかった。自分の数億の同志を蹴散らした先に待っていたのはランダムで平等な『生』であった。
このように『運命』というのは皆平等に降りかかってくるものであり、我々が選択する余地は無い。
『運命』の対立概念は『自由』だ。
選択する余地の無い『運命』と選択する余地しかない『自由』
皆に平等に降りかかる『運命』と皆に平等には与えられない『自由』
さて、話題を戻そう。
『貴方は運命を信じるか?』
この話題は別に運命のことだけを話しているのではない。
私達に平等に降りかかる『運命』。その上で私達に『自由』に選択出来る意志は残されているのか?
という問いだ。ちなみに答えは存在しない。
そのため、ここまで読んで貰ったらブラウザバックして貰っても構わない。
しかし、少し考えて欲しい。
『ここでブラウザバックをして別の小説を読むのは果たして貴方の自由選択意志なのか?』を。
おかしい奴だなと思ったそこの貴方。
そう。私はおかしな事を言っている。
読み続けることを決めた貴方にも同じことを言える。
前文を読んで仕方なく読み続けることを決めたのか、ただただ私の独り言に興味があって読み続けることを決めたのか。
そこに自由選択意志はあるのか?
こんな話を聴いたことはあるだろうか。
私達の選択やそこからの未来ははるか昔から決まっていて、私達は選択しているようにみえて実は運命通りに動いていると。
この話はどちらかというと『運命』を信じている話だ。私達に自由選択意志は存在しないということになる。
生まれる環境を運命によって決められ、そこで育っていくうちに人格が形成されていき、その人格で後々多くの選択をしていくため、この話は確かに合っているような気もする。
しかし私はこの話に少々異議を唱えたい。
確かに運命は一定の枠組みや方向性を指し示しているものの、その中で私たちは自由に選択できる。と私は思う。
例えば、運命は「最終的な目的地」を設定しているが、その目的地に向かう過程は私たちの選択次第で変わる。という考え方だ。
人の最後に必ず待ち受ける『死』という『運命』
『運命』はとても強大なものだ。それこそ人の一生を決めている。
しかし人の『意思』もそれに匹敵するぐらい大きな存在だと考えている。
『運命』によって決められた『生』と『死』
しかしその間の選択は『運命』でなく、私達の『意思』で決めることが出来ると。
だから私の答えは、
『運命に抗うほどの意思が私達にはある』
先述した通り、この問に対して誰にでも認められるような答えは存在しない。
全て運命によって決まっているという考え方もあれば運命なんてそもそも存在しないという考え方もある。
この問いの答えは人それぞれだ。
ただ、私達の人生には多少の選択の余地があると考えた方が生きる上で少しばかり楽しいだろう。
自由に関しても今後色々書きたい