1.推しあう兄妹
尻が痛い。
たかだか馬車に長時間乗っている程度のことで、こんなにも身体に負担があるだなんて思ってもみなかった。
(ちゃんと舗装された道路って、実はそれだけで快適な日常生活にかなり貢献してたんだな……)
失って初めて気づくとは、まさにこういうことを言うのかもしれない。
ふと、隣に座っている妹・エミリーはどうかと気になって、声を掛ける。
「おまえは大丈夫か? お尻」
「お尻? なんで? もしかしておにーちゃん、お尻痛いの?」
まだ9歳、かわいい盛りのエミリーは、心から不思議そうに首を傾げながら僕を見あげた。その仕草自体が本当にかわいい。推せる。
だが、兄には威厳が必要だ。過剰に兄バカな部分を大事な妹に見せるわけにはいかないため、緩みそうになる頬をこらえながら答える。
「こんなにガタガタ揺れてたら、痛くもなるよ。正直、何度乗っても全然慣れる気がしない」
そう、舗装されていない道を馬車で移動するのは、なにも今回が初めてというわけではなかった。この世界に来てからというもの、移動はもっぱらそんな感じだったのだが、今回が最も長距離移動であったため、特に身体へのダメージがあったのだろう。
てっきりエミリーも同じかと思っていたのだが、予想に反して彼女は小さな胸を張る。
「エミリーはへーき! だっておにーちゃんよりずっと軽いもんっ」
「え? 軽いと平気なのか?」
言われた理由が一瞬ピンとこなかったが、考えてみれば尻への圧迫は自分の体重に起因するものでもある。体重が軽ければ負担が少ないのは、正しいのかもしれない。
(相変わらず賢いなぁ、僕のエミリーは)
感心する兄をよそに、彼女は無邪気そのものだ。
「このガタゴトも、ジェットコースターみたいで楽しいよ! 石に乗りあげると身体が浮くみたい!」
「それが痛いんだけどなぁ」
「ほら見て、おにーちゃん! もう町が見えるよ~。だから頑張って!」
エミリーが会心の笑顔で指さした窓の向こうには、確かに小さな町並みが見えた。それこそ中世のヨーロッパを模したような。この世界ではもう、見飽きたものだ。
だからこそ僕は、結局エミリーばかり見ていた。
(この笑顔と一緒に、絶対元の世界に帰るんだ……!)
改めて、そんな決意をしながら。
◆ ◇ ◆
新しい町に着いたら、まずは宿を確保するのがいつもの流れだ。
早速宿屋を訪ねると、運良く部屋が空いていたので、すぐに宿泊の手続きを行うことにする。
「じゃ、ここにサインしてね」
「は、はい」
受付で宿帳に名前を書く。
たったそれだけのことが、今の僕にとってはいちばん緊張する瞬間だ。
羽根のついた大袈裟なペンの先にインクをつけて、表面がガサついた滑りの悪い紙に書きこむ。僕とエミリーの、2人分。
その名前を見た受付のおばさんは――大きく目を見開いて大声をあげた。
「もしかして……賢者のヒューゴさまかい!?」
(やっぱりここでもかぁ)
宿をとるだけでなく、受付でこういった反応をされるところもいつもどおり、もはやセット展開と呼んでいい。
僕が小さく息を吐いているあいだに、隣のエミリーが答える。
「そうだよ! おにーちゃんは偉大な賢者さまだよ!」
「へぇ、すごいねぇ」
おばさんはエミリーを軽くあしらったあと、改めて僕のほうを見た。
「悪いけど、身分を証明するものはあるかい? 賢者ならタダで泊まれるっていうんで、最近は騙る人も多いって聞くからさ」
鋭い視線を向けられても、慌てることはない。
なぜなら僕は、この世界では本当に『賢者』として扱われているからだ。
(賢者って普通じーさんなイメージだから、まだ16歳の僕には荷が重い感じがするけど……)
事実としてそうなっているのだから、仕方ない。
僕はズボンのポケットから『賢者の石板』を取り出すと、おばさんに見せた。
「これが世界にひとつしかない石板……らしいです」
目の前で光らせてやると、おばさんは感嘆の声をあげた。
「すごい! こんなの見たことないよっ。間違いない、あんたは本物の賢者さまだ!!」
おばさんがひときわ大きな声を出したものだから、隣接する酒場や通りを歩いていた人々が、何事かと覗きこんでくる。
「あれが賢者さま? まだ子どもじゃないか!」
「でもすごい知識を持ってるって噂だよ」
「王さまも頭があがらないんだって?」
「世界中を旅してるって、ほんとだったんだ~」
(うう、なんか珍獣にでもなった気分……)
これもなかなか慣れない。というか、この世界に慣れられる気がしない。
「あ、あの。部屋に案内してもらえますか?」
早くこの状況から脱したくて受付のおばさんを促すと、原因をつくった彼女はハッハと豪快に笑った。
「普段は案内なんてしないけど、仕方ないね! ついておいで」
僕らにそう告げたあと、野次馬たちに向かって叫ぶ。
「宿泊客以外は、立入禁止だよ!」
その怒声が効いたのか、多くの野次馬たちが立ち去ろうとするなか――
「この町に賢者さまが来たって本当ですか!?」
逆に飛びこんできたのは、きちっとした身なりの若い男性だった。
(若いと言っても、当然僕よりは上だけど……25歳くらいかな)
受付のおばさんの知り合いだったらしく、すぐさま声を掛ける。
「なんだいハリス、そんなに息を切らして。賢者さまになにか用なのかい?」
(あれ? 他の野次馬みたいに邪険に扱わないな。もしかしてお偉いさん?)
そんな僕の予想は、多分大体合っていた。
「町長が、魔モノに殺されたみたいなんです! それで、調査をお願いしたくて……」
「なんだって!?」
(――ああ、またか)
セット展開の最後を飾るのは、いつもこれ。
僕らは事件に巻きこまれる。
それがこの世界での、日常なのだ――。