第五節 再スタート
温めていた仕事が再スタートします。
第一話 再開の嬉しさ
<椎名の仕事: 再開への期待>
「椎名、ちょっといいか?」
会議から戻る途中、中嶋さんが声をかけてきた。
「お前が以前やってたAIプロジェクトのことなんだが、上から再度進めるように頭出しがあった。
ただ、慎重に進めないと、個人情報やモラルの観点もあるから、顧客層というか導入ターゲットとサービス内容を検討したくてな。
今の企画で忙しいところすまんが、企画書の叩きを来週初めに出してくれないか?」
俺はようやく自分の作品が認められた気がして、心が跳ねた。アダンが役所を押さえてくれたお陰もあるのだろう。
分かりましたと伝え、俺は次の打ち合わせに向かおうとしていた中嶋さんに再び声をかけた。
「中嶋さん、すみません。実はお話ししたいことがあり、今週どこかで軽く飲んで帰れませんか?仕事の件もなんですが、プライベートのことでも少し」
中嶋さんは察しの良い方だ。わかった、と頷き、じゃ明日にしようと言って会議に向かった。
俺は同性婚の中嶋さんのプライベートをあまりの知らない。アダンを好きになってから、俺なりに色々考えたが、まだ分からないことも多い。
実際の経験者に話しを聞き、アドバイスをもらいたかった。アダンの帰任まで残された時間、出来ることをしたい。
自席に戻ると、アダンの部の同僚の谷藤さんがいた。
「あ、椎名さん、お戻りですね。こちらの資料を大川専務から預かって来ました。何でも、今度進められるAIプロジェクトの規約についての叩き案だそうです。お目通しください。奈木さんが大方目検を入れているので、商品化は恐らく問題なさそうです。
奈木さんは午後からセキュリティ庁にお戻りで、今週はあちらでの勤務となりそうなので私に引き継がれました。よかったら、この後ご説明させてください」
お礼を言って、説明を受けることにした。
谷藤はテキパキと要点を押さえて説明してくれた。何でもそうだが、規約やガイドラインがないと、せっかく良い製品もパフォーマンスを発揮出来ないし、ユーザーに誤利用されてしまう。
そのため、来週までの企画書の叩きとして、アダンのこの規約はとても役に立ちそうだ。
「椎名さん、説明は以上です。ご不明点などありましたら、いつでもメールでも良いのでご連絡ください。
ところで話は変わりますが、奈木さんの送別会日程を早めに決めたいと思います。候補日をあとでいくつか送りますのでご返信いただけますか?
恐らく奈木さん、帰任までバタバタされるので、もう押さえないとなんです。
奈木さんの後任は、大川専務が検討中とのことです」
俺は谷藤さんに丁寧にお礼を伝えた。
谷藤さんはもう少し話しをしたそうだったが、俺の忙しい様子を見て、そのまま立ち去った。
俺は考えを整理するため、コーヒーを買いにカフェエリアに向かった。
アダンの告白を聞いてから二週間近く経つ。
俺は今週も会社で会えないこと、帰任したらプライベートでしか会話出来ないことに、一抹の寂しさを感じていた。
携帯で連絡を取り合っているとは言え、恋心を自覚してからのこの距離感は辛いものがあった。
お互い忙しい立場だ。プライベートではどのくらい会えるんだろうか。付き合ったとして、アダンに仕事以外で、俺は何をしてあげられるんだろうかと。
はぁ、とため息をつきながら窓辺に腰をかけて、コーヒーをひと口飲んだ。口の中に甘い恋心と苦いコーヒーの香りが漂った。
西日を浴びたビル群が紅く輝き、皇居の緑との対比を鮮明にさせる。
徐々に暮れていく都会の街並みを、俺は静かに見つめていた。
第二話 つのる思い
<椎名の気持ち: 恋心の重さ>
はぁ、今日はここまでにするか。
俺は企画書を保存して、ノロノロと席を立った。
谷藤さんから規約を受け取ってから4日、俺はひたすら仕事に没頭した。
来週までに企画書を作るためには、プロジェクト再立ち上げに関する予算案はじめ、スケジュールやら諸々の作成が必要だ。
きちんと息抜きしておかないと、アダンに会った時に、また抜け殻になってと怒られる。
俺は帰宅を急いだ。
「椎名!遅いな、今帰りか?」
思いもかけない声で振り向くと、アダンが笑って、よぉ、と手をあげている。
髪はしどけなくはねて、ネクタイを心持ち緩めてラフな印象だ。
「お前、今週はセキュリティ庁でなかったのか?こんな遅くに会社戻ってきてどうした?」
「いや、今日はオフィスドクターの仕事の方。面談の申し込みが多くて、長井さんの手が回らなくてさ。俺も最後に経過看たり面談しておきたい社員さんが、何人かいるんだ。これから帰り?一緒に帰らない?」
俺は心が弾んだ。アダンの顔を見ると、仕事の疲れが飛ぶようだ。
「いいぞ!せっかくだから何か食わないか?遅いからこの辺の店は混んでそうだな。
以前一緒に行ったカフェ・バーはどうだ?軽く食べられるし、お互いの家に近いし」
いいね、とアダンは答えて、足取りも軽く2人でオフィスを後にした。
・・・・・
「ここのレコード、センス良いな。今の時間と空間を切り取ったみたいに、ピッタリと寄り添うな」
アダンは俺の感想を聞いて微笑んで、ピザをつまんだ。
明日も仕事のため、今日はアルコールを控え、2人ともアイスコーヒーにした。
「椎名、レコードって不思議だよな。古い曲、ストリーミングだったらスキップしそうな曲なのに、まったりと聴きたくなる。音源が違うと言うか、音の世界観が違う気がする」
アダンの感想が的をついており、俺は思わず身を乗り出して話した。
「そうなんだよ、デジタル化された音楽メディアでは表現できない、アナログ独特のあたたかさ、ふくよかさの魅力があるんだよ。
でもそれって数値では表現できない感性的な領域になるんだ。もし数値で分かればデジタル音源の音もレコードのように変えることができるからな」
なるほどな、とアダンは興味深そうに聞いている。
「だから思うんだ、レコードには、レコードを所有し、レコードで聴く楽しみがある。そう言った、所有することで発生する感性の振り幅みたいのが音に深みを与えるのかな?
だからすごく精神的なものと言える気がする。ま、その分野はアダンの専門の分野か」
アダンはうんうんと、微笑んで言った。
「そうなんだよ、人間の脳って、いや、人間の存在って不思議でさ、数値化はもちろん、物理的にありえない何らかのフィルターがあるんだよ。
それが五感に作用して、人それぞれの個性や感性を作る。全くの未知だよな。
だからお前がこの未知をプログラム化してAIを活用して、本気で凄いと思ってる」
アダンはいつも俺に思いやりのある言葉で返してくれる。それがこそばゆくも、嬉しく感じる。
アダンといると楽しかった週末を思い出してしまう。
思い切って俺は提案してみた。
「なあ、アダン。今週末にうちに来ないか?せっかくだからレコード聞いてもらいたくてさ。それにいつもご馳走になってるから、今週末は俺が作るよ。
その…まだ付きあってる訳でないけど、週末空いてたら一緒にいたい」
アダンはふわっと笑顔を見せて、良いよと了承してくれた。俺も週末会いたかったと照れて笑い、そして、レコード楽しみだと付け加えた。
俺たちは何だか照れ臭くなり、明日の仕事もあるし、そろそろ帰ろうと席を立った。
帰り際、アダンは東京の明るい夜空を見上げた。
今日は雲で月が見えないな、と。
そして、明日は雨になりそうだと呟いた。
とても残念そうなその言い方に、俺は別れ惜しくなり、俺はアダンを住宅街の公園のベンチに誘い、腰掛けた。
そしてアダンを抱き寄せた。
「椎名?どうした?今日は何だか思い詰めてる気がする。仕事で何かあったか?」
アダンの綺麗な瞳が揺れている。こんな瞳を見ていては理性が効かない。あまり直視しないほうが良さそうだ。
「いいや、週末ゆっくり話そう。今日はリソース足りない俺を、アダンで補充だ。癒やされたくてさ。
抱きしめるのはいいだろ?フランス式まで濃厚でないし」
アダンはふはは、と破顔して、俺の頬にキスをした。
そして、補充するならもっと強く抱かなきゃ、と俺にしがみついてきた。
ふわりとアダンの好きなホワイトムスクの香りがした。柔軟剤か何かだろうが、癒される香りだ。
俺は思わずアダンの首元に顔を埋め、その香りを堪能した。
不意に身体が熱くなり、肩に手をかけて身体を離した。アダンは俺を首をかしげて見上げる。
俺はアダンを再度抱き寄せた。
そして、思い切ってアダンの厚い唇に自分の唇を押し当て、嫌がらないのを確認してから、下唇を甘噛みして更に強く唇を押し当てた。
んん、っとアダンが言葉にならない甘い声をあげて、俺のシャツを強く掴む。
俺は舌をアダンの口内に進めて、舌を絡み付けた。そこからは夢中でアダンを激しく貪った。
気がつくと、俺はアダンの頭を両手で固定して、何度も舌を絡めて鳴かせていた。
ようやく唇を離すと、アダンは目尻に涙をためて、肩で息をしていた。
「…ごめん、ちょっと急だったよな。俺、アダンが欲しいみたいだ。まだ正式な答え出してないのに、ずるいよな。身体だけが先に反応してる、ごめん」
俺の顔がよほど余裕なかったのだろう。
アダンは心配そうに俺の肩に顔を埋めて言った。
「いいよ、嬉しい、、お前のキス、気持ちいい。俺を抱いてからでもいい、付き合う答え出すの。だって男は初めてだろ?
抱いたら気持ちも冷めるかもだし、そもそも抱けないかもだしな。でも、それでいい。俺は椎名に抱かれたい」
俺はアダンの顔をまじまじ見つめた。
そんなに簡単に手を出したくない。でも抱いて愛情を確かめたい。本気で思った。
「アダン、続きは週末、明後日な。
帰任までに答え出すって言ったけど、週末には返事をさせてくれ。俺の家に来て。待ってる」
アダンは、黙って頷いて、俺の胸に顔を埋めた。
俺はその華奢な肩を抱き寄せて、まるで自分を落ち着かせるかのようにアダンの背中を優しく撫でた。
何度か恋は経験したが、自分がこんなに誰かを無意識に求めてしまう恋に落ちるとは、本当に想像もつかなかった。
甘いため息が、まだ寒い夜空を雲のように白く漂った。