車窓とあなたとマルゲリータ
車窓の彼
最初は停車駅でのささやかな楽しみだった。
少しだけ長い停車中、電車から見える小さな家の大きな窓、あの女の面影だ。
邪気の無い笑顔とその台所での小動物のような可愛い動き。
そして後ろでひとつに束ねた長い髪の毛と白いエプロンの姿は俺を和ませた。
今夜は何を作っているのだろうか。ジャガイモを切っているように見える。カレーか肉じゃがか…それとも。
そうやって彼女が台所で料理をしているその姿を見るのが楽しみになっていった。
彼女は一人なのか、それとも誰かのために料理をしているのか。少なくとも俺の短い停車時間では家の窓からは彼女の他の人間の姿は見えなかった。
夏には首筋が少し汗ばんで…冬には窓が湯気で白くなっているあの窓の彼女に俺はどんどん惹かれていく。
だからその電車のその位置に俺は固執した。何しろ彼女の姿がよく見えるのは前から三両目の後部ドア近くと決まっていたからだ。
いつか彼女の手料理を食べることが出来たら…今晩もつり革につかまって俺は夢想していた。
異変に気がついたのは三月のある日、夕焼けがきれいなそんな時刻だ。
いつも通り電車はその駅で少し長めの停車をしていた。
初めてあの窓にふたつの影を見つけて俺はいささか狼狽する。
だが不思議なことではない。彼女が誰かのために毎日台所に立っていたとしても変ではないし、当たり前だが俺が不満を言うのはお門違いだ。
それでもいつもと違いすぎた。
彼女は髪を結んでいない。エプロンもしていない。
窓の中の彼女が何かを叫んだ。顔もこわばっている。
向かい合って立つ男が棍棒でテーブルを叩いたようだ。
「やめてって」「殺さないで」
俺には彼女の口の形がそう見えた。
俺は緊張する。何が起こっているのか。俺は目を凝らし、聞こえるはずのない声を聞こうとする。
男は棒を振り回している。彼女があれで乱暴されたら…俺はつり革を握りしめる。
再び彼女が何かを叫んだ。
「助けてっー!」「もう沢山!」
もはや俺は口の形ではっきりと彼女の危機がわかる。これこそ愛の力だ。
いつの間にか彼女のブラウスに血が飛び散っている。
その点々とした血痕はどこから出てきたのか。
不安げな表情の彼女の状態が気になる。
まだ間に合う。俺が行かねば。
「嫌っ!もう!」「助けてってばあ!」
男が今度は刃物を取り出している。
俺の額を冷たい汗が流れる。
彼女の口の形を読むのもこれが最後だ。
俺は急いで電車を降り、改札を飛び出した。
彼女の家に行くのだ。
何と言われても構わない。
彼女を助ける!
駅を飛び出したところで駅前の警察官と鉢合わせして俺は尻餅をつく。
何という偶然。
そうだ。俺のような優男が殺人事件の現場に急行したところで返り討ちに遭う可能性は大きい。
俺は警察官に早口で言う。
「来てください。殺人の現場を電車の窓から目撃したんです」
「…?」
さすがに警察官は怪訝な表情を浮かべる。
「突飛なことを言っているのはわかります。しかし!しかし、一刻を争うのです!」
俺の言葉に只ならぬ気迫を感じ取ったのか、警察官は頷く。
「落ち着いてください。同行しますから、落ち着いて」
俺はあの大きな窓のある小さな家…愛しい彼女の家まで全力で走り、突撃した。
幸い玄関のドアが開いていたので、俺は靴も脱がずに電車から見えるあの部屋まで急ぐ。
ドアを叩きつけるように開ける。
…そこには眼を丸くしてこちらを見る二人がいた。
彼女とあの殺人鬼だ。
彼女が上擦った声を俺に向ける。
「だ、誰?」
あれ?無事だな。食卓で二人仲良く向かい合ってピザを食べようとしている。
あれれれ?
警官がようやく追いついて後ろから部屋を覗き込んだ。
「ふうむ。署に来て貰うのはどうやらあなたのようですな」
そ、そんな馬鹿な。
「すみませんね。この季節、ちょっとおかしな人が出るものです。きちんと絞って二度とここには近づかないように言い聞かせます」
警官は中の二人に謝っている。
「ビックリしました。どういうこと…」
殺人鬼が白々しく一般人のフリで…はないのか?
おかしいな。俺は警官に連行されていく途中でさすがに頭を捻った。
窓内の彼女
今日は久々に…そう1年ぶりくらいだろうか、彼がこの時間に休みを取って一緒に夕飯が食べられる。
私はウキウキして彼に相談する。
「夕飯は何がいい?」
彼はニヤリと笑う。
「せっかくだから僕がピザを焼こうじゃないか」
彼の焼くピザは最高だ。なんてったってイタリアンレストランのシェフだからね。
一番好きなのはマルガリータだけど…何を焼くんだろう。
「内緒だよ。焼き上がってのお楽しみ」
焦らすなあ。
もう夕焼けだ。近所で踏切の音が聞こえる。
彼と買ったこの小さな家はお気に入りだけど、駅が近すぎて少しだけ騒がしいのがたまに傷かな。
この時間には少しだけ長い停車時間の電車もあるようだ。
私はこれもお気に入りの大きな窓から駅を見た。
ちょうどあの電車の停車時間、もう夕飯時だわ。
彼がピザ生地を打ち終わった。
張り切りすぎて粉が舞っている。
「やめてって!汚さないで」
その棒を振り回すのをホントやめて欲しい。嬉しい気持ちは同じだけど。
彼がイェイ!と棒を振りかざして答える。それをやめてって言ってるの。
もう、部屋が白っぽくなるじゃないの。
生地を打ち終わった彼がピザソースと具をどんどん載せていく。
大盤振る舞いして乱暴に置くので、ソースが飛び散った。
私のブラウスにもソースの染みができる。さすがに私は顔を顰める。
けれど彼が私の大好きなチーズを山盛りにのっけるところを見て、逆にテンションが上がってしまった。
「どうする。モッツァレラ、チェダーはもう入れた。あとはカッテージか…入れる?」
どうするもこうするもチーズなら何でもどんどん入れればいいのだ。
私は叫ぶ。
「カッテージも沢山!」
しかしどんどん山盛りになるチーズに私は不安にもなる。
このカロリーはどれだけのものなのか。
彼がピザをオーブンに入れてから、ガチャガチャと引き出しを探る。
「あれ?ピザカッターはどうしたっけ?」
どこへやったっけ?私も首を捻った。
彼がその様子を見てナイフを手に取った。
「まあいいか。これでカットするよ。あ、今夜のピザはもちろん君の大好きなマルガリータだ」
具とかソースでとっくにわかってたけれど、それでも私のテンションは最高潮だ。
「ヤッホー!マルゲッリタァッ!」
クリスピータイプの生地だからすぐ焼き上がる。
焼きたてのピザを食卓の真ん中に置いてワインを準備する。
乾杯して待ちに待ったピザの時間だ。
チーズの焦げる匂いが鼻をくすぐる。自然と口の中に唾液が出てきた。
我慢できない。
「いっただきま…」
えええええ。
玄関から誰かがドカドカとあがりこんできた。
誰?
あまりのことに私も彼も身体が動かない。言葉も出ない。
ようやく一言
「だ、誰?」
普通のサラリーマンに見える人だけど、どう考えても普通じゃない。
彼がハッとしてナイフを握り直す。
しかしその後ろから警官が顔を出した。
「ふうむ。署に来て貰うのはどうやらあなたのようですな」
「ビックリしました。どういうこと…」
彼のその言葉にサラリーマン風の男が呆気に取られた顔で警官を振り返った。
警官は男をキッと睨む。
「すみませんね。この季節、ちょっとおかしな人が出るものです。きちんと絞って二度とここには近づかないように言い聞かせます」
どういう季節だと他人の家に上がり込んでくる人が増えるのかわからない。
彼女のその後
その後は警察から簡単に事情聴取があり(と言っても『彼の手作りピザを食べるところでした』しか説明しようがないけれど)、玄関先を掃除して、ようやく私は冷めたピザにありついた。
何、あの不審者…私は冷静になって初めて怒りが湧き上がり、乱暴にピザを一切れ口に入れる。
彼が優しい笑顔でそんな私を宥める。
「まあまあ、何かの間違いなんだろう。ビックリしたけど、二人とも無事でよかった。ヨカッタ」
…確かにそれはそうだけど。そんなに簡単に割り切れない。何しろ焼きたてのピザが…
まだ不満そうな私に彼がそっと小さな箱を差し出した。
何だろう?ちょっとやそっとじゃ丸め込まれないわよ。
箱を開けると中身はティファニーのハートピアス、前から欲しかったやつだ。
「結婚記念日まで隠しておこうと思ったけど、こんな嫌な思い出がなくなるように…」
うーむ、私は簡単な女。やっぱ、丸めこまれーた。
彼のその後
当たり前だが俺は警察で散々絞られた。何回も繰り返して説明し、被害届も出なかったことから釈放された。
彼女とその彼氏に謝罪に行きたかったが、警察に止められた。
先方が絶対に今後一切関わって欲しくないとのことだ。当たり前だわな。俺は自分を恥じた。
いくらかの玄関のクリーニング代を反省の言葉とともに警察経由で届けてもらうのが精一杯であった。
しかし、警察から会社には事の顛末を知らされてしまった。
俺は部長と課長から尋問を受けた。クビかなあ…
仕方なく自分の勘違いの経過を正直にすべて話した。
俺の誤解した会話やピザの真相まで事細かにだ。
部長と課長は大爆笑をして、俺は厳重注意のみで放免された。あまりに馬鹿すぎるということだろう。
俺自身の評価はもちろん地に落ちたが、最悪の事態だけは免れーた。
読んでいただきありがとうございました。
ちょっと苦しかったでしょうか。
親父はオヤジギャグが好きなので結構気に入っています。