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シルワさんはおいらを連れて森へと出かけました。
おいらたちホビットは元々は草原の民っす。
深い森はあんまり得意じゃありません。
けど、森の民であるエルフのシルワさんは、この深い森に入るのにも躊躇いはなさそうでした。
昼間でも薄暗い森の中を歩いていくと、いろんな音が聞こえてきます。
見知らぬ獣や鳥の声にいちいち怯えていると、シルワさんは小さく笑いました。
「大丈夫ですよ、フィオーリ。
なにかあっても、わたしがついていますから。」
猫背の冴えないエルフ様っすけど、まあ、そう言って頂くと、気休めにはなります。
「やっぱり、森はいいですね。」
心なしか、シルワさんの顔色はいつもよりいいみたいでした。
「さてと。この辺りがよさそうですね。」
森の中を少し歩いてから、シルワさんはそう言って立ち止まりました。
「濡れますから。フィオーリ。わたしのマントのなかにお入りなさい。」
へ?と言うまでもなく、シルワさんはおいらを抱きかかえて自分のマントのなかにくるみ込みました。
それから、おもむろに手を差し上げると、指に集めた魔力で宙に紋章を描き始めました。
おいら、エルフの魔法をこんなに間近で見たのは初めてでした。
魔力で描いた紋章ってのが、こんなに細かくて、それからきらきらした綺麗なものだってのも、初めて知りました。
「雨よ」
紋章の端と端が繋がって完成すると、シルワさんは静かに雨を呼びました。
シュワー、っと、細かくて優しい雨が一帯に降り始めました。
雨は静かに世界を埋め尽くします。
辺りの景色は、しっとりと雨に塗り替えられていきました。
やがて、ひんやりした風が、す、っと吹き抜けると、風に連れていかれるように、雨はやみました。
そのときです。
ほわり。
・・・ほわり。
ほわり・・・
森のそこかしこで、淡くて青い光が、ふわり、ふわり、と灯り始めました。
「ほわぉ・・・」
そこにひろがった光景に、おいらは思わず息を呑みました。
それは、あまりに綺麗な景色でした。
綺麗で、儚くて、どこか悲しくなるような景色でした。
「蛍果。濡れると淡く光る木の実です。
夜露に濡れて光るので、夜でも見つけやすいのですよ。」
シルワさんはそう言って、光る木の実をひとつ取ってくれました。
「これは!」
それはグランさんがパンに焼いてくれる固くて酸っぱい木の実でした。
「光の下を歩けないオークは、星の光と、この蛍果の灯りくらいしか光を見ることができません。」
濡れて光る木の実を集めながら、シルワさんは、ぽつ、ぽつ、と話してくれました。
「オークは村を襲い、畑を荒らし、作物を奪っていく、恐ろしい生き物です。
でも、お日さまの光を浴びることも、温かな火を点すこともできない、悲しい生き物でもあるんですよ。」
・・・・・・オークに郷を襲われたおいらには、オークに同情してやることはできません。
でも、聖女様もシルワさんも、オークのことはそれほど憎んでいないんだなと思いました。
そのときです。
突然、おいらの後ろから、ごぉっと音がして、鋭い爪が振り下ろされてきました。
ぎょっとして動けなかったおいらを、シルワさんはマントのなかに抱えるようにして攫うと、そのまま地面を転がって態勢を立て直します。
シルワさんは用心深く身構えながら、さっきまでおいらのいたところの後ろの藪から現れた怪物を見据えていました。
「あれは・・・オーク?」
自分の声がふるえているのにおいらは気づきました。
こんなに恐ろしい思いをしたのは、故郷の郷を襲われたとき以来でした。
「鉱山の種類とは少し違っています。
はぐれオークか。まだ、成りたてか・・・」
シルワさんは、油断なくオークを見据えながらおいらに言いました。
「わたしの後ろへ。
姿勢を低くして。
怖かったら目をつぶっていなさい。」
「シ、ルワ、さん、は?」
おいらは泣きそうでした。
怪物を前にして何もできずにふるえているのは情けないと思いました。
でも、そのときのおいらには、それ以外になにもできませんでした。
「わたしは、大丈夫ですよ。」
そう言って振り返ったシルワさんは、情けなくも残念でもありませんでした。
ただ、静かで、力強くて、頼りになるように見えました。
シルワさんは懐からなにか小さな玉を投げました。
熟練した魔法使いは、普段から魔力を小さく固めていて、とっさのときに使うのだと、昔、郷の年寄りに聞いたのを思い出しました。
「光よ!」
シルワさんの声と共に、投げられた玉が展開して、そこにきらきらした紋章が現れました。
紋章は集結し、それからみるみるふくれあがって、眩しい光の玉がそこに現れました。
ぐおおおおっ!
オークは恐ろしい叫び声を上げると、身に纏った布で固く全身を覆いました。
オークはとても光を恐れているようでした。
まるで、光を浴びると溶けてしまうとでもいうように。
光は容赦なくオークを攻撃しているように見えました。
オークは身を守るために、まったく動くことができなくなったようでした。
動きを封じられたオークを、シルワさんはじっと見下ろしていました。
その目はどこか悲しそうでした。
ゆっくりと、シルワさんの指が次の紋章を描き始めました。
「風よ・・・」
紋章が完成すると、シルワさんは静かにそう呟きました。
どこからか、優しい風が吹いてきました。
それは、冬の終わりを教えるような、どこか温かくて、花の香りのする風でした。
風は、ふわり、とオークを覆った布をすり抜けました。
ほんのわずかに開いた隙間から、光がオークを襲います。
断末魔も、すすり泣きも、聞こえませんでした。
ただ、オークの形を失った布が、ぱさり、とそこの地面に落ちてひろがりました。
オークは強い光に当たると、さらさらと砂人形のように崩れてしまう。
本当か嘘か分からなかった噂が本当のことだったのだと、初めて知りました。
あの恐ろしいオークは、砂になって消えてしまいました。
なのに、なんだか、ほっとするよりも、胸のなかがしくしくするようなむなしい感じが残っていました。
シルワさんの目にはなんの感情も浮かんでいませんでした。
ただ、黙ってオークだった布を拾うと、小さく呪文を唱えました。
シルワさんの手のなかで、布は炎を上げて燃え、やがて、燃え尽きました。
シルワさんの手も服も、その炎の影響は受けていないようでした。
「怪我はありませんか?」
そう言って振り返ったシルワさんは、もういつものシルワさんでした。
「鉱山のオークはみんなお腹を壊していると思って油断していました。
まさか、こんなところにはぐれオークがいるとはね。
怖い思いをさせてしまって、ごめんなさい。」
シルワさんはそう言っておいらの背中を撫でてくれました。
「シルワ、さん、強いんっすね・・・?」
おいらの声はまだふるえていました。
シルワさんは静かに首を振りました。
「強くはありませんよ。
ただ、オークへの対処法を知っているだけです。」
「オークは、光に当たると崩れるってのは、本当だったんっすね・・・」
「二度と光の下を歩けない。オークは罪人なんです・・・」
うっ、と突然、シルワさんは胸の辺りを抑えてうずくまりました。
おいらは驚いてシルワさんを支えました。
さっき襲われたときに、どこか怪我していたのかもしれない。
慌ててシルワさんのからだをあちこち見ました。
一見したところ、どこにも怪我は見当たりません。
おいらがおろおろしていると、苦しそうに途切れ途切れにシルワさんは言いました。
「く、すり・・・薬、を・・・」
シルワさんは服のなかからペンダントを取り出しました。
その先は小さな筒になっていて、その蓋が固くて開かないようでした。
「これっすか?ここに薬があるんっすか?」
おいらは急いで筒の蓋を取りました。
すると、なかからコロンと、きらきらした石が一つ、転がり出てきました。
「これが・・・?薬?」
とにかく急いでシルワさんにその石を手渡します。
シルワさんの手はひどく震えていましたが、その石を受け取ると、口に運びました。
くっ。
石を飲み干すのはなかなかに辛そうでした。
おいらだって、あんなものはそう簡単には飲み込めないと思います。
けど、なんとかシルワさんは薬を飲めたようでした。
そのまましばらく休むと、シルワさんはまた話せるようになりました。
「驚かせてすみません。
フィオーリがいてくれて助かりました。有難う。」
「お礼を言われるようなことはしてません。
それより、どこかからだ、お悪いんっすか?」
「・・・ええ、まあ・・・」
シルワさんは病気のことはあまり話したくなさそうにそっと視線を逸らせました。
「ここのところあまり発作も起きてなくて。
自分でも少し忘れてるくらいでしたよ。」
なるほど。
あんなふうになったシルワさんを見たことはありません。
「でも、まだ治ってないんっすね?」
「・・・治らないんです。もう、一生。
わたしはこの薬を飲み続けなければならない・・・」
シルワさんは悲しそうに空になった薬の筒を見つめました。
おいらはなんて言って慰めていいか分からなくて、ただ黙っていました。
そんなおいらに、シルワさんは優しく笑ってくれました。
「ごめんなさい。心配をかけましたね。
もう大丈夫です。
蛍果もたくさん集めたし、そろそろ帰りましょうか。」
そう言ってゆっくりと立ち上がります。
「グランとマリエのお料理はどうなったでしょうね?
たとえ今夜一晩でも、オークも人も、お腹いっぱいになると、よいですね。」
「グランさんのお料理は美味しいっすから。
オークだってきっと喜ぶに違いありませんよ。」
おいらがそう返すと、シルワさんは、そうですね、と微笑んでうなずきました。