魔石工房フランマ 7
十日間の夜勤を終えた翌日、エラはコブランカレッジの東門に来ていた。
テレビでもよく見る東門は煉瓦造りの中世風で、大学生らしき人達がひっきりなしに出入りしている。
エラは緩く癖のある黒髪を落ち着きなく耳にかけた。さっきから通りかかる人に見られてる気がして、仕事ではないからとおろしている髪で顔を隠しては鬱陶しくて耳にかけるを繰り返している。
「うう、早く来なさいよ……」
はっきり言って見知らぬ場所に独りは心細い。しかも場違いな場所に来ているのだから当たり前だ。ここはラピス国内で最も頭の良い大学で、エラが仮に大学に進んでも全く縁は無かっただろう大学なのだから。
はあ、と小さな溜め息をつく。さっきから通りかかる人に見られているなんて被害妄想だと分かっているが落ち着かないのだ。もう大人なのに情けない。
孤独に耐えていたから、よく知る声がエラの名前を呼んだ時はすぐにそっちを振り返って、思わずほっと頬の緊張が緩んだ。
「アルフィー」
走る動きに合わせて動く短い茶髪をすぐに見つける。
「ごめん、待たせた?」
「ううん」
首を振ってエラは否定する。実際、待った時間なんて十分くらいだ。その十分が落ち着かなかっただけで。
「じゃあ行こう」
歩き出すアルフィーと一緒にエラは一生くぐることの無かったはずの門をくぐった。
大学内は広かった。どれだけ校舎があるんだ。どれだけ校舎が広いんだ。もう校舎というか城……いや砦?歩いて全て回るとはっきり言って疲れるほどで、大学なんて縁のなかったエラには小さな学術都市のように見えた。
「広すぎる……」
「まあ全部回ったからね」
思わず溜め息混じりにそう漏らしたのは大学内のカフェテリアだ。全部回ったので、休憩がてら昼食にしようとアルフィーが誘ってきた。甘いカフェラテを啜れば少しは疲れが和らぐ気がする。
それにしてもお昼時だからだとは思うが、同い年くらいの人達がテーブルを囲んで和気藹々としている様子はどこか輝いていて眩しい。
ブルーカラーである事を嘆いた事はないが、もし大学に進んでいたらこんな風にまだ友達とテーブルを囲んでいただろうか。ほんの少しだけ周りの大学生が羨ましいのは仕方がない。もうエラは選んでしまったのだから。
「エラ、この後の予定は?」
「帰る」
コーヒーを飲むアルフィーの問いにばっさりと答える。疲れたので帰ってゴロゴロしたい。アルフィーだって午後からは講義があるらしいし。
エラの答えにだよね、と相槌を打ちながらアルフィーが鞄の中を漁って一冊の本を取り出した。
「じゃ、これ渡しておくよ」
「なぁに?」
「古代文字の本」
例のアレか。
「ありがとう」
アルフィーが差し出してきたのは約束していた古代文字の本。相変わらずエラには表紙の文字は模様にしか見えない。
でもせっかく貸してくれるのだからちゃんと勉強しよう、と根が真面目なエラは次の夜勤がいつだったかを思い出す。
あ、そうだ。返すために連絡先を聞いておかないと。
「アルフィー、連絡先教えてよ。本を返す時に困るでしょう?」
「いいよ」
お互いにスマホを取り出して連絡先を交換する。新しい連絡先にほんの少しだけ心が高揚する。
「分からないところがあったら聞いて。一応一通り古代文字は分かるから」
「うん、ありがとう」
苦手な古代文字だが、強力な助っ人がいるなら何とかなる気がする。
苦手だけど頑張ろうと心に決めて、エラは甘いカフェラテを飲み干した。
エラと別れてから午後の授業を受けて、アルフィーはバスと電車を使って家に帰った。
アルフィーの家はラピスの首都、比較的富裕層の住んでいる一画にある。エラがアルフィーの事を「金持ちの坊っちゃま」と評して、一応否定したが、まあある意味において間違いなく「金持ちの坊っちゃま」である事は自覚している。
「ただいまー」
「おかえり」
「おかえりなさいませ」
小さな前庭を抜けて玄関の扉を開けると、ちょうど家政婦のリサと母の護衛官であるマテウスがいた。
リサはほっそりとした五十代の女性で、王宮勤めをしていた頃の名残で引っ詰めて纏めたブリュネットの髪と同じ色の瞳が彼女の有能さを表しているかのようだ。
一方マテウスは淡いブランドの髪にブルーグレイの瞳、整った顔立ちをしている上に背も高く、常に柔和な微笑みを浮かべているすらりとしたイケメンだ。歳は三十とアルフィーより一回り上だが、この歳で母の護衛官に抜擢された有能な軍人である。階級は少佐。
ちなみにコブランカレッジ魔術科を出ているので、アルフィーの先輩にも当たる。
エラには『父の部下』と嘘を付いているが、これは母や自分を守る為に必要な嘘だ。
何故ならアルフィーの母親はプリンセス・エイブリー。国王の娘である。伯父は王太子。つまりロイヤルファミリーだ。
母、プリンセス・エイブリーは結婚はしたものの王族であり、現時点で女性王族としては最高位の女性である。
というのも国王である祖父は一人っ子だった。王妃である祖母は厳密には王族ではないし、王太子妃の伯母も同じく。アルフィーの従妹である王女はまだ未成年で、女性のみの宮中行事では母が基本的に最高位に位置し、取り仕切る必要があるのだ。
そして母は国民人気が高い王族だ。
高祖父以来の金髪にアルフィーと同じ妖精の月の瞳を持つ母親は人好きのする優しい顔立ちで、更にとてもお洒落で頭の良い女性であるから昔から国民の話題にのぼる人だった。堅苦しい王族としての衣装を少しずつ変えていき、公式発言の合間に可愛らしいジョークを挟み、それまでは国民には雲の上のような存在だったロイヤルファミリーを、親しみのある存在に変えたのだ。
今の王室支持率の高さはプリンセス・エイブリーのの功労だ、と王宮では言われている。
最も、母に言わせるとあれは母だからできた所業らしい。アルフィーも母と同意見だ。外から王族には嫁いだ祖母や伯母が母と同じ事をすれば『やはり王族には相応しくない』などと彼女達の苦労なんて知らずにバッシングの嵐だろうし、祖父や伯父がすると『この国の王族としていかがなものか』と改革そのものを否定されるだろう。男児にしか王位を認めていない国で、王位継承権は全く関係ない王女だからこそできた所業だ。未だに母の人気は高く、母に何かあれば王族の支持はガタ落ち、公務にも支障を来たすため、プリンセス・エイブリーは国にとって超重要人物なのだ。
というわけで、結婚して王宮を出てからも王族である母には護衛官がついている。ちなみにリサも元王宮勤めの女官で、母の結婚と同時に王宮を辞めてこの家の家政婦として雇われているが、もうはっきり言って家政婦ではなく母の専属侍女兼秘書みたいなものだ。実際、母が結婚するまでは母の専属女官だったらしい。
そしてアルフィーも少し面倒な身分だった。
「そういえば、ミス・メイソンは全く問題ないお嬢さんだったよ」
マテウスの言葉にアルフィーはほっとして息を吐き出した。少しだけ癖のある濡羽色の髪と妖精の月の瞳を持ち、どこか神秘的な雰囲気を持ったエラを思い浮かべる。
「まあそうだろうとは思ってたけどな」
少なくともエラはごく普通の女性だ。発言に裏表がない事くらいすぐに分かる。彼女の家族までは知らないが、マテウスがそう言うなら一般家庭なのだろう。
マテウスは母の護衛官であるが、王族でないアルフィーの事も気にかけてくれる。
アルフィーは王族でないーーー母が王女だからだ。この国の法律では、王女が結婚して王宮を出た場合、王女は王族であるがその家族は王族ではなくなると明記されている。
だから法律上は間違いなく王族ではない。
しかしこの出生こそが問題だった。
現ラピスの王族の王位継承権第一位は伯父、第二位は従兄だ。まあ順当に行けばいずれ伯父が国王になり、その息子の従兄が王太子になり王位を継いでいくーーーそのはずだ。
だがこの従兄が問題で、従兄は珍しい病気にかかっているのだ。
従兄が病気にかかった事はなんら彼の落ち度ではない。寧ろ『魔力不全』なんて厄介な病気になった従兄には同情しかない。優しくて気さくでこの国が大好きで、歴史に詳しい従兄はいずれ国王になるのに相応しい人物だと思っている。
けれど、この国の王位継承権は男児にしか受け継がれない。すると、もし従兄に何かあった場合、アルフィーに王位継承権が回ってくる不思議が起きる。
何故ならアルフィーは法律上は王族ではないが、王族の家系図には載っていて、紛う事なく国王の孫、王女の息子であるうえに、古臭い王室典範では国内に降嫁した王女の産んだ子供にも順位としては最後だが王位継承権はあると明記されているからだ。実際、自分が産まれた時は公表もされていて、ラピス公国の王室に詳しい人ならアルフィーの存在を知っている者もいる。
こんな不思議が起きる理由は王族関係の法律を作った時に古い王室典範まで考えなかったかららしい。迷惑な話だ。
しかも普通なら公務もしていないポッと出の男が次の王太子です、なんて言われたら国民の反発が必須だが、アルフィーの母は国民に人気の高いプリンセス・エイブリー。もし仮に従兄に何かがあって王位継承権がアルフィーに回ってきても、後ろ盾がプリンセス・エイブリーで国母となれば国民からの支持率が落ちる事も少ないだろうと言われている。
もちろん法律が変わって女性にも王位継承権を認めるとか、もう王族を廃止しようとか、伯父の家にもう一人男児が産まれるとか、そういう事が起こればアルフィーは全く関係ない一市民になるが、現行のままだとアルフィーはとても微妙な立ち位置だった。念のためなんて理由で王族教育は法律上できず、かといって全くの野放しにするのは身分上難しく、だがしかし完全に放置は万が一を考えるとよろしくないーーーそんな微妙な身分だ。
「それにしても女の子を初デートに誘うのに大学って色気がなくない?」
戯けたように言うマテウスに、思わずアルフィーは眉を寄せた。
「別にデートじゃない」
「そう?ならそういう事にしといてあげるよ」
「何だよ、そういう事って……」
にこにこ微笑むマテウスに思いっきり顰めっ面をしてアルフィーは鞄をソファーの上に置いて、同じソファーにどかりと座った。
本当にデートのつもりはない。というかデートというほどの強い感情を彼女にまだ持っていないし、それ以前にエラの事など魔石工見習いくらいにしか知らないのだ。エラも同じだろう。……綺麗な子だとは思うが。
真っ黒なのに、光に当たると青く光る不思議な濡羽色の髪はまるで本当に夜闇のようで、妖精の月の瞳が営業スマイルだろうが静かに微笑めば、本当に夜から抜け出してきた妖精のようだった。
妖精の見える友人の世界はこんなふうなのかと思ったほどだ。
まあ本人は話してみたら普通の女の子だったけれど。
魔石工見習いとして働く彼女に興味はあるが、やはりそれが恋愛感情に昇華されるかというと微妙だ。だからデートじゃない。
それに。
「……俺の正体も明かしてないのにデートに誘えるわけないだろ」
アルフィーは自分の難しい立場を理解している。母親の正体を明かす事がどれだけ危険か、国家に仇なしたい連中からしたらどれほど自分に利用価値があるか。
だからこそ、簡単に身分を明かせない。
「そっか」
ぽす、とソファーの後ろからマテウスに頭を撫でられる。もうすぐ二十歳なんだからいい加減子供扱いをやめて欲しい。
そう思いながらもマテウスの好きにさせる。母の護衛官であるマテウスは丁度思春期の難しい頃に知り合って色々話を聞いてもらったせいか、アルフィーにとっては歳の離れた兄のような存在になっていて、どうやらマテウスの方も弟のような感覚でアルフィーに接してくれるのだ。それが護衛官として正解なのかどうかはアルフィーにはわからないが、少なくともアルフィーはマテウスの存在に幾度となく救われている。
「アルフィーは真面目だよねぇ。適当に遊ぶって事をすればいいのに」
「そんな事できるわけないだろ…」
遊び人になれるほどモテないし、女の子の扱いも分からない。だいたい不誠実な奴は嫌いだ。
というか…ちらりとマテウスを見上げる。淡いブロンドにブルーグレーの瞳、童顔だが柔和で整った顔立ち。八頭身の体には無駄な筋肉も付いておらず、まるで俳優のようーーー遊び人になれそうなのはどちらかというとマテウスだと思う。イケメンだし、モテるし、軍のエリートだし、女性の扱いだってスマートだし。遊び人に必要そうな要素が揃っているのだ。
「というかその言い方、マテウスは『適当に遊ぶ』って事をした事がある……」
「そんなわけないでしょー?俺は女性にはいつも優しくを心がけてるフェミニストだけど、遊んだ事はないよー?」
にこにこにこ。
かぶせ気味に返してきたマテウスの笑顔に、アルフィーは口をつぐんだ。触らぬ神に祟りなし、だ。