魔王の温情
「……セシリアか。その名、覚えておこう」
「そ、そんな! おそれ多いです!!」
セシリアは、かつて人間だった頃には「魔王軍なんて私が本気を出せば壊滅させられます!」と考えていたが、それはとんでもない思い違いだったと知る。
「刺し違えても魔王様には勝てません」と認識を上書きする。
ある程度の実力を持つと、相手との力量の差が如実に分かるのが戦いに身を置く者のセオリーであり、セシリアもまた強者であった。
だからこそ、魔王アンヴェルドの絶対的な実力が戦わずとも理解できた。
「アンヴェルド様、地図のご用意が出来ました」
「ご苦労だった、カミラ。……この者はセシリアと言う。今後は軍の中核を担うであろう。同性である貴様も何かあれば補佐してやれ」
魔王アンヴェルドの側近、ダークエルフの名はカミラ。
彼女は長きにわたりアンヴェルドの傍仕えとして過ごしており、普段の任務は魔族を統べる者の身の回りの世話であるが、戦場に出せば一騎当千の実力を持つ。
「よ、よろしくお願いします。セシリアです」
「……はっ。セシリア様、よしなに願います。では、ご用があればお呼びを」
カミラは短く挨拶をすると、またしても消えるように立ち去った。
「ううっ。魔王軍の人は癖が強いです……」と、セシリアは戸惑ってばかりである。
「……セシリアよ。この地図を見よ。魔界はこの山脈を隔てたこちら側にある。人間たちの住まう土地はあちら側だ。……カミラのヤツ、いらぬ気遣いをしおって。色の付いておる土地は、既に我が領土となった地である」
セシリアは「拝見します」と言って、地図を覗き込んだ。
彼女の知っている地図よりもはるかに広い世界がそこには広がっていた。
アルバルバ山脈の向こうには何もないと言うのが人間の共通認識だったが、まさかその向こうに魔界が存在していたとは。
魔王軍がどこに根城を構えているのか、セシリアも人間だった頃にはついに知ることがなかった。
アルバルバ山脈は天にも届くとされる高山地帯で、人間はその山々を「この世界の果て」と勝手に決めつけていた。
世界の秘密を1つ理解するセシリア。
「あっ。レスコーネ。レスコーネはまだ色が付いていませんね」
「……ほう。貴様はレスコーネに興味があるか? 確か、あの地には腕利きの賢者がいると聞いておったが」
「あ、あははー。いえ、別にレスコーネがどうと言う訳ではなくてですね! ほ、ほら、レスコーネって王族がたくさん住んでいますから! 攻めるならきっと目標になるだろうなぁって思いまして!!」
「……道化を演じるなと申したはずだが?」
「あ、ごめんなさい」
セシリアの見え透いた嘘でアンヴェルドを謀る事は出来ない。
そろそろ彼女もそれを悟り始めている。
「あの、魔王様。質問してもよろしいでしょうか?」
「……許す。申してみよ」
「今って何年の何月なのかなと気になりまして。あ、すみません。できれば帝国暦で教えて頂けると……」
「……帝国暦728年の2月6日だ」
それを聞くなり、セシリアの表情が明るくなる。
彼女が処刑されたのは帝国暦727年の12月の末の事だった。
転生魔法でどれだけの時を経てしまうかが不透明だったため、万が一にも100年経過していたりしたらどうしたものかとセシリアは危惧していた。
その懸案事項が解消されたのだ。
彼女の処刑からまだ2ヶ月ほどしか過ぎていない。
つまり、ルーファス・レスコーネ王子はまだ好き放題しながらのんきに生活しているだろう。
セシリアに復讐されるとも知らずに。
「……良かろう。次の侵略の目的地は、レスコーネの王族の直轄地の1つ。サウスユニスとする」
「えっ!? いいんですか!?」
「貴様の都合などは知らぬ。余が決めた事だ。……それに、あの手強いと評判の賢者はもうおらぬようであるからな」
「あっ。……ありがとうございます」
「随分と嬉しそうだな。頬が緩んでおるぞ」
「えっ。そうですか!?」
セシリアは自分でも気づかないうちに、笑顔になっていた。
まるで、ピクニックを楽しみにする子供のように。
「ええと、その! こちらを出発するのはいつになるのでしょうか!?」
自分の本心を見せてしまった事が何となく気まずくなり、セシリアは誤魔化すようにアンヴェルドに聞いた。
彼はその意を見透かしていたが、あえて感想は述べない。
代わりに「3日後を予定しておる」と答えた。
高揚感を覚えたセシリアは「分かりました! 失礼します!!」と駆け足で謁見の間から退室した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
長い廊下を独り歩きながら、セシリアは考えていた。
考えるべき事は多くある。
いつの間にか自分が人間ではなく、魔女に転生していた事。
転生魔法を唱えたのは自分なので、誰を責める訳ではない。
だが、やはり急に魔族へと生まれ変わるとは思っていなかったため、まだどこか現実味を帯びていない。
続けて思い出すのは、ルーファス・レスコーネ王子をはじめとした人間たちの事。
あんなに尽くして来たのに、権力の前では心がチェスの駒のように簡単に動く事を、かつての賢者は知らずに生きていた。
あの醜悪な瞳を忘れることはできない。
これまで見た、どれほど不気味なモンスターだって、あのように醜い顔はしていなかった。
長い廊下の終点が近くなって、セシリアは気付いた。
「……ところで、私はどこに行けばいいのでしょうか!?」
魔王軍に籍を移す事になったのは良いが、住まいはどうなるのか。
どこかに集会所のような場所があるかと思われたが、周囲の魔族たちには何と言って加われば良いのか。
「……お腹も空きましたね」
彼女には行く当てがなく、空腹を満たす手段もなかった。
毒の大釜に戻る訳にもいかず、そもそも魔界の冬は寒い。
ローブしか羽織っていない軽装で外に出れば、たちまち凍えてしまうだろう。
「仕方がありません。ここで夜を明かして、翌日になってから考えましょう」
セシリアは魔王城の廊下で丸くなる。
彼女は孤独を苦にしない性分であり、その点は魔族になっても生きていて良かったとも思った。
「お仲間の魔族さんたちに何と言って自己紹介をしましょうか」と考えているうちに、怒涛のように展開された1日の疲れが睡魔となって襲い掛かり、セシリアはうとうとし始め、気付いた時には眠りに落ちていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「……おい。そこで何をしている」
「……ふぇ!? あれ!? ま、魔王様!? どうしてこんなところに!?」
「それは余の言い分だろう。ここは余の城である。貴様はなにゆえ廊下の端で寝入っておるのだ」
「ええと、そのですね。何と言いますか」
寝ぼけまなこで言い訳を思案し始めたセシリアの腹が「きゅー」と鳴いた。
「呆れたものだ。腹も減っておったのか。なにゆえ先刻申し出なかった?」
「そ、そんな厚かましい事、言えません! だって私、昨日までは魔族じゃなかったんです!」
アンヴェルドは「やれやれ」と首を振った。
続けて、感情のない声で続ける。
「今は魔族で、余の同胞であろう。それ以外の事情など知ったことか。もはや貴様の命は余のものでもある。……勝手に衰弱されると後生が悪い。ついて参れ」
無機質な声が、セシリアにはとても優しく聞こえた。
他者に慮って貰えることがこんなに嬉しい事だと、どうして忘れていたのだろうかと思った。
トコトコとアンヴェルドの後ろをついて行きながら、セシリアはその背中に問いかけた。
「あの、魔王様は私の事を探してくれたのですか?」
「思い上がるな。余の居城であるぞ。見慣れぬ魔力が存在しておれば、気になりもする」
「……それってやっぱり探してくれたのでは」
「……貴様がどう考えようともそれは貴様の自由だ。カミラに寝床と食事の用意をさせている。ベッドの硬さと食事の味までの保証はせぬ」
ぶっきらぼうな魔王の言い方に対して、なんだか心が温まる思いのセシリア。
彼女がその感情の名前を知るのは、もう少し先の話である。