魔王とのファーストコンタクト
魔王の発した一言は、場を支配する。
虎の獣人は呼吸をするのも忘れて、自分が何をするために魔王の前へとやって来たのかを思い出すのに数秒の時を要した。
「へ、へい! あのですね、このガキが! いや、もうガキじゃなくなったんですけど、元ガキがですね!! 成長魔法を使いやがりまして! ああ、元は魔獣の餌場の毒の大釜にいたんですが、このガキ! ああいえ、ガキじゃねぇんですけど!! それで魔王様に献上したいと思いまして! このガキを! ああ、元ガキを!!」
トラは混乱のあまり正しい文法すらも忘れたようであった。
「……ほう」
セシリアを一瞥する魔王。
視線が交差しただけにも関わらず、彼女は心の底から震えあがった。
冷たく、機械のように感情のない瞳が、ただ赤く光っただけなのに。
「ど、どうでしょうか!? なかなかの拾い物だと思うんですが! なにせ、魔王様しか使えねぇ成長魔法を使いやがるんでさぁ!!」
「……それは先刻聞いた。まあ、使うであろうな」
「ええと、そいつぁどういう事で!?」
「獣人。貴様はもう良い。下がれ。褒美を授けよう」
トラは彼に与えられた任務の全てを果たしたらしかった。
魔王に去れと言われれば、喜んで退室する。
そこに褒美まで付いてくるとあれば、もはや何も言う事はなかった。
一方、心中穏やかではないのはセシリアである。
「えっ、トラさん行っちゃうんですか!?」と内心では慌てふためく。
そんな彼女の心境に配慮されるほど世の中は優しくできていない。
こうして、魔王と元賢者の2人きりの空間が生まれた。
まずセシリアは「私の身の上がバレたらまずいですよね」と考える。
だが、魔王の赤い瞳はそんな心を見透かすようにギラリと輝く。
「……貴様。魔界の住人ではないな?」
「えっ!? いえ、そんな事はないですよ!? さ、最近引っ越して来たと言いますかー。そのー」
「……道化を演じるな。随分と珍しい生き方をしているな。元は人間か? 今は魔女のようだが」
「あー、いえー、その、何と言いますか! 私は……魔女なんですかぁ!?」
セシリアにとって衝撃的な事実が舞い込んで来た。
どうやら、彼女は人間ではなくなっていたらしい。
指摘され改めて気付く、肉体の変化。
転生前よりも魔力が増したような気がしていたのは勘違いではなかったのだ。
魔女の肉体は魔族の中でも最も人間に近いのでセシリアは気付かなかったが、彼女の体を流れる血の色は既に赤くはない。
「あの、私って魔女になったんですか? 魔女って人間とどの程度違うのでしょうか?」
「……人間の体にまだ未練があるのか?」
「あっ、いえ! に、人間って興味深いなぁって思いまして! あ、あはは」
「もう良いと言っている。道化も過ぎれば笑えぬ」
どうやら、事情を隠し通せるような状況ではないとセシリアは理解した。
もしかすると魔王は全てを悟ったうえで、自分を試しているのかもしれない。
そう思うと、この魔界を統べる骸に嘘をつくことが極めて不敬な行為に思えてくる。
「わ、分かりました。すべてお話します。魔王様」
観念したセシリアは、全てをさらけ出す覚悟を決めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
彼女は緊張しながら魔王に何と言えば適切なのかを考える。
転生前に帝国の王と謁見した時ですら、ここまで身をこわばらせる事はなかった。
魔王と人の王を比較するのがおこがましい程に桁違いの威圧感。
目の前の魔王に比べれば、人の王など肥えた豚である。
「その、私は本来この魔界に存在する事を許されない者……なんだと思います」
「どのようにしてここに参った?」
「人だった時に、死の間際に使った魔法の影響かと」
「ほう。魔法だと?」
「はい。転生魔法です。『サンサーラ・サケルド』と言う」
「…………! 転生魔法か。あれは限られた神や悪魔にしか扱えぬものだと思っておったが」
セシリアは「太古の魔導書や文献を元に、独学で研究しました」と素直に答える。
その様子を満足そうに眺める魔王。
「と言う訳で、転生先を選べないどころか、種族まで変わってしまうなんて想定外なんです。魔王様。あっ、すみません。さっきから勝手に! あの、魔王様とお呼びしても?」
「構わん」
「魔王様にとっては転生魔法なんて珍しくもないかもですけど」
「……いや。余は驚いておる。存在は知っていたが、よもや実際に使う者がいるとはな」
魔王の言葉に怒気はなかった。
むしろ、習わぬ経を読んだ者に感心している様子にも見て取れた。
「ええと、魔王様?」
「……うむ。いくつか聞こう。なにゆえ転生魔法などを使おうと考えた? 貴様の魔力は、察するに転生前の時点でも相当のものであろう? 軽々に死ぬような状況にはならぬと余は考えるが?」
セシリアは言葉を選んで説明する。
魔族となった血がそうさせるのか、はたまた眼前の魔王に対する畏敬の念か。
誠心誠意をもって自分の身の上を語らなければならないと言う、ある種の使命感に突き動かされるように、彼女は語った。
転生前は帝国で名のある賢者として、魔王軍を相手に戦っていた事。
何度も交戦を繰り返しながらも、ついに無敗だった事。
だが、身を挺して守っていたはずの人間に裏切られた事。
今は彼らの事を心の底から憎んでいる事。
5分だろうか。10分だろうか。
セシリアは喉が渇くほどに熱心な説明を続けていた。
「……つまり、貴様は王子とやらの謀略にまんまとしてやられたのか」
「うっ。……はい。おっしゃる通りです。今思えば、もっと賢いやり方があったと思います。けれど、人間の頃の私には非情になる心構えがありませんでした」
「そう言うからには、今は違うと申すか?」
「はい! 少なくとも、人間に対する情はもうありません! 私の命をショーのように辱めた彼らには、相応の報いを受けさせてやりたいと思っています!」
思わず大声になってしまい、「わわっ、すみません!」とセシリアは謝った。
そんな彼女を見る魔王は無礼を指摘して不愉快な顔を見せるでもなく、「……なるほどな」と頷いた。
「……面白い。貴様の数奇な運命も興味深いが、人に生まれて人を捨て、人を憎むか。実に面白い。ならば、余がその望みを叶える機会をくれてやろう」
元人間であるセシリアは、現時点で有無を言わさず処刑されても仕方のない立場にある。
それを彼女も理解し、覚悟もしていたのだが、予想外の言葉に魔王との対話で何度目か分からない戸惑いを見せた。
「へっ!? ま、魔王様! あの、私は元賢者ですよ!? 自分で言うのも非常に躊躇いますが、魔族の方々をたくさん殺しました。いわば、私は魔王様にとっての仇敵では……?」
魔王は少し黙って、短く答える。
「だが、今は魔族で同胞であろう。前世の罪を咎める法を余は持ち合わせておらぬ」
つい先日まで、魔物の死体の山を築いて来たセシリアにとって、その寛大な態度は驚愕であり、久しぶりに自分に向けられた慈愛のようでもあった。
魔王を相手に「慈愛」などと口にすれば機嫌を損ねるだろうかと思うと、なんだかおかしくなって笑みがこぼれそうになる。
「貴様と余の利害は一致しておる。ならば、戯れに手を貸す程度の余裕は魔王として持ち合わせておきたいものだ。貴様を次の戦線に加えよう。それで良いか?」
「は、はい! お心遣い、痛み入ります!!」
魔王は「誰か」と言って、右手を上げた。
すぐに瞬間移動のような速さで魔族が現れ、彼の前に跪く。
「はっ。お呼びでしょうか、アンヴェルド様」
「この者を次の侵攻戦に加えることにした。地図と軍議録を持て」
側近の魔族は「ははっ」と頭を下げて、またしても消えるように立ち去った。
「貴様の名前を聞いておこうか」
「……セシリアです。姓は人として死んだ時に捨て去りました」
魔王は「そうか」と答える。
これが、魔王アンヴェルドと魔女セシリアのファーストコンタクトだった。