私を離さないでと彼女は言った。
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愛はあったのだろうか。
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日没まであと2時間もあるというのに、曇り空のせいで、思いのほか暗い。
これから家に向かうであろう人たちでいっぱいの駅のホーム。
僕はこのプラットホームで電車を待っているときに、自分がまだ生きていることを実感することがある。死ぬ決意さえ整えて、線路に飛び込めば、いつでも車両が跳ね飛ばしてくれるから。そんなチャンスが数分おきに目の前を通過していく。生きている不燃焼感も抱えきれない空虚も、血肉ごと全て吹き飛ばしてくれるだろうと期待してしまうのだ。
今まで何度かそうしようと思うことはあった。じつは今日がその日かもしれないけれど、僕にはよく分からない。
こういう思考を巡らせている時、次の瞬間に自分が何をしているか、全く予測ができないのだ。まるで心と身体が自分のものじゃないような気がしてくる。
こんな風だから、気がつくともう家に着いていたりする。今まさに目の前にそびえ立つマンションの一角に僕の部屋がある。けれど、このまま自室に戻っても何だか味気ないから、エレベーターに乗ると最上階の20階のボタンを押して、自宅のある11階を通り越していく。鉄の扉越しにするすると各階の床が落ちていくような感覚が心を軽くしてくれる。
最上階に行くと、非常階段の先に鍵のかかったアルミの格子扉がある。これを無理やり乗り越えて行くと、僕だけの空間が広がっているのだ。そこには僕を覆い囲むものが何もない。地上30階の天井が僕を待っている。
ここにあるのは空と風と僕だけ。
ほかに何もない虚の空間がどこまでも広がっている。
日が沈むのを見届けながら、地上を眺める。そうしていると、だんだんと僕が僕だという意識が薄れて、空や風と一体になる瞬間がある。
僕には心と視覚だけが残り、身体とは別々のところにいるような感覚になる。そこでは想像上の自分の後ろ姿があって、その奥に広がる風景は全てが淡く滲んだ水彩画のように見える。
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勇気はあったのだろうか。
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愛なんてものにそれほど重要な意味はないと思う。
僕の知っているそれはそんなに綺麗なものではないし、僕には少々重いものだった。きっとこの手の思念は手元に持たない方がいつまでも尊く保てる、そういうものだと思う。
もし必要な人がいれば、全部ただであげても構わない。見返りなんかいらないから、その代わりに出来るだけ遠くへ運んでいってほしい。僕からずっと遠く離れた、僕の知らないところへ。
そうして心の余剰が完全な空になった時に、僕は自分自身を認めてやることができる。愛の見返りほど僕にとって必要のないものはない。
愛はこの世で最も人を縛り付け、心まで殴りつける。そういう残虐性を孕んでいる。
だから、愛するのも愛されるのも、とても勇気のいることだと思う。そして、どちらを選ばなかったとしてもそれはそれでまた死にたくなるのかもしれない。
彼女はそれを理解した上で、自分の意思で、どれも選ばないという選択をしたのだろう。
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生きる意味はあったのだろうか。
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今から3年前、僕が18歳になる少し前のこと。
この下の階にある僕の部屋は、母親と2人で住んでいたマンションだったけれど、母はしばらく家を空けると言って、どこかへ行ってしまった。
僕の家庭は完全にバラバラになってしまって、2LDKのこのマンションには高校生の僕だけが住んでいる状況になった。
もともと父親がおらず、母は精神的に脆弱で定期的に違う男と関係を持つような女だった。年齢の割に若くて、僕とは年の離れた姉弟と間違われることもあった。そんな母を一言で言い表すなら、男なら守ってあげたいと思ってしまうような魔力をもった女だったと思う。
だから、そんなに収入が多くないのにお金に困るということがなかった。
僕はいままで、父親ではない知らない誰かのおかげで食うに困らない生活ができていたというわけだった。
次第にそういう理不尽さに納得がいかなくなった。自分に必要な金くらい自分で稼ぎたいと思うようになり、アルバイトを始めた。
そこで彼女と出会ったのだった。同い年だというから、僕と同じ高校3年生のはずだったけれど、彼女はそうではなかった。
家庭の事情で労働せざるを得ない状況で、高校2年生の頃に学校を辞めたということだった。
確かによく考えてみれば、彼女はその頃から派手な金髪だったし、化粧も濃かった。学生だと思われたくないんだろうなと一目見て分かるほど、同年代の僕らに対して差別化をしているようだった。
そんな彼女だったけれど、どこか空虚なところがあって、僕にはそれが分かった。だから、すぐに打ち解けることができたんだと思う。
また家がわりと近くだったらしく、途中まで並んで帰っているうちに、次第に恋仲になった。
彼女がうちに来るようになってから、お互いに家族の人間関係に問題を抱えていることが分かった。
彼女は数年前に母親と死別し、父親と2人で暮らしていることを打ち明けてくれた。父親がアルコールに依存するようになり、精神的に不安定だということもこの時に知らされた。
お互いに孤独な身の上だということが分かり、彼女とは何かの因縁があるように思えた。僕らは、僕らだけはうまく支え合っていかなければならない。そういう縁や絆のようなものを感じずにはいられなかった。
その晩、僕の隣で眠っていた彼女は「私を離さないで」と言った。
午前2時。僕はまだ眠りにつけていなくて、彼女と背中合わせで横になっていたけれど、その言葉は僕の生きる意味になった。
彼女と出会ってから半年もたたないうちに、僕はそのために生きようと決心した。
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真実はあったのだろうか。
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僕らが20歳を過ぎた頃、彼女に異変が起きていることに気がついた。
最初は痣だった。彼女の右の骨盤に黒ずんだシミのような痣を見つけてしまったのだった。
彼女は何も言わなかったけれど、これは誰かに殴られた跡なんじゃないかと直感した。
また数ヶ月たったある日、今度は左手首の内側に新しい切り傷が付いていた。彼女は間違えて切ったのだと言っていたが、そんなはずはなかった。
間違えたのは彼女ではなく、彼女の父親だろうと直感せざるを得なかった。
それから1ヶ月たたないうちに、彼女から父親が自ら命を絶ったと聞かされた。ついに彼女も一人ぼっちになってしまったのだった。
そして、以前からの痣や切り傷は、やはり父親につけられたものだったと彼女は打ち明けてくれた。
父親の自殺を止めようとした時に、揉み合ってついたものらしかった。それにも関わらず、彼女は自分が悪いのだと悔やんでいた。もっと出来ることがあったのだと。
僕は彼女の家庭に無関心だったことを悔やんだが、悔やみきれなかった。視野の狭い子どもだったのだと、ただただ思い知るだけだった。
その時初めて、力が欲しいと思った。
人ひとりを守ってあげられるだけの強い精神力を。
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義理はあったのだろうか。
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相変わらずうちの母は帰ってくる気配がない。何度か帰ってきた痕跡はあったものの、ただそれだけだった。荷物や書類や何かを取りに来たのだろう。母とはたまにメールでやり取りをすることがあったけれど、母がどこにいて何をしているのかは全く知らないまま3年が経っていた。
家賃や光熱費は気にしなくていいから、とは言うものの、誰かも分からない人に養われているのが気が気でなかった。だから、ここを出ていく時にただでは出ていくまいと思い、数百万円の貯金を準備していた。
しかしながら、母が帰ってくるかもしれない場所を空けて出ていくことができず、そのままここで暮らすことにした。
それから、父親を亡くし一人になった彼女は住んでいたアパートを引き払い、うちに引っ越すことになった。
その以前に母に了承を取っていたのだが、相変わらずの調子で自由に使っていいとのことだった。
何をどうするか、もはや考えるのも嫌になっていた僕は、言われるがまま自由にさせてもらった。面倒ごとは後で処理することにしたのだ。
「ねえ、これからどうなるのかな・・・」
「うん・・・」
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・・・
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彼女がうちに来てから数週間後、いつものように晩ご飯を作って彼女の帰りを待った。しかし、19時になっても、そのまま20時を回っても彼女の気配はなく、ただただ静かである。
20時半になる少し前。遠くの方から救急車のサイレンが聞こえてきた時に、うつろだった意識がハッとして、悪い予感がよぎる。
サイレンの不穏な音が遠ざかっていくことはなく、下の方で鳴り止んだのだと理解するのに時間はかからなかった。
ああ、この場所で何かが起こったのだと悟った。
僕はいてもたってもいられず、下で起こった出来事を確認するためにベランダに出る。
道路に面した歩道が見える。
そこには赤く光っている救急車の他に、慌ただしい人々と、静かに立ち尽くした人々がいた。
そして、その救急車に運び込まれていったのは、紛れもなく僕の知る彼女だった。
僕は考えるよりも先に地上を目指して走った。
エレベーターで降りたのか、非常階段を使って降りたのかはもう分からなかった。あとで足を怪我していることに気がつくまで、靴も履かずに飛び出していったことは知る由もなかった。
僕が向かった先、道路に面したその歩道にあったのは、赤黒い液溜まりと、それを囲むように硬直した何人かの人たち。
彼女が一体どこへ運ばれていったのか、それだけが僕の頭を支配していて、とにかく彼女に追いつきたかった。
何をどのようにして僕がそこにたどり着いたのかは分からない。次の瞬間、僕がいたそこは地域の市民病院であった。
そこで僕が理解したことは、彼女がもうこの世にはいないということだった。
その時の全身の皮膚を内側から掻き毟るような感覚は、僕の生きる意味も何もかもを引っ掻き回していった。とても正気ではいられない、この世で最もおぞましい瞬間だった。
それから僕が今まで、何を考え、どのように生活したかはもう思い出すことができずにいる。
きっと今のように、うわの空で、心と身体が乖離したような気分で日々をしのいできたんだと思う。
*****
宙にあった意識が身体に戻って来た時。
自分がマンションの屋上に立ち、まだ風に吹かれていたことを認識する。
さっきまで滲んで見えていた風景画のような景色は、赤や緑や空の灰色が入り混じった光の粒に昇華されていき、自分が泣いていることに気がつく。
こうなってしまうと、もう僕は自分のことが分からない。
君が選んだ道を辿っていけば、君を離さなかったことになるのだろうか。