エピローグ
「お父さん、もうおそばできるよ! 下りてきてー」
階下から娘の郁子の声がして、僕ははっと現実に引き戻された。妻の実家、今はもうない民宿の写真のネガが、思わぬ荷物の間からひょっこりと出てきたのだ。昔のことをつい思い出していた。
僕は父の臨終に何とか立ち会うことができた。家を継ぐと伝えると、父はわずかに微笑んだように見えた。父の葬儀を終えた後、のうぜんかずらの花の盛りが終わらないうちに、僕は海辺の民宿にとって返し、写真を撮った。それが僕のプロの写真家としての最後の仕事になった。
僕は蒔ちゃんにその場でプロポーズした。僕が毎日笑わせるから、苦労をかけるかもしれないけど、ウガンダに行くと思って一緒に来てくれないか、と言ったら、蒔ちゃんは涙を流すほど大笑いして、うんと言ってくれた。それから、そういえば継ぐって言ってたけど、秀治さんの家業って何なの、と聞かれた。そんな大事なことを話すのを忘れていた僕も僕だが、聞かずにうんと言った蒔ちゃんも蒔ちゃんだと思う。
宮司の仕事はわからないことだらけだったが、父の残した書付けと、氏子会の皆さんが助けてくれて、何より、蒔ちゃんが隣にいてくれて、なんとか軌道に乗せることができた。
民宿を撮って現像した写真は彼女が手元に置いて時折眺めていたのだが、娘が三歳の頃、ジュースをこぼしてだめにしてしまい、何年も見ることができないままでいた。
ジュースをこぼしたの、アイスを落としたのと言っては泣いていた娘ももう二十歳になった。いつまでも小さい女の子のつもりでいたのに、この頃は時折、あの頃の妻のような、難しくてひどく大人びた表情を浮かべることもある。
あれからもう二十年以上になるのか。僕は窓の外を眺めた。庭師に無理を言ってお願いし、移植したのうぜんかずらは、立派に根を張って、今は我が家の外壁で、八月の陽光をたっぷり浴びて、わさわさと葉を茂らせ、もりもりと花をつけている。
秋が深まって、神社の仕事がひと段落したら、この写真を現像して家族でゆっくり見よう。
娘にも言うつもりのない大事な思い出も幾つもあるけれど、あの日、高速道路を必死で飛ばしていた妻の横顔がどんなに美しかったかは、いつか娘に話してやろうと思う。




