6 のうぜんかずら、泳げ
僕たちは何度も何度もキスをした。でも、その一歩先に進むのはまだ何となく惜しくて、ぴったりと肩から腿、ひざをくっつけてその上で指を絡めて手をつないだ。蒔ちゃんはぐんにゃりと力を抜いて僕にもたれかかり、肩に頭を載せた。
「なんで僕?」
坪庭の片隅に植わっている南天の植え込みを眺めるともなく眺めながら、かっこ悪いのは承知で、僕はぽつりと尋ねた。僕にとって蒔ちゃんはずっと、魅力的でとらえどころがなくて、手の届かない花か、そばにはけしてこない猫のような女の子だったからだ。綺麗でスタイルもよくて、すれ違えば誰だって振り返るような蒔ちゃんに比べて、僕は顔も体型も十人並み、人に誇れるほどの才能も才覚もない。
「秀治さん、私の目を見て話をきいてくれるもん」
至極シンプルな答えが返ってきた。
「どういうこと?」
「私、じゃなくて、私みたいな若い女、がいい人は、すぐ目が泳ぐんだよ。いろんなところに。わかりやすいところで言うと胸元とか、脚とか。通路を通ったかわいい店員さんとか。ばれてないと思ってるんだろうね」
彼女はくすくす笑った。
「秀治さん、一緒にいて話している間じゅう、ずっと、私を見て、私の話を聞いてくれたから」
「蒔ちゃんが僕のことをそんな風に思ってくれてたなんて、全然知らなかったから、今すごいびっくりしてる」
正直に言うと、蒔ちゃんの笑いは大きくなった。
「本当に、ぜんっぜん、気が付いてなかったよね。うん。でも、だから好きなの。それでいいよ」
キスしてくれたしね、なんていうものだから、僕のほうが赤くなってしまった。
「おやつに、今日は水ようかん買ってあるよ。食べようよ」
蒔ちゃんが立ち上がった時、僕の胸ポケットで、携帯電話が振動した。
何気なく開いてみて、僕は首をかしげた。
番号だけが表示されている。蕎麦屋で確認した時に気が付いた不在着信の番号と同じような気がした。市外局番が同じだ。実家と同じではないが多分近くの数字だった。ワンコールというにはかなり長く鳴ってから切れた。
「電話?」
「切れちゃった」
「用がある人なら伝言するでしょ?」
「それはなかった」
蒔ちゃんは目を細めた。
「秀治さん、一回聞いた伝言メモ、消してる? 消さないとどんどんたまっちゃって、そのうち新しいのが入らなくなるんだよ。電話会社のメッセージセンターに残された伝言は、秀治さんが聞きにいかないと、あるかないかわかんないよ」
言われて僕ははっとした。確かに、伝言メモを消した覚えはなかった。半年ほど前に機種変更をしたとき、当面必要な機能を覚えただけで満足して、説明書をしっかり読んでいなかった。
蒔ちゃんが横からのぞき込んで操作を教えてくれて、僕は電話会社のセンターに残されていた伝言を聞いた。
『こちらM市立病院心臓外科です。ミヤモリシュウジさんの携帯でしょうか。お父様の、ミヤモリヒデカズさんが当院に救急搬送されて、入院しておられます。至急、折り返しのご連絡をお願いいたします』
同じ内容のメッセージが、三時間ほど前と、今、入っていた。M市は山間にある実家からは少し離れた市だが、救急車で運ばれる最寄りの大きな病院となるとそこだ。
蒼白になった僕を覗き込んで、蒔ちゃんが尋ねた。
「どうしたの」
「父が倒れたって。救急搬送されて、入院しているって」
「大変!」
蒔ちゃんは大きく目を見開いた。
「秀治さん、早く掛け直して。ちゃんと話を聞かなきゃ」
言われるがままに僕は病院に電話を掛けた。しばらく前から心臓を悪くして通院していたのだが、町内会の集まりで急に発作を起こして倒れたのだという。今は、緊急手術をしている最中だと言われた。危篤状態だと。
『できるだけ早く、来てください。患者さんに会わせたい方がいたら連絡を取ってください』
すべてが現実感を欠いていた。今日の途中から、奇妙な夢に迷い込んだみたいだ。のうぜんかずらの鮮やかな朱色。ぶちぶちと草を抜いていた蒔ちゃん。突然のキス。病院からの電話。
「すぐ来いって」
電話を切って言ったはものの、呆然と座り込んだままの僕の背中を、蒔ちゃんはバンと一つたたいた。
「秀治さん、しっかりして。今行動しないと後悔する。立って。荷物、持って」
背中の痛みも、確かに存在はするのに、分厚い膜の向こうから響いてくるようだった。
蒔ちゃんは帳場の方に駆けて行った。僕はぎくしゃくと身体を動かして、階段を上った。部屋に入ると、出しっぱなしになっていた荷物を手当たり次第にリュックサックに詰め込んだ。
忘れ物がないか、ほとんど習慣的な行動であたりを見回したとき、床の間に置かれた花瓶にふと目がいった。のうぜんかずらが活けてあった。看板が見えるように刈り込んだとき、一枝とって活けたのだろう。房で咲く朱色の花が、身を寄せあう金魚のように見えた。小さい体を寄り添わせて、流れに抗って、流されないように必死で泳ぐ金魚のように。
違う。僕も蒔ちゃんも金魚じゃない。
そう思った瞬間に、病院からの知らせが僕の脳に到達して以来、僕を周囲から遮断してしまっていた透明な何かが、崩れ落ちた。ガラス越しのように現実感を失っていたあたりの風景が、圧倒的な存在感を取り戻して、息づいて戻ってきた。
ただ流されないために、そこにいるのではない。
そこから泳げ。動き出せ。
自分の意思で、行かなくては。父のもとに。
僕はリュックサックの肩ベルトをしっかり持つと、右肩に引っ掛けて、階段を駆け下りた。
玄関には蒔ちゃんが待っていた。車のキーを指に引っ掛けている。
「病院まで送るよ。レンタカーは後で取りに来てもらえばいい」
当然のことのように言う。
「なら駅まで頼めるかな。L県M市なんだ。遠すぎる」
「遠くないよ。電車何本も乗り換えてるくらいだったら、高速飛ばせば大差ないよ。ちょうどいい新幹線に乗れるかわかんないじゃん。私、運転上手いんだよ」
蒔ちゃんは有無を言わせず僕の荷物を奪い取って後部座席に放り込むと、運転席に回った。
「シートベルト、ちゃんと締めてね」
言わずもがなの念を押す。僕のシートベルトのバックルがかちゃりと音を立ててかかった瞬間に、蒔ちゃんの運転する車は猛然と走り出した。
後にも先にも、こんな運転の車に乗ったことはない。蒔ちゃんの運転は、鬼気迫るものだった。絶妙なタイミングで先行車をかわし、車線を変更し、周囲への注意も一瞬も怠らなかった。高速道路でも、蒔ちゃんはぎりぎりを攻めて飛ばせるだけ飛ばした。一度だけ、小さな渋滞に捕まった。蒔ちゃんの唇はわずかに震えていた。まるで、蒔ちゃん自身の父親が倒れたみたいだった。
「どうしてここまでしてくれるの」
「私が後悔したから」
蒔ちゃんは、前方を見据えたまま、投げ出すように言った。
「父のとき、本当は、無理をすれば帰れた。なのに、仕事を言い訳にして帰らなかったの。すべてが終わってしまってから、会って、最後に話をしなかったのを後悔した。ごめんでもありがとうでも何でもいい。何かを言えばよかったし、何かを言ってくれるなら、聞きたかった。目を見て話さないままで、全力でお互いをわかろうと努力したと思えないままで、別れたくなかったよ」
僕は言葉を失った。
「秀治さんは後悔しないで。継ぐんだって継がないんだって、どっちでもいいじゃない。秀治さんがちゃんと選んで、それをお父さんに伝えて。全力で選んで、お父さんに約束して、引き受けて。でないと、きっと後悔する」
渋滞の前が開けて、車が流れ出した。
「私が絶対に無事に、秀治さんを病院に届けるから」
蒔ちゃんの横顔は、魔神のような気迫だった。
そしてとても美しかった。
蒔ちゃんのとんでもない運転のおかげで、僕は、思っていたより一時間以上も早く病院にたどりついた。外来の受付は終わった時間だったが、総合待合室にはまだまばらに人影があった。蒔ちゃんはビニルクロス張りのそっけないソファの前で、僕の肩をたたいた。
「私はここにいる。行ってきなよ」
僕はうなずいた。
「行ってくる。ありがとう、蒔ちゃん」
「私のことはいいからさ」
ひらひらと手を振って、蒔ちゃんは力が抜けたようにソファに座り込んだ。
僕は案内板を見て、心臓外科の矢印が指す方向へと歩き出した。




