表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/7

5 坪庭の金魚

 午前中は、掃除をする蒔ちゃんの邪魔にならないように、車に乗って外出し、あたりのロケハンをした。方位磁針や地図と見比べながら、気に入った景色の一番光線がいい時間を予想するのだ。僕の好きな作業だった。いくつか、撮影したい候補の場所が見つかった。民宿には昼食の設定がなかったので、僕は車で駅前に戻って、蕎麦屋に入った。


 ざるそばとミニ親子丼のセットを頼んで待っている時に、ふと携帯電話を開くと、見知らぬ番号から着信が入っていた。音を切っていたため、気が付かなかったのだ。


 携帯電話が普及して、セールスの電話も多くなった。個人情報というものに世の中がうるさくなった結果、同窓会名簿などもあまり外部には流出しなくなってきたのだが、そうなると今度は、電話で広告しようとする会社も頭を使う。最近は、コンピューターを使って手当たり次第の番号に電話をかけては、着信音がなるかならないかのタイミングで回線を切断し、着信に気が付いて掛け直した相手に執拗に電話セールスを行う手法が横行しているらしかった。


 下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、の方式で、あらゆる番号に電話を掛けまくり、見知らぬ番号でもうっかり掛け直してくる、気がよくて信じやすい人間をリストアップする。こんどはそいつらを狙って言葉巧みに不安を誘ったり射幸心をあおったりして、胡散臭い商品を売りつけるというわけで、残念ながらなかなかの効果をあげているようだった。


 大方、その類の電話にちがいない。


 僕はそう思って、携帯電話をぱたんと閉じた。敢えて掛け直すこともないだろう。


 これ以上走り回っても収穫は得られなさそうだった。鰹節を奢った濃いつけ出汁のそばを堪能した後で、午後は民宿に戻って、蒔ちゃんの依頼を果たすべく、建物の撮影プランを練ることにした。


 印象的なのうぜんかずらは入れたい。一枚一枚手作業で作られたとおぼしい、微妙な歪みに味わいのある古い窓ガラスも。間取りを思い出せるように、廊下をまっすぐ見通すアングルもいい。いくつか、僕なりの提案はあったけれど、蒔ちゃんの希望を聞くのが一番だろう。


 帰ってみると、蒔ちゃんは玄関の周りの草取りをしているところだった。


「せっかく写真を撮ってもらうんだし、お化粧してあげないとね」


 屈託なく笑う蒔ちゃんに、朝の激情の影は見えなかった。僕は、臆病かもしれないが、少しほっとした。


 荷物を置いて、蒔ちゃんの作業を手伝いながら尋ねた。


「どこの写真がほしいんだい?」


「そうだなあ」


 蒔ちゃんは考え込んだ。手は止まらず、除草ごてを力強く振るって、メヒシバの根っこを切っている。ぶちぶちと音がして、強い雑草の根っこも、金属のエッジに切断されていった。抜けかけた乳歯を引っこ抜くみたいに、蒔ちゃんはメヒシバを掴んで前後にゆすった。


「今、秀治さんがいる部屋。あの部屋、うちで一番いい部屋なんだ。花瓶があるでしょう。あれを、床の間に飾ったところの写真はほしい。母がいつも、絶やさず花を活けていたから。今日も花を替えたんだよ。タチアオイは見頃が一日限りだから」


「へえ」


「父が好きだったのは、この玄関。看板が見えるようにしたから、ここも撮ってほしい」


 ふと見ると、看板にかぶさるようにもりもりと咲いていたのうぜんかずらが、その付近だけ、一部刈り込まれていた。蒔ちゃんの言う通り、昨日も確認した『凌雲荘』の文字が全部見えるようになって、色褪せた看板に端正に並んでいた。


「雲をしのぐ、か」


「ここを始めた、ひいおじいちゃんがつけたんだ」


「へえ。なんでこの名前なの?」


「のうぜんかずら。漢字だと、凌霄花りょうしょうかって書くの」


 蒔ちゃんは、とがった石を拾うと、土の上に大きく、画数の多い漢字を二つ書いた。


「凌霄荘、でもよかったのかもしれないけど、この字だと読めないでしょう。それで、意味はほとんど同じで、読みやすい漢字のこっちにしたんだって」


「のうぜんかずらは、じゃあ、その頃から植わっていた?」


「うん。ひいおばあちゃんが好きな花だったって。最初は一株だったらしいけど、根っこのほうでも増えて広がって、種もこぼれて。毎年剪定が大変」


 これだけわさわさと茂り、もりもりと咲けばそうだろう。


「蒔ちゃんは、継ぐ気にはならなかったの」


 僕が尋ねると、蒔ちゃんはのうぜんかずらの蔓に沿うように、視線をふっと上にあげた。


「この花が好きだって言って、毎年海水浴がてら来てくれるお客さんもいたんだけどね。お子さんが大きくなっちゃったりして、そういうお客さんもどんどん減っちゃったなあ」


 彼女はくすくす笑った。手元は片時も休まず、雑草をやっつけようと動いている。


「若い人たちは、もっと海に近くて、きれいなホテルのほうがいいでしょう。うちは、小さい子が来て多少暴れても周りのお客さんに気兼ねない、というのが売りなくらいで、まあ、人気はでないよね」


 まるで自分が若くないみたいに言う。


「だから、しょうがないよ、もう」


 また雑草が一株抜かれた。がっしりと張っていた根っこを断ち切られて、鷲掴みで揺すぶられたそれは、最後はあっけなく彼女の手にぶら下がっていた。その手つきは迷いがなく力強かった。何度も何度も、何年も何年も、繰り返されてきた動作なのだ。


「蒔ちゃんは?」


「ん?」


「蒔ちゃんはどこの写真を撮ってほしい? お母さんは二階の角部屋の花瓶、お父さんは玄関と看板だろう。蒔ちゃんはどこがいいんだい?」


「私は――」


 蒔ちゃんは、初めて草を抜く手を止めた。


 除草ゴテを手に立ち上がる。


「来て」


 玄関を開けると、除草の道具を靴箱の下のかごに放り込んで靴を脱ぎ、一階の廊下をすたすたと歩き始めた。猫のような気まぐれな動きに、僕は完全に飲まれつつ、後を追って靴を脱いだ。


 一階の客室の前を通り過ぎた先に、小さな坪庭があった。石組の中に、南天やつわぶきのような日陰を好む草木が身を寄せ合うように植えられている。その隣に、雨どいからの水を受けるようにして、直方体のコンクリートの水槽のようなものがあった。ホテイアオイの株が、いくつか、肩を並べるように浮かんでいた。


「ここの写真がいい。以前は、この水槽に金魚がいたの。私が小さいころ、縁日ですくってきた和金」


 水は、中に繁茂している藻類の影響か、深い緑色に見えた。僕は、イメージの中でそこに金魚を泳がせた。餌をもって子どもの蒔ちゃんがここに来たら、水面近くに上がってきただろうか。明るい朱色がきっと映えたことだろう。


「たったこれしか世界がなくて、かわいそうだなって思ってた。でも、父は、川に放したら死んでしまうって。この辺は鵜も多いし、金魚の遊泳力は強くない。そもそも満潮になると海水が混ざるような川では、無理だって。だから、ずっとここにいた。秀治さん、さっき、継ぐ気はなかったのかって聞いたでしょう。継いだら私、金魚になっちゃうと思ったの」


 蒔ちゃんは、掃き出し窓を開けた廊下のふちに腰を下ろして、ひざから下を坪庭の砂利の上にぶらぶらとさせた。


「ここ」


 自分の隣を指さす。座れということだろうか。おずおずと腰を下ろした。


「父の口癖は、婿を取って家を継げ、だった。女一人で民宿は無理だって。そうだよね。昨日、秀治さんも心配してくれた通り。お客さんがみんな、信用できる人とは限らないし、ここは周りの家からも距離がある。といって、泊りこめる人を使うほどには、収益は上がらない。結婚して、家族でやっていくしかない。それはわかってたけど、でもそれが嫌だった。私が好きになった人が、民宿をやりたいとは限らないじゃない。それに、私が男だったら、きっと父だって、一人ではできないって言わなかったと思うの。それが、女の私は半人前だって言われたみたいで。だから、資格を取って一人前扱いしてもらえる仕事をして、継いでくれるかなんて心配をせずに自分が選んだ人と結婚したいって、言ったの。でも、父は分かってくれなかった。いつかは私が改心して帰ってくると思っていた。死に目には、仕事で会えなかったんだ」


「好きな人は見つかった?」


 僕は尋ねた。蒔ちゃんが、付き合っている人がいるのかどうかも、聞いたことはなかった。聞けなかったのだ。


「うん。でも、片思いだな。気づいてもくれない」


 彼女はまた笑った。


「蒔ちゃんが言えば、ぐらっとこない男はいないんじゃないか」


「じゃあ、秀治さんは? 私が好きだって言ったらどうする」


 いつもの気のない調子で彼女は言い返した。


「ええ? とりあえず、ほっぺたをつねるか、耳を引っ張って、夢を見ていないか確かめる」


 僕も笑った。いつもの蒔ちゃんの冗談だと思ったのだ。


 だから、次の瞬間、蒔ちゃんの左手に耳を引っ張られて、右手に頬をつねられたときは完全に不意を突かれた。あっけに取られて固まっている僕の唇に、やわらかいものが触れた。

 唇をほんの少し離して、蒔ちゃんはささやいた。


「私、秀治さんが好きだよ」


 どうする?


 蒔ちゃんの大きな瞳が問いかけていた。


 答えはもちろん、決まっていた。


 僕は蒔ちゃんの背中に両腕を回した。今度は僕から、そのやわらかい唇に、唇を重ねた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] 男尊女卑の時代があったってのは……知っているけど嫌な気持ちになるから忘れたいねぇ。 染色体的には男と違って完全体だよ、女のそれは。 [一言] (*ノωノ) ハゲz……じゃなくて禿治!…
[良い点] 耳を引っ張って、頬をつねる蒔ちゃん……! なんか可愛い! そして、秀治さん、やる時はやる人だった! ああ、にやにやしてしまうー! [一言] どんな素敵な写真が撮れるのかなーと、ワクワクし…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ