4 女の戦いとクリームパン
潮がまた満ちてくると、突端を回り込むのは難しくなる、という蒔ちゃんのアドバイスにしたがって、僕たちはすぐに元の岩場に戻った。勝手知ったる自分の縄張り、とばかりに案内してくれた木陰の岩に腰掛けた蒔ちゃんは、僕に、紙コップに注いだコーヒーと、昔ながらのグローブのような形をしたクリームパンを渡してくれた。駅前にあるパン屋の商品だという。
「クリームがおいしい。パン生地はまあまあ」
辛辣なことを言いながら、蒔ちゃんはパンをかじり、コーヒーを飲んだ。
僕も蒔ちゃんにならって朝食を口に運んだ。パンは確かに少しパサついていたけれど、芥子粒よりも小さい黒い粒が散ったカスタードクリームは、とろけるようにおいしかった。
僕は、何気なく尋ねた。
「蒔ちゃん、なんで仕事辞めたの」
先週もその前も、定食屋で会った。民宿を紹介してくれたときには、少なくとも辞めることが決まっていたということになるだろう。だが、彼女はそんな気配はみじんも感じさせていなかった。
「クビになった」
蒔ちゃんは口をへの字にした。
「なんで」
「疑われて。私は身に覚えのないことで。嫌になっちゃう」
僕は驚いた。蒔ちゃんは必要な時には姿勢も礼儀作法もちゃんとしているし、攻撃的ではないが気丈だ。何かがあったときに疑われるタイプにも、疑われて黙っているタイプにも見えなかったからだ。
「私さ、看護婦なんだよね。あ。そのうち、看護師っていうようになるんだよ。男女平等の世の中だから。でも、男女平等なんて、嘘ばっかり」
蒔ちゃんは、顔をあげて、目の前の木立ちの向こうに仇敵がいるかのように鋭く前方を睨みすえた。
「学校を出て、最初は、そこそこの規模の病院で働いてたんだ。でも、そこで、お局さんたちに若手のドクターを狙ってるっていう根も葉もないうわさを立てられて、無視されたり、意地悪されたりして、仕事が続けられなくなった。そしたら、その病院の院長が、看護婦を探している知り合いがいる、って、所属は病院のままで、そのご家庭を訪問する仕事の専属にしてくれたの。法律上、そんなことしていいのか分かんないけど、なんか色々いいように書類上の処理をしたんでしょうね。なんなら専属の看護婦を雇おうかっていうくらい裕福なご家庭の、寝たきりの患者さんを週に何日か看護する仕事。患者さんは優しいおじいちゃんで、すごくよくしてくれた。いつも、ありがとうねって言ってくれてさ。でも今度は、その家のご主人がね。おじいちゃんの娘さんの旦那さんなんだけど。仕事の後、外に食事に行かないか、とか、休みの日に会えないか、とか言い出して」
蒔ちゃんは一息ついて、コーヒーを飲み干した。
「全部断って、院長からも、やんわりと注意してもらおうとしたんだよ。それでも収まんなくて。とはいえ、おじいちゃんはすごくいい人だったし、お世話したかったから続けてたんだ。でも、院長がその話をご家庭にしてから、奥さんがすごく気にするようになって、夫婦仲がぎくしゃくしていったらしいんだよね。そのうち、奥さんは疑心暗鬼になって私にあれやこれや当てこすりを言うし、旦那さんは大っぴらに私に色目を使い始めるし。もう辞めたいって思い始めてた頃、旦那さんに、帰り際、強引に腕を掴まれて、振りほどこうとしていた時に、ちょうど間が悪く奥さんが入ってきて、私のほうを罵ったの。旦那さんを誘惑しているって。そしたら、もう、ダメだよね。それまで院長に相談してたのも全部、なかったことにされて、私が全部悪い、誘惑してた、ってことになった」
紙コップが彼女の手の中でぐしゃりとつぶれた。
「院長はすっごい気の弱い人でさ。私には親切ぶって、訪問先で困ったことがあったら何でも相談しなさいなんて言ってたから、いい人だなんて信じてた私がばかだったの。結局、私をそうやって病院に籍を置いたまま、そのご家庭の訪問の専属にしたのだって、先輩や同僚があることないこと言って、仕事が出来なくしたの、分かってたからだったんだよね。病院で職場いじめがある、人間関係が悪いなんて噂立てられたくないから、口止めのために、自分の目が届く範囲に置いておきたかっただけ。相談しなさいなんて言ってたのも、自分が状況を把握しておきたかったから。でも、そんなことになって、資産家の総領娘である奥さんに嫌われたら、病院の経営がやばくなるから、今度は、私が全部悪者になる形で切ったの。そうしたら、今さら私がいくら病院の悪口言ったとしても、誰も信用しないでしょ。そんなくだらないこと、するつもりなんてなかったけど。無駄だし」
淡々とした口調に、苦いため息が混ざった。
「だけど、院長ときたらさ、最後まで自分が悪役になりたくなくて、きっれいな言い方するんだよ。相談役とか言って、自分にべったりでいつもしっぽ振ってる、病院の法律担当の職員まで同席させてさ。蒔子さんなら、どこに行っても看護の仕事できるだろうから、ここは、こちらの顔を立てて辞めてくれないかって。退職金には色を付けるからってさあ。二人ともニコニコしてるけど目は笑ってないわけ」
白けたように、彼女は肩をすくめた。でも、僕には、彼女のまだ生々しい傷が手に取るようにわかって、苦しかった。
「どうせ、あの奥さんには強いことなんか言えなくて、看護婦には説教して納得させて、辞めさせましたからなんて自分に都合にいい説明するに決まってる、って分かってたから頭来てたけど、そこでは、私もその話で引くつもりだったの。でも、話が落ち着きかけたところで気が緩んだのか、院長の野郎、へらへらした嫌らしい笑い方してさ。君にも完全に落ち度がなかったとは言えない、家に君みたいな見た目の若い女が出入りしていたらそりゃあ男は気になるものだから、とか言いくさったのにぶちぎれて、平手打ちしたんだよね。その瞬間に、退職金もぱあ。完全に、クビ」
蒔ちゃんは人差し指と中指をそろえて、自分の首に横一文字を描いて見せた。乾いた自嘲の笑いがこぼれた。
「その若い女が家に出入りするように手配した人間はどいつなんだよ。私の見た目って何? 落ち度って何? 若い女だってことが犯罪だとでもいうの? 私は若い女じゃなくて、専門技術を提供するプロフェッショナルだという自負を持って仕事してたんだ。でも、おじいちゃん以外は誰もそんな風に思っていなかったんだ、こんなに簡単にいらないって言われるんだなって思ったら、嫌になった」
僕は、うん、としか言えなかった。
今ここで僕が何を言っても、蒔ちゃんの怒りと傷は癒せない。
おじいちゃんは優しくて、ご夫婦はぎくしゃくしていた、か。
三丁目の高木さんの家族写真を撮るとき、やわらかい笑顔が引き出せなくて、ずいぶん苦労したのを、ふと思い出した。あきらめて、おじいちゃんに意識を集中させて撮ったのだ。
蒔ちゃんはあの頃、あの家で、一人戦っていたのだろう。そしてどこかで、僕の写真を目にしたに違いない。ああ、定食屋でよく会うあいつの写真なのか、くらい、腹の底で思って、写真を見たのかもしれない。
蒔ちゃんは、僕の沈黙を正確に理解したようだった。
「高木さんのおじいちゃん、秀治さんの写真を気に入って、遺影に使うようにって娘さんに頼んでた。すごく喜んでたよ。亡くなったおばあちゃんの写真の横に並べてた。私がこんなことを言ったのは、本当は内緒。職務中に知りえた患者さんの情報は、外部に漏らしちゃいけない。プロ失格だね」
潮の匂いがする風が吹いて、ふっと梢を見上げた蒔ちゃんの頬に木洩れ日が踊った。僕はすっかり冷めていたコーヒーを飲み干した。砂糖もクリームパウダーも最初から入れてある、甘くて苦いコーヒーだった。
「蒔ちゃん、これからどうするんだい」
「秋の取り壊しの後は何にも考えてない。海外にでも行こうかな、なんて思ってる」
「海外?」
「看護学校時代の友達が、青年海外協力隊で、ウガンダにいるんだ。すごく充実してるって、時々絵葉書をくれる。昨日着てたワンピースも、その子が一時帰国したときにお土産でくれたの」
蒔ちゃんは遠くを眺めるような目になった。
「文化も言葉も違って苦労も多いけど、お互いがお互いの言っていることを全力でわかろうとするし、やったことにはありがとうって言ってもらえるって。お母さんたちも、子どもたちも、目がまっすぐだって。すごくうらやましくなった」
行けば行ったですごく大変なんだろうけどね、と彼女は付け足した。
「帰る。もう少ししたら、クリーニング屋さんが来ちゃうんだ」
蒔ちゃんはふいっと岩から降りると、足音のほとんどしない優雅な歩き方で、木立ちの中の道を民宿に向かって歩き始めた。
「荷物が重いなら、秀治さんはゆっくりでいいよ」
肩越しに言う。
そうはさせるか。僕はリュックサックを背負い直して、小走りに蒔ちゃんを追いかけた。
<2021年1月7日改稿>
蒔ちゃんが前職をやめたくだりについて、法律上、問題があるという指摘をいただき、改稿しました。
貴重なご教示をくださった読み手様に、心より感謝を申し上げます。
リサーチ不足を反省し、今後の執筆活動にも生かしたいと思います!