3 夜明けの海岸で
夜、僕はなんとなく眠れなくて、何度も寝返りを繰り返した。
先々週、父が掛けてきた電話の声が耳によみがえる。
『秀治。夏休みがとれるんだったら、帰ってこい』
三年前、母を亡くしてから、僕は何かと理由をつけてごく短い日数しか帰らなくなっていた。もう少し、もう少しと仕事を辞めての帰郷を先延ばしにする僕と、継ぐなら早く戻ってこいという父の間に立って防波堤になってくれていたのが母だった。その母が亡くなって、父の催促は頻度も程度も増した。父自身、衰えを感じてもいるようだった。母を亡くしてからめっきり老け込み、白髪が増えて姿勢も猫背がちになっていった。
その現実を見たくなかったのかもしれない。
今回も、休みがとれたのだから、予定を変更して帰ったよ、と父のところに顔を出せばよかったのだ。だが、当初取らせてもらうはずだった盆休みに少し帰るつもりでいたのだから、と、僕はまたその問題を棚上げにした。敢えて有休をつなげようとしなかった盆休みは三日しかない。それを口実にさっと東京に戻れるのに、五日もぽっかり休みをもらってしまった今回、帰ったら、思いがけず父に捕まって足止めを食らう、と、どこかで考えていたのかもしれなかった。
今帰りたくないからといって、父に、もう帰らない、写真の道に進む、と宣言するだけの気概や反骨心も僕にはなかった。写真は写真で限界が見えてしまっていたのに、一方で帰郷も気づまりだった。そんなどっちつかずの中途半端な日々が積み重なっていくうちに、僕の中で次第に何かが腐りかかっているような、漠然とした焦りだけが増していった。
『秀治さん、自分の写真、嫌いだよね』
蒔ちゃんの声がふと思い出された。
嫌いなのは写真ではない。そこに写し出された、どっちつかずの自分だった。
夜明けの写真を狙うなら、夏の夜は短い。
僕は何とか眠ろうと努力した。うとうとしたと思った次の瞬間、夜明けに十分余裕をもって仕掛けていた目覚ましが鳴った。
せっかく来て、この時間に外に出なかったら、本当に何をしに来たのかわからなくなる。僕は重い体を布団から引きはがして、歯磨きをしに洗面所へと向かった。
いくら何でも、蒔ちゃんはまだ眠っているだろう。起こすのが嫌だったので、通用口から出させてもらえるように、昨夜のうちに話をしてあった。僕は足音をなるべく立てないように階下に降りて、通用口がある台所へ向かった。
常夜灯だけの暗い状態を想像していたが、台所の明かりはついていた。
「おはよう」
調理台の前のスツールにおしりを半分ひっかけるようにして、蒔ちゃんがマグカップを手にひらひらと手を振った。コーヒーのいい香りがした。
「蒔ちゃん、起きてたの」
「話を聞いてたら、私も日の出が見たくなっちゃった。お邪魔じゃなければ、ついていってもいい?」
無理だったら別に、仕事は色々あるからいいんだけど、と首をかしげて言う。
「どうぞ」
普段だったら、そして、蒔ちゃんでなかったら、言わない一言だった。
「じゃあ、コーヒーとクリームパン、持っていこう。外で朝ごはんも気持ちいいんじゃない」
蒔ちゃんは嬉しそうに言ってスツールを降りると、戸口の横にひっかけてあった麦わら帽子を手に取った。
◇
蒔ちゃんは歩くのが早かった。
懐中電灯を持って足元を照らしながら、すたすたと行ってしまうので、僕は時々小走りで追いかけた。いつもより気持ち大股にして、やっとペースが合った。
僕はカメラや三脚のはいったリュックサックを担いでいる。麦わら帽子と小さな魔法瓶、あとはパンが二つ三つ入ったトートバッグを持っているだけの蒔ちゃんとは荷物の量が雲泥の差だった。でも、そんなのは、歩くのが追いつけない言い訳にはできない。そんなかっこ悪いところは見せられない。
「ほら、間に合ったんじゃない? もう少ししたら、水平線が白み始めそう」
海が見えてきて、蒔ちゃんははしゃいで空を指さした。
彼女の言う通りだった。
影絵のようにうっすらと、湾の向こう側の岩や陸地の形が濃い墨色に浮かんで、裾のほうが淡いブルーグレーになりかかった空を切り取っている。街灯や看板灯だろう、夜通しついていたらしい明かりが幾つか、まだきらめいている。
あの明かりがすべて消えた瞬間から、数分が勝負だ。
僕はカメラと三脚を用意して、アングルを探し始めた。
蒔ちゃんは一歩下がった岩の上に座って、ひざに頬杖をついてぼんやりと僕を見ていた。
明かりが、一つ、また一つと消えていく。アングルは見つからない。僕は焦燥感に足の裏を灼かれるような気がしながら、イライラとカメラを抱えて歩き回った。
明かりがあと一つになったとき、ふいに、蒔ちゃんが立ち上がった。
「あそこの岩の突端、回りこめるよ」
指をさす。
「今、干潮だから。ついてきて」
かかとにひっかけるバンドのついた形のゴムサンダルで、岩の上をひょいひょいと進んでいく。僕は慌てて追いかけた。
「濡れてるところ、滑るからね」
そういうものの、彼女自身は、器用にバランスを取って、すいすいと岩の上を渡りきって、先ほど指さしていた岩の突端の向こうに姿を消した。僕もカメラを岩にぶつけないように気をつけながら、彼女に続いた。
視界が一気に開けた。
おお、と、思わず声をあげた。
目の前には、大きく景色が広がっていた。
右手には、先ほどから見えていた、湾の向こう側にあたる街の明かりがわずかに見える岬。そこから、左側には、先ほど回り込んだ岩のせいで隠れていた海が、水平線まで遠く見渡せた。
これなら撮れる。僕は足元のしっかりしたところを探して、三脚をセットした。岬に一つ残っていた光は、いつの間にか消えていた。
水平線が白くなり、やがて、茜色に染まり始める。
僕は雲の流れや波の形を読みながら、狙いすました瞬間にシャッターを切った。
なるべく節約したつもりだったが、あっという間に、フィルムを一本使い切ってしまった。
でも、これなら、二枚か三枚、納得のいく写真が取れているに違いない。そんな、久しぶりの手ごたえがあった。
あっという間に、太陽が登っていく。
僕の狙っていたゴールデンタイムは終わった。
「いいの、撮れた?」
また、僕の背後で静かに岩に腰掛けていた蒔ちゃんが、僕がカメラを片付け始めたのに気が付いたのだろう、声をあげた。
昨夜と同じ質問だった。
「撮れたと思う」
「よかった」
蒔ちゃんは笑った。