2 撮れない写真と親子丼
休業していたと聞いて、心配していたのだが、館内は手入れも掃除も行き届いていた。二階の角に用意された僕の部屋にはタチアオイの花を活けた小さな花瓶までおいてあった。
布団も、レンタル業者に運び込んでもらったばかりということで、さっぱりとした清潔そうなものがきちんと揃えて部屋の隅に積まれていた。パリッとノリをきかせ、角を揃えてたたまれたシーツが載せてある。
僕は荷物を置いて、しばらく足を延ばして一休みした。一週間がっつり働いた後で、長時間電車に揺られたあと、なれない道をレンタカーで運転した。住所だけを頼りに地図を見てここにたどり着くころにはもう、すっかり疲れてしまったのだ。
だが、日が少し傾いて、風が心地よく感じられるころには、元気が出てきた。カメラを持って、海岸へと散策した。東向きの海岸は夕焼け空を狙うには不向きだが、湾曲した海岸線のずっと向こうに見える街の明かりがちょうど灯りだしたところの、淡い藍色に沈んだ夕やみの景色に風情があった。
いい景色だ。これを上手く切り取れれば、きっといい写真になるのだろうに。
ファインダーを覗き込んでは、幾度も立ち位置を変え、狙った雰囲気を切り取ろうとしても、思ったような画が撮れる気がしない。何が、というのはわからなくても、何かがいけないことだけはわかる。
すくった水が指の間から零れ落ちるように時間だけが過ぎていき、夕方の淡い藍色は次第に闇に沈んでしまった。
この頃はいつもそうだ。仕事ではなく自分のために撮る写真となると、とたんにうまく撮れなくなる。
デジタルカメラを買おうか。フィルムのことを気にせずたくさん撮影したら、その中にいいものが一枚くらいあるかもしれない。自虐的にそんなことを考える。
だが、道具さえいいものに変えればうまくいくのではないか、というのは、ないものねだりの甘い考えであることくらい、僕にもわかっていた。思い切って、この一枚を、という気迫もなしに、漫然と撮ったって上手くなるわけがない。
僕はあきらめてカメラをしまった。すっかり日が暮れてしまった。
宿に戻ると、最初にお茶を出してくれた一階の部屋の大きな座卓に、蒔ちゃんが料理を並べているところだった。
「おかえりなさい」
こちらを振り返って言う。
「料理、もう食べられるよ。あとは温かいものを出すだけ。お風呂が先でもいいけど、どうする」
一瞬、軽くめまいがした。
足元がふわっとずれるような気がする。初めてなのに、何回も何回もこの光景を繰り返しているような感覚。何か大きな出来事が起こる前、時折、こんな感覚に襲われることがあった。いいことか悪いことかわからないけれど、何かが起こる、それだけはわかった。
できるだけ何でもないようなふりで言った。
「ありがとう。お風呂、先にいってくる」
◇
料理は蒔ちゃんの言う通りおいしかった。
「私もお相伴でいいかな」
蒔ちゃんが言うので、二つ返事でうなずいた。もともと、しょっちゅう一緒に夕食はとっていたのだから、一人より二人がいいに決まっている。
僕のは仕出し屋の会食料理で、刺身や煮つけ、茶碗蒸しなどが彩りよくお重に詰められたものだったが、蒔ちゃんは自分の台所で作ったらしい親子丼だった。
「秀治さんはお客さんだからね」
何でもないことのように蒔ちゃんは言う。
「注文があれば、ビールも出せるよ」
テーブルの隅っこに置いてあったカード立てを指さして言う。お品書きが入っていた。
「じゃあ、もらおうかな。瓶、一つ。蒔ちゃんも飲めるなら、コップは二つ持ってきてよ」
「ごちそうになります」
蒔ちゃんはそう言うと、ビールとグラスを二つ持ってきた。
お互いに注ぎあって、何を言うでもなくなんとなくグラスを合わせると、いつもの定食屋のような雰囲気になった。
「写真、いいの撮れた?」
「いやあ、無理。なかなか」
「景色がよくないのかな。薦めた手前、責任感じるなあ」
「そんなことはない。腕前のほうだね」
僕はなんとなくチクリと痛む胸の奥に流し込むように、ビールをあおった。
「まあ、秀治さんは芸術家だからね。直感で仕事するタイプだもんね」
「見てきたようなこと言うじゃないか」
「見たんだよ」
蒔ちゃんは笑った。
「どこで?」
「三丁目の高木さん。家族写真撮ったでしょ。おじいちゃんの優しいお顔が雰囲気でてて、いい写真だった」
写真館の近くのご家庭である。しばらく前、出張して家族写真を撮ったのを思い出した。
「なんで? どこで見たんだい」
「そりゃあ、高木さん家に決まってる。なんでかは、職業上の秘密で言えないな」
「蒔ちゃんの職業って?」
「今は民宿のおかみだよ」
またはぐらかされた。
「秀治さんは? 前言ってたじゃん。家業を継ぐかどうか迷ってるって。決めたの?」
「そういえば、そんな話、したっけ」
まだ正直、迷っていた。必要な資格だけはとっている。それが東京に出てくる条件だった。だが、継ぐとなればそれだけでは不十分だ。父のもとに戻って修行しなければならない。
「もうちょっと、カメラ、やりたいんだけどなあ。あとちょっと。なんか結果がだせるかもしれないし」
本当は、そんな見込みがないことは自分でもわかっていた。写真館のメインの仕事である、家族写真や、学校行事に呼んでもらって撮るような写真の技術は上がった。でも、コンクールに入選したり、自分の名前を出してマスメディアに乗せられるような写真を撮れるかというと、僕の技術は正直そこまでいかない。才能に溢れ、どんどんジャンプアップしていく人たちを目の当たりにして、僕自身はあがいてあがいて、それでも、無理だろう、と気が付いてしまっていたのだ。
「私は秀治さんのあの写真、好きだよ。だけど、秀治さんはこの頃、自分の写真、嫌いだよね」
蒔ちゃんは鶏肉に三つ葉を丁寧に乗せると、きれいな箸遣いで口に運んだ。
「うーん。そんなことないと思うけど」
「でも、見せてって言っても、趣味でとったやつ、見せてくれないじゃん。それでも、仕事にしようと思うくらいなんだから、前は自分の写真、好きだったんでしょ」
僕は言葉に詰まった。
「この民宿の写真、撮れたら、私にも現像してくれる? プロの写真家なんだから、ちゃんとお金は払うし」
「いいよ」
僕はうなずいた。依頼があれば、なんでも撮る。依頼があれば撮れる。ここが取り壊されたとしても、蒔ちゃんが心の中でここを訪れられるような写真を撮ろう、という軸ができて、僕の頭の中でプランが幾つも走り始めた。
蒔ちゃんはそんな僕を見て、またよくわからないポイントで笑った。
「秀治さんが芸術家モードに入った。写真、楽しみだなあ」
それから、少し黙って、二人とも食事の残りを食べた。煮つけも、茶碗蒸しも、全部おいしかったし、量も十分にあったけど、僕はなんとなく、蒔ちゃんの親子丼がうらやましかった。
食べ終わると、蒔ちゃんはお茶を淹れてくれた。自分は座らずに、さっと食べ終わった皿を洗い始める。その背中に問いかけた。
「この民宿、夜は僕だけになるの? 戸締りとかはどうすればいい?」
男一人の客を泊めるくらいだから、蒔ちゃんは別のところに家があって、通ってくるのだろうと思っていたのだ。
「ううん。わたしの部屋もあるから。その、帳場の裏のところ。なにか必要なものがあったら、声を掛けて」
さらっと言うので、また驚いた。今日の蒔ちゃんには驚かされてばかりいる。
「そういうのって、大丈夫なの。ご近所とか、うるさく言わない?」
「知らない」
蒔ちゃんはけらけら笑い声をあげた。
「だって、休業前は父がやっていたんだもの。誰を泊めたって誰も何も言わないよね」
それはそうかもしれない。だが、僕自身も田舎育ちなので、ご近所付き合いの空気みたいなものは少し気になった。蒔ちゃんは未婚の若い女性で、僕は蒔ちゃんの知り合いだ。変な風に勘ぐる向きもあるのではないか。
そういうと、蒔ちゃんはこちらを振り向きもしないで、首をかしげた。
「だって、秀治さんは私にそんな気ないでしょう。何泊かして、東京に帰るでしょう。だから、ご近所が今何を思ったって、そのうちわかるからいいんじゃない?」
ああ、そうか。そのときふいに気が付いた。
「蒔ちゃん、もう、東京には戻らないのか」
それは、問いかけというよりは確認だった。
「そう」
蒔ちゃんはやっぱりこちらを振り返らないままで、あっさり肯定した。