1 のうぜんかずらの茂る宿
その民宿の前に立って、真っ先に目に付くのは、のうぜんかずらだった。古びた木造建築は、風雨で外壁が焦げ茶に黒ずんでいた。そこに、幾本もの鮮やかな緑色のつるが上へ上へと這い上がるように伸び、四方八方に枝分かれして、明るいエメラルドグリーンの葉がわさわさと茂る。その葉を背景に、こぼれ落ちるようにもりもりと房で咲く、小さなラッパを吹き口で束ねたような濃いオレンジの花。
真夏の太陽が照りつけて、光をいっぱいに浴びる花びらや葉の茂みと、その下の濃い影がくっきりとしたコントラストをなしていた。
住所はここであっているはずだ。玄関らしき磨り硝子の引き戸の横、民宿の名前を掛けた看板は、生い茂るのうぜんかずらに半分隠れていたが、まあ間違いないだろう、と思える程度には読み取れた。
二階の窓の木の手すりまで伸びたのうぜんかずらは、うねうねとからめとるようにその頼りない木組みに巻き付いている。そこに手をついて顔を出し、女性が僕の方を見ていた。
彼女の白い肌をふわりと覆う、黒っぽい焦げ茶のサマードレスに、トルコブルーの大きな絞り模様と、ごく小さな鮮やかな赤い模様が散っている。長い髪が、顔の周りで風にあぶられて揺れた。
逆光で影になってよく見えなかったが、彼女はどこか楽しげだった。
「秀治さん」
名を呼ばれて驚いた。知り合いだとは思っていなかったからだ。
だが、目を凝らしてよく見て、気がついた。逆光に加えて、普段の服装と違いすぎてわからなかったのだ。
「蒔ちゃん?」
「本当に来てくれたんだ」
彼女は声を上げて笑った。
◇
「ここが、蒔ちゃんの実家の民宿だなんて知らなかったよ」
「私が言わなかったもの」
彼女は僕の前にお茶を出しながら、くすくす笑った。
「海、見てきた?」
「少しね」
「撮れそう?」
「うん」
東向きの海岸は岩が多く、開けた眺望で、朝日を狙うのにおあつらえむきだった。遊泳禁止で、磯遊びの人たちもいない。みんな、もう少し先の海水浴場に行ってしまうのだ。彼女が言ったことは、嘘ではなかった。
だが、この民宿は不意打ちだった。
『海岸に近くて穴場の民宿があるよ。今からでも予約取れるんじゃないかな。聞いてあげようか』
彼女はまるで他人事のように気のない調子で、ビールで餃子を流し込みながら言っていたのだ。
今週は、ある私立高校の二年生サマーキャンプにカメラマンとして同行する予定だった。ところが、課外講習や部活動で集まっていた生徒と先生たちに、間が悪いことに、食堂を介して集団食中毒が発生してしまった。サマーキャンプは当然、中止である。
とつぜんぽっかりと予定が空いてしまった僕に、勤め先の写真館の社長はのんきに言ったのだ。
『有休でも取ったら? ここで四、五日取ったって、まだ、去年の分の消化にしかならないでしょ』
店のほうは、忙しい時期の谷間にあたり、一息ついている状況ではあった。秋になればまた忙しい。たしかに、ここで取らなければ、この有休は消えてしまうだろう。
そう思って半ば衝動的に休暇の申請を出したものの、八月のこの時期に急遽どこか旅行の予定なんて、簡単に立てられるものでもない。
どうせなら撮影旅行がいい。秋に締め切りのある風景写真のコンクールに応募したいと思っていた。漠然と考えていたのは海の写真だったのだが、この季節に観光客の写り込まない海の写真なんかどこで撮れるというのか。
仕事を終えていつもふらりと立ち寄る、酒も少々出す定食屋で、そんな僕のぼやきを聞いていた蒔ちゃんが、
『いい場所、あるよ』
と言い出したのだった。
蒔ちゃんは不思議な女の子だった。女の子、という呼び方は、合法的にお酒を飲む、しかも、結構飲みなれている彼女には不適切な言葉かもしれない。でも、時には頬杖をつきながら、時にはビールを傾けながら、聞くでもなく聞いて、ときどきふっと相づちを打って、よくわからないタイミングでくすくす笑っている蒔ちゃんの自由な感じは、どこか、十代半ばの少女のような謎めいた印象を与えた。男には一番理解できない年頃の女の子。そんな印象の子だった。
僕は蒔ちゃんが、本当は蒔子という名前だということしか知らなかった。名字も知らないし、住所も職場も知らない。年齢も、酒を飲むのが合法な歳であるとしか聞いたことがない。服装はいつも、白っぽいシャツに濃い色のパンツスーツ、髪は後れ毛の出ないアップヘア。好きな映画や音楽や本の話は山ほど聞いたことがあったけれど、個人的なことは何も知らなかった。
もっとも、蒔ちゃんは、僕のフルネームも職場も誕生日も年齢も知っていた。ふわふわしているようでいて、実はなかなかの聞き上手なのである。彼女は全く熱心な聞き手には見えないのに、実に気のない調子で、しかし、ピンポイントに会話の流れの要となる部分で、ふっと質問を差しはさむ。その質問があまりに的確で自然なので、聞かれているほうは意識もしないままに彼女のペースに乗せられて、気持ちよく自分の話を続けてしまう。その間に彼女は、さりげなく必要な情報をすべて収集してしまうのだ。
僕がなぜそんなことに気づいたかというと、タッチの差で蒔ちゃんとの相席を先客に奪われてしまった日に、彼女たちの会話が聞こえるカウンターの端の席で、いじましく、背中全体を耳にして盗み聞きしていたからである。我ながら情けない話だ。
定食屋の常連客のうち独身の男は、少なからず、蒔ちゃんのことを気にしていたと思う。
僕が蒔ちゃんとの相席をうまく確保できた日には、背中や頬に、鋭い視線を何度も感じたものである。
だが、蒔ちゃんは誰とも同じくらいの距離を保って、特に誰かと親しくもならないが特に邪険にする相手もいないような状態をずっと続けていた。もう、二年くらいになるだろうか。
蒔ちゃんは僕にとって、気になるけれど、ただの行きつけの店の常連どうしの飲み仲間、以上でも以下でもなかった。
『そんな穴場、本当にあるの? あるならもちろん、お願いしたいけど』
『いいよ。電話かけてくる』
餃子をのみくだした蒔ちゃんは、バッグから携帯電話を取り出すと、ふらりと店を出て行った。ほどなく戻ってきた蒔ちゃんから、民宿の名前と住所、電話番号を書き留めたメモをもらったのだ。蒔ちゃんの字を見るのさえ、それが初めてだった。少女っぽい口調や仕草とは裏腹に、わずかに右上がりで大人っぽい手跡だった。口の形を書くときに、左上の角がちょっと開いて、下の横向きの線がすこし右にはみ出す癖が愛らしかった。
そんな希薄な関係だったので、紹介された民宿が、まさか蒔ちゃんの実家で、蒔ちゃん自身が帰っているとは思わなかったのだ。
「今日、お客は?」
「秀治さんだけ」
蒔ちゃんはくすくす笑った。
「閑古鳥でしょう。もう、秋には取り壊すんだよ。古いから。消防法的にも、既存不適格? っていうんだっけ。色々ダメなんだって。今さら、法律に合わせて建て直す資金もないから、廃業するんだ」
「……そうなんだ」
趣きのある、いい顔の建物なのに。もったいない。
僕は素直にそう思った。それを口に出すと、彼女はにこっと笑った。
「じゃあ、秀治さんが写真撮ってよ。お客さんいないから、撮り放題だよ」
「ああ、それもいいかもなあ」
予備のフィルムも多めに持ってきていたはずだ。
「今は、誰がやってるの? 蒔ちゃんのご両親?」
「両親はいない。もう亡くなった」
彼女は口をへの字にした。
「料理は、町内の仕出し屋さんに入ってもらってる。おいしいんだ。その他は、ときどき先代の番頭さんに手伝ってもらうけど、全部私」
「え」
驚いた。だって、蒔ちゃんは先週も普通に東京で働いていたはずだ。
そんなダブルワーク、成立しないだろう。
「先週末で東京の仕事辞めたんだよ。だから、休業してたのを再開させたの。秀治さんが、お客第一号」
「でも秋には取り壊すんだろ?」
僕は混乱した。
「うん。少しの間だけ、できればいいから」
まったくわからない。彼女の話はミステリアスすぎる。でも、それ以上話す気はないようだった。
彼女は僕が書き上げていた宿泊カードをクリップボードごと取り上げると、立ち上がりしなに言った。
「その豆大福、おいしいよ。食べちゃったら、お部屋に案内するね」