8 妻の応え
朔夜が地下牢へと降りて行くと、琴子は格子に凭れるように座り込んで本を読んでいたようだった。足音が聞こえたのかこちらに向けられていた目が朔夜の姿を捉えると、琴子はパッと立ち上がった。
「朔夜さま」
牢の中にいるというのに琴子は落ち着き払い、表情も明るく見えた。そして、こんな場所でも彼女はやはり美しい。朔夜が格子越しに琴子のすぐそばに立つと、琴子は真っ直ぐに見上げてきた。琴子と話すべきことは山ほどあるが、何から始めればいいのだろうか。悩むあまりまだ一言も発せない朔夜を、琴子はジッと待っていた。
「本当に、わたしと夫婦になるおつもりですか?」
結局、最も訊きたかったことを口にしたが、琴子の顔が少し曇った。
「私を妻にと言ったのは朔夜さまです。それとも、私の勘違いでしたか?」
「いえ、確かにわたしの言ったことですが、あなたからは何も応えがなかったので」
「あのときのあなたは私の返事など求めていないようでした」
「そう言われれば、そうでした」
あっさり認めて引いた朔夜に対し、琴子が淡々と告げた。
「あなたでなければ大声を出すか、暴れて抵抗しています。舌を噛み切って死んでいたかもしれません」
いざとなれば琴子が死を躊躇わないことを朔夜はもう充分にわかっていた。あの夜何もせず朔夜を受け入れたことが琴子の応えだった。それをはっきりと確認したくて朔夜は改めて尋ねた。
「あのときわたしが返事を求めていたら、あなたは何と言いましたか?」
「はい、喜んで、と」
「今でもわたしは同じ応えをもらえますか?」
「はい」
ふわりと微笑んで頷いた琴子に朔夜はしばし見入っていたが、我に返って口を開いた。
「わたしの言葉が足りないばかりにあなたを苦しめることになって、申し訳ありませんでした」
朔夜は琴子に頭を下げた。
「私も同じです。あなたにきちんと確かめず、勝手な思い込みで動いてあなたを傷つけました。ごめんなさい」
琴子も頭を下げるのに、朔夜は首を横に振った。
「悪いのはすべてわたしです。あなたが謝る必要などありません」
「いいえ、私も悪かったのです」
琴子が譲らず、口を尖らせた。その顔が可愛くて朔夜が思わず表情を緩めると、琴子は目を見開いて朔夜の顔を見つめていたが、やがて彼女の表情も綻んだ。
ふいに朔夜は己が今すぐやらねばならないもうひとつを思い出した。
「すぐにここから出していただけるよう殿下にお願いして来ます」
「お待ちください」
駆け出そうとした朔夜を琴子が呼びとめた。
「鍵は私が持っています」
驚く朔夜の前で、琴子が手にしていた本を開いた。自然と捲れた頁のあいだに、確かに鍵が挟まっていた。
「殿下が、私の好きにして良いと仰いました。」
朔夜はそれを手に取ると、牢の扉に架かる錠に挿しこんで回した。カチリという音とともに錠が外れ朔夜が扉を開けると、琴子がゆっくりそこを潜った。
すぐにも触れたいと思った朔夜を押し留めたのは、琴子が胸の前に抱えている本だった。
「琴子さま」
「夫は妻をそんな風に呼ばないと思いますが」
拗ねたような顔で琴子が遮った。それは責めるではなく、強請るように朔夜には響いた。
「琴子」
琴子の顔に喜色が浮かんだ。
「触れてもいいですか?」
「今さらそれを訊くのですか」
今度は責められた。
「昨日、書庫で拒まれたので」
「あれは、朔夜さまが嫌だったのではなく、いつ誰が来るかも分からない場所でなさるから……」
琴子が言い終える前に、朔夜は彼女を抱き寄せた。琴子の体が一瞬強張り、すぐに弛緩してその手が朔夜の着物をギュッと掴んだ。琴子の髪の匂いを嗅いでいるうちに、その言葉はスルリと朔夜の口から零れ落ちた。
「琴子、愛しています」
「朔夜さま、私も」
朔夜の胸に顔を埋めているせいでくぐもって聞こえた琴子の声は、そのまま朔夜の体に染みこんだ。
いつまででも琴子を腕の中に感じていたかったが、いつまでも地下牢にいるわけにはいかず、朔夜はその身を琴子からどうにか引き剥がした。琴子の顔が先ほどよりも紅く色づき瞳が潤んでいるのを見て、また抱き締めたくなった。それを堪えて左手を差し出すと、琴子の右手が重なった。
「行きましょう」
「はい」
せめてこの手はしばらく繋いだままでいたかった。