7 嘘と本音
昨晩泣きながら眠りに落ちたせいで瞼は腫ぼったいが、心身は少し軽くなっていた。琴子は早めに起床して湯を使い、水に浸した手拭いで目元を冷やした。
苑子と楓とともに御学問所へ向かうと、その手前で真雪が待っていた。慇懃に礼をしてから、真雪は琴子を見た。
「お父上が話しがあるとお待ちです。一緒に来ていただけますか」
ふたりと分かれてから真雪が琴子を連れて行ったのは東宮殿の執務室だった。
「琴子さまをお連れしました」
真雪に続き入ったそこに父がいないことは予想していた。が、戸の傍に朔夜の姿がないことに琴子の胸は騒ついた。代わりにいたふたりの衛士に真雪が出て行くよう命じ、自らも退がった。
戸が閉まるのを待って、皇太子殿下が文机から顔を上げた。そこに琴子が見馴れた柔らかな笑みは欠片もなかった。
「こちらに座れ」
促す声も冷ややかだった。琴子は礼をとってから、文机を挟んで殿下と向き合う位置に腰を下ろした。
「呼ばれた理由に心当たりがあろうな」
琴子はひとつ呼吸をすると、口を開いた。
「はい、ございます」
「では、そなたがすでに処女でないというのは事実か?」
「事実です。殿下を欺きましたこと心よりお詫び申し上げます。いかような罰もお受けいたします」
琴子が両手と額を床につけると、さらに殿下の声が降ってきた。
「相手は誰だ」
「それは、わかりません」
「わからぬと?」
「暗くて姿が見えませんでした」
「声を聞いたのではないか」
「聞きましたが、聞き覚えのないものでした」
「顔を上げて、わたしの目を見よ」
琴子が言われた通りにすると、殿下の険しい視線とぶつかった。
「そなたは誰を庇っているのだ」
「庇ってはおりません。本当にわからないのです」
琴子は殿下の顔を真っ直ぐに見つめたまま言い切った。しばし考える風ののち、殿下は別のことを尋ねてきた。
「わたしがどうしてこのことを知ったと思う?」
琴子は首を傾げた。琴子の知るかぎり、東宮殿に噂や怪文書が回った様子はなかった。
「本人が告白したのだ」
「まさか」
琴子は呆然としたが、それでも動揺を押し隠した。
「まさかではない。ゆえにそなたが庇う意味はない」
「私には殿下の仰る方がどなたなのかわかりません」
「まだ言うか。だったら牢まで顔を見に行けばよい」
牢という言葉が冷たく刺さるが、グッと歯を食いしばって耐えた。
「本当にその方がしたことなのですか? その方こそ誰かを庇っている可能性は……」
「ない」
琴子が言い終えぬうちに、殿下はバサリと否定した。
「あれは嘘を吐かない。言葉は少ないが、偽ることはしない」
その言葉は琴子を奮い立たせた。
「それほどに信頼されている方を罰するなどおやめください。妃殿下候補のひとりでしかない私よりも、その方のほうが殿下にとって大事な存在のはずです」
「信頼ではなくただの事実だ」
殿下はむっつりとして一度目を逸らし、また琴子に戻した。
「そなたがあれを庇う理由はわたしに必要だから、などではないだろう。あれはそなたを無理矢理犯した。そなたにとっては殺しても足りぬほど憎い相手ではないのか」
「無理矢理ではありません」
琴子は意を決して殿下の前に本心を晒した。
「合意の上だと申すか」
「そうです。あの方は私を妻にすると言いました。私はそれを受け入れました。妻のために夫を死なせるわけにはいきません」
殿下の目にあった険が薄くなったように感じられた。
「なるほど、夫のためなら命を惜しまぬか。だが、どうせならあれのために一緒に生きてやってはどうだ」
「あの方はそんなことを望んでいないのではないでしょうか」
「なぜそう思う。あれが妻にと言い出したのであろう」
「どなたかに命じられて仕方なくやったことでは」
「あれがわたし以外にも仕える相手を持つと言うのか?」
殿下はいかにも心外だというように目を剥いた。
「そのようには、思えませんが……」
「誰かのためにしたと言うなら、あれ自身のためではないのか」
殿下の言葉はストンと琴子の中に落ちてきた。
「妻だと言うならもう少し夫を信じてやれ。あれは心にもないことを口にできるほど器用ではないぞ。まだそなたよりわたしのほうがあれのことを理解しておるようだな」
ようやく殿下の顔に笑みが浮かんだ。意地の悪そうなものではあるが。
「そなたは何を望む? あれのために死ぬことが本当の望みではないだろう」
「私は、あの方のために生きたいです」
琴子が長い間心の奥底に押し込めてきたその想いは、初めて口にしたとたんに膨れあがって、再び隠すことなどできそうになかった。
「では参るか」
殿下がスッと立ちあがって動き出したので、琴子もそれに従った。殿下自ら戸を開けて廊に出るとそこに真雪が待っていて、ふたりに続いた。
殿下は東宮殿の奥へと進んで行くと、廊の突当りのような場所にある何の装飾もない厚い戸を開けた。そこにあった地下への階段をゆっくり降りて行ったさきに、部屋と呼べるほどの空間が広がっていた。ただ目の前に格子が並んでいるのでそこが牢であるとわかる。天井は地面よりやや高い位置にあるらしく明り採りの窓が開いていて、牢の中は意外に明るかった。だから、そこに誰もいないことは一目瞭然だった。
「すまぬな。わたしも嘘を吐ける人間だ。あれは今、外に遣いに出しておる」
殿下に悪びれる様子はまったくなかった。
「そなたの言うとおりだ。わたしはあれを殺さない。だがあれを今後も側に置くためには、そなたのことも殺せない」
琴子は殿下のその言葉を信じられると思った。
「あとはあれから直接聞け。昼過ぎには戻るから、しばらくここで待っていろ」
琴子が大人しく牢に入ると、扉の錠が閉められた。真雪が手にしていた本を殿下に渡し、殿下がそれを格子の間から琴子に差し出した。
「暇だろうから、これでも読んでいるとよい」
「お気遣い、ありがとうございます」
琴子が受け取ると、殿下はサッサと踵を返した。階段の手前で振り向いて、
「それに挟んである栞はそなたの好きに使え」
それだけ言うと、上へと消えて行った。真雪も一礼してから去り、残された琴子は首を傾げながら本をめくった。