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5 返り血

 朝が来ても朔夜は引き続き殿下の側に侍り、今日も変わらぬ姫君たちの挨拶を見届けた。殿下が公務で宮外に出る予定なので、その前に食事を摂るため東宮殿の寮の食堂に向かった。戻る途中で御学問所の横を通るが講義は行われておらず、休講日であることに思い至った。ならばと、隣にある書庫に足を運んだ。

 ときたま琴子がひとりで書庫を利用していることを朔夜は知っていた。ここで琴子を捕まえられれば2人だけで話せる。

 書庫の戸を音を立てて開けると、奥で人の気配がした。迷わずそちらに進めば、はたして書棚の間で本を手にする琴子がいた。朔夜は彼女を逃がさぬよう、すぐ側まで近づいた。こちらを見上げる琴子の顔に怯えがあった。

「あなたは何を考えているのですか」

 自分の声が硬く聞こえた。怯えているのは朔夜のほうだった。

「このままここに留まって、もし妃殿下になる資格を失っていることが知られれば、あなたが罪を問われるのですよ」

「もちろん、わかっています」

「ではなぜ」

「あなたがあのようなことをしたのはあなたなりの信念があったからでしょう。私も同じです」

「そのためには死んでも良いと?」

「はい」

 琴子は本当に死ぬことを怖れていないようだった。死んでも朔夜のものになどなるつもりはないのだ。

「いっそ殺せば良かったのか?」

 口に出したところで朔夜には琴子を殺せはしないのに、

「そうかもしれませんね」

琴子は挑発するように応えた。

 悔し紛れに朔夜は琴子の首に手を伸ばした。琴子が目を閉じたので、その手で後頭部を押さえると彼女に口づけた。もう一方の腕を琴子の背中に回すと、彼女は朔夜から離れようともがいた。腕の力を強めてもなお琴子が逃げようとするので、堪えきれず朔夜のほうが先に逃げ出した。

 皇太子殿下のお見送りに出た琴子の顔を朔夜は見られなかった。


 公務は小学校の視察だった。小学校は家庭教師を雇ったり私塾に通わせたりするだけの経済力を持たない家の子供たちの受け皿になっていて、朔夜と真雪も卒業生だった。

 優しそうな笑顔で授業を見学したり、合唱を聞いたり、一緒に給食を食べたりする皇太子殿下は子供たちに大人気だった。すべての予定を終え帰途に着こうとするが、気がつけば殿下は学舎の前で子供たちに囲まれて、その身体に何本もの手が伸びてきた。護衛としては辟易する状況だが、殿下は自らその手ひとつひとつに軽く触れていった。

 朔夜はふと己の左手になにかが当たるのを感じて下を向いた。こちらを見上げる小さな娘の手が左手を握っていた。朔夜と目が合ったとたん、その娘は迷子のように困った表情を浮かべてから、慌てた様子で手を振り払うと駆け去っていった。

 子供たちにどうにか別れを告げての帰路。殿下は真雪とともに馬車に乗り、そのまわりを騎馬と徒歩の衛士たちが従っていた。視察先が小学校であったため一行の人員は少なく抑えられていた。朔夜は馬の背に揺られながら、あたりへの警戒を怠らなかった。頭の隅をチラチラと掠める琴子の姿はさらに隅へと押しやった。

 両側に民家が並ぶ通りに差しかかった時だった。ふいに一軒の屋根の上からいくつもの笊が降ってきて、あまり幅のない道を埋めてしまった。進路を塞がれて、御者が慌てて手綱を引き馬の足をとめた。

「も、申し訳ございません」

 屋根の上で男が籠を左肩に背負って立ち尽くしていた。そのそばにいた衛士が男に向かって怒鳴った。

「何をしている。早く下りぬか、無礼者が」

 最前にいた数人は、やれやれと言いながら笊を除けようと近づいていく。だが、その光景に朔夜の警戒感が膨らみ、とっさに声をあげた。

「持ち場を離れるな」

 屋根の上の男が籠を衛士に向かって投げ落とした。その手には籠の中に隠していたらしい刀が握られていて、男はそれを振りかぶると屋根から飛び降り、衛士に斬りかかった。同時に、四方から刀を構えた男たちが飛び出してきた。

 だが朔夜には男たちの動きがよく見えた。馬上からひとりを斬り、狭い場所で馬を操るのを不利とみて乗り捨て、さらにひとり斬った。

 衛士たちの応戦も素早かった。刀を合わせてみれば男たちの腕は大したものではなく、わずかな間で12人の下手人はすべて生きたまま捕縛された。

 すぐにやって来た皇都守衛の衛士たちに男たちは引き渡された。周囲の捜索も始まった。皇太子殿下は馬車から降りてその様子を眺めていた。朔夜としては中にいてもらいたかったが、聞く相手ではない。

「ひとりやふたり、わたしにも回せば良いのに」

「殿下のお役目は暴れることではなく、大人しく守られていることです。どうか真雪のように馬車の中でじっとしていてください」

「それではつまらぬ」

 籠が証拠品として運ばれていくのをチラと見送ってから、殿下の視線が朔夜に向いた。

「珍しく下手を打ったな。宮で待つ者たちが腰を抜かさねばよいが」

 朔夜の黒の着物に散った返り血のことだろう。確かにいつもならこれほど浴びることはない。

「さて、帰るか」

 殿下はさっさと馬車に戻った。


 殿下の危難を知らされていた東宮殿の前では多くの者が待っていて、馬車から降りたった殿下を迎えた。その中に探すつもりもなく琴子の姿を見つけてしまう。馬から降りてもう一度そちらを見れば、琴子と目が合いそうですぐに逸らした。そこへ真雪がやって来た。

「一度寮に戻って風呂と飯を済ませて来い。戻る前に衛門府に行って、報告を貰ってきてくれ」

「わかった」

 東宮殿へと歩き出している殿下に一礼してから、そこを離れようとした。

「朔夜さま」

 誰の声なのかはすぐにわかったが、なにか違和感があった。振り返った先にいた琴子の顔に浮かぶ表情は、朔夜の手を間違えて握ってしまった娘とどこか似ていた。

「怪我をなさったのですか?」

 琴子の視線が己の着物に向けられたのに気づき、朔夜はそれを隠そうとした。が、すでに彼女の目に晒してしまったことは取り消せない。

「これはわたしのものではありませんので」

「そう、ですか。良かった」

 泣くのを堪えているような声が居たたまれなくて、朔夜は足早に琴子の前から去った。


「捕えた者たちは皆大人しく治療を受けているそうです。怪我の軽い者から尋問を始めていますが、今のところ黒幕らしき存在は窺えず、あの屋根の上にいたのが首謀者ではないかとのことでした」

「あの家は?」

「空き家だったのが、最近人の出入りが目撃されていたようです」

「目的はまだわからぬか?」

「そのあたりは聞いても要領を得ないようで、ただ騒ぎを起こしたかっただけではないかと」

「首謀者は何と?」

「怪我が重く、まだ尋問出来ていません」

 東宮殿に戻り、執務室で衛門府から持ち帰った報告を殿下に上げた。下手人のうち4人は重傷だか、死ぬことはなさそうだ。衛士側は軽傷がふたり出ただけだった。

「まあ刀の腕といい、足留めの方法といい、本気で殿下のお命を狙ったとは思えませんね」

 襲撃の時には馬車から出てこなかった真雪がそう分析した。

 報告を終えると殿下は執務を再開し、朔夜もしばらくは護衛に着いていたが、やがて今夜の不寝番と交代した。礼をとり退がろうとすると、殿下がこちらを見た。

「よく休め」

「はい」

 短い言葉が殿下からの労いであると朔夜はすぐに理解した。


 東宮殿を出てから寮に戻る前に周囲を見廻って歩いていると、姫君たちと出会した。時間的に夕食を摂って部屋へ帰るところだろう。だが姫君はふたりしかおらず、琴子の姿がなかった。朔夜が脇に避けて頭を下げると、苑子が声をかけてきた。

「朔夜どの、今日はご苦労なことでございました」

「いえ」

 琴子のことが気になりながらも聞けずにいると、それを察したわけでもないだろうに楓が教えてくれた。

「琴子さまはご気分が優れないそうで先にお休みになりました。お疲れもあったみたいですし、良く眠れるとよいのですが」

「そうでしたか」

 顔色の悪かった琴子を思い出した。その原因は己にあるに違いない。

 自室の寝台に潜り込んでから、朔夜は昼間感じた違和感の正体に気づいた。琴子が衛士である朔夜を「朔夜さま」と呼んだこと。しかし、その理由まで考えることは今は無理だった。前夜は徹夜だったこともあり、朔夜はストンと眠りに落ちた。


  ◆◆◆◆◆


「まさか放っておくおつもりではありませんよね」

 ふたりきりになったおりを捉えて、真雪は皇太子殿下に尋ねた。殿下は応えないが、何のことかはわかっているだろう。

「朔夜のやり方は短絡的というか動物的というか、阿呆なことこの上なくて自業自得かもしれませんが、このままでは琴子さまが気の毒です。もともと煽ったのは殿下ですし」

「わたしは煽ってなどいない」

「ああ、そうでした。殿下はただ独り言を漏らしただけでしたね。わざわざ朔夜に聞こえるように。ええ、私はわかっておりますよ」

 殿下は不機嫌な顔でフン、と鼻を鳴らした。

「まったく、手がかかるな」

 言いながら、殿下は筆を手にした。

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