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4 朔夜の告白

 朔夜は日の出前に起き出すと、共同風呂に入り、食堂で朝食を済ませてから衛門府の寮を出た。そこから南に下れば東宮殿の裏門まではすぐだ。

 東宮殿の中へ入り、皇太子殿下の寝室へ。内官たちの手で身支度を整えている殿下に挨拶をしてから、不寝番だった衛士と交代する。殿下は居間で朝食を摂ると、執務室に移動する。中ではすでに真雪が待ち構えている。

 執務室に入ってから戸を閉めると、朔夜は殿下のそばまで進み出て額づいた。すぐに執務室は人の出入りが途切れなくなる。できれば真雪もいないほうが良かったが仕方ない。いずれにせよ、おそらく真雪には隠し通せない。

 常と異なる朔夜の行動に、文机に向かい墨を擦り始めていた殿下が怪訝そうな目を向けた。

「なんだ」

「琴子さまを妃殿下の候補からお外しください」

「それを決めるのは皇后陛下と皇太后陛下だ。わたしの管轄ではない」

「ですが、琴子さまは殿下のお妃になる資格を失くしました」

「どういうことだ」

 殿下の顔と声が険しくなった。

「昨夜、わたしが奪いました」

「はあ?」

 殿下はしばし口を開けたまま動きを止めた。真雪が横で嘆息するのが聞こえた。

「そなたは己が何を言っているか、わかっているのだろうな」

「わかっております。お咎めはすべてわたしが受けます」

 殿下が睨めつけてくるのを、朔夜は真っ直ぐ受けた。

 しかし、2人の間の剣呑な空気は外からの声に破られた。

「殿下、姫君方がお越しです」

「わかった」

 殿下は朔夜を追い払うように手を振った。

「話はまたあとだ。持ち場に着け」

「はい」

 朔夜は一礼すると、大人しく退がって戸の傍に立ち、それを開けた。そこを通って苑子、楓が入室し、さらに琴子が続くのを見て朔夜は瞠目した。そのまま琴子が殿下に対して完璧な礼をとるのを、凍るような思いで見つめた。その向こうから殿下と真雪が憐れむような表情でこちらを見ていた。

 姫君たちが出て行き戸が閉められると、殿下が手招きした。朔夜は再びそのそばに跪いた。先ほどまでの滾るような心が萎み、これから叱られる子供にでもなった気分だった。

「琴子は昨日までと変わらぬようだったが」

 殿下は娘たちの前で纏っていた朗らかな雰囲気を脱ぎさって、朔夜に言葉を投げてきた。

「そなた夢でも見たのではないか」

「そんなはずはありません」

 きっぱりと否定した朔夜に対し、殿下は先刻とまったく同じ問いを口にした。

「そなたは己が何を言っているか、わかっているのだろうな」

 朔夜は今度は答えられなかった。

「咎は己がすべて受ける、というのはもう通用せぬぞ」

 朔夜はすでに殿下に己の罪を告白してしまった。今となっては、それは同時に琴子の罪にもなった。それどころか琴子の罪のほうが重くなるかもしれない。

 朔夜の背中を気持ち悪い汗が流れた。もう殿下の目を見返すことも出来なかった。

「わたしは忙しい。夢でないと言うなら己で何とかするのだな。ただし、そなたも役目は怠るなよ」

 殿下は朔夜を突き放すように言うと、戻れと合図した。


 忙しいと言いながら、殿下は時間を見計らっては一息吐くかと外に出て、わざわざ姫君たちと顔を合わせる道を選んで歩いた。彼女たちの礼を受ける間は琴子を観察するように見つめ、分かれた後は朔夜の顔にジットリとした視線を送ってきた。そんなことを3度も繰り返され、そのうえ琴子からは毎回一瞥も与えられず、さすがに朔夜も気が立った。

 午後になって殿下の側を辞し、仮眠を取るために寮の自室に戻った。が、寝台に入ったところで眠れるはずもなかった。心の内で主の悪趣味を呪い、ついでに琴子の部屋から戻って呑気にぐっすり眠った半日前の己のことも詰った。

(夢でも妄想でもない。あれは現実だ)

 今もありありと思い出せる燭台の光の中で見た白い肌の柔らかな感触、苦痛に歪んだ顔とその瞳から零れ落ちた涙。

(あと数日で妃殿下になれたのに無理やり奪われたのだ。琴子さまはすべてなかったことにしたいか)

 一度上がった体温とともに心もスッと冷えた。


 結局一睡もできずに東宮殿に戻り、不寝番に着いた。皇太子殿下は朔夜の顔を一瞥しただけで、何も言わずに寝室に消えた。定位置である戸の外に座わってしばらくすると、殿下が眠りについたのが気配でわかった。

 なぜ琴子に心を奪われてしまったのか、朔夜にはよくわからない。ただ殿下の肩越しに初めて琴子を見て以来、その姿を見つめてしまわないよう心掛け、そのために彼女の存在を全身で強く意識することになった。それでも、琴子に対して何かを求めるつもりも何かをするつもりもなかった。

 朔夜の気持ちを揺らしたのは殿下の一言だった。3人の妃殿下候補を東宮殿に迎えた翌日のこと。執務室の文机で殿下と真雪はそれぞれに筆を走らせ、朔夜は戸の傍に控えていた。その言葉は唐突に発せられた。

「好いた女が他の男のものになるのを黙って指を咥えて見ているのか。それで平気なのか」

 殿下の視線が上がることはなく、筆も動き続けていた。しかし隣にいる真雪の目がわずかな間ではあるが殿下に向けられたので、朔夜の空耳でないことは間違いなかった。独り言のようにも聞こえたが、それは確かに朔夜の耳に届いたのだった。

 とはいえ、すぐには動こうと思わなかった。数日は言葉の意味を考え、隠していたはずの琴子への想いを殿下に気づかれていたことに驚いた。殿下が気づいているなら、多分真雪も気づいているのだろう。気づかれていることにまったく気づいていなかった事実にがっかりした。だが、悩むべきはそこではなかった。

(殿下はわたしが妃候補に懸想していると知ったからといって、けしかけるようなお方だろうか。むしろ、揶揄われたのかもしれない。あのころは機嫌が悪そうだった)

(だいたい殿下が許したところで、ほかが許さないだろう。妃候補であることを差し引いても、琴子さまは左大臣さまの娘なのだ。士族の三男でしかないわたしが左大臣さまに認められるわけがない)

 しばらくのあいだ、朔夜の心は殿下の言葉を流すほうへ傾いていた。だが、ふと気になった。

(あんなことを口にしたということは、殿下にとって琴子さまの存在はそう重くないということか。わたしを含め多くの者が琴子さまが妃に相応しいと考えているのに、殿下は違うのか)

 妃候補に対する場で殿下を窺えば、誰のことも特に心に掛けているようには見えなかった。つまり、誰でもいいのだ。琴子でなくても。

(わたしには琴子さましかいないのに)

 延々と考え続けて、ようやく殿下からの問いかけに答えを出した。

(わたしは琴子さまが殿下のものになる横で平気で不寝番などできない)

 そうして決心したときには、すでに20日以上が過ぎていた。


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