3 琴子の罪
翌日は事前に定められた休講日だった。神殿から戻ると、琴子はひとり書庫に向かった。ほかに人がいないことを確認すると、奥の書棚の間に座り込んだ。行儀の悪いことをしている自覚はあるが、玉の目がある部屋よりもこちらの方が肩の力を抜けた。このあとには公務のために出かける皇太子殿下をお見送りする予定があった。
(私を告発する方はまだいないのかしら)
朔夜を琴子の寝室に送り込んだ者が誰なのかは分からない。だが、琴子がお妃候補を辞退するどころか何食わぬ顔で殿下の前に立ち続けていることを知れば、何らかの行動を起こしてくるはずだ。当人は表に出て来るわけもないので、琴子がすでに処女ではないという噂なり怪文書なりが撒かれるだろうか。
ふいに戸の開く音がして、足音が書庫の中に入ってきた。琴子はさっと立ち上がり、手近な本を手に取って読むふりを装うとそちらを伺った。足音の主に本を探している様子はなく、迷わず琴子のいる方へと向かってきた。そうして書棚の陰からあらわれたのは朔夜だった。
朔夜は琴子の姿を認めると真っ直ぐに近づいてきて、手を伸ばせば届くほどの距離でとまり、睨むように見下ろした。皇太子殿下の後ろではいつも無表情を貫く朔夜の顔に、今は怒りが浮かんで見えた。
「あなたは何を考えているのですか」
それを訊きたいのはこちらの方だと思いながら、琴子もグッと朔夜を見返した。
「このままここに留まって、もし妃殿下になる資格を失っていることが知られれば、あなたが罪を問われるのですよ」
「もちろん、わかっています」
「ではなぜ」
「あなたがあのような事をしたのはあなたなりの信念があったからでしょう。私も同じです」
「そのためには死んでも良いと?」
「はい」
琴子がきっぱり言い切ると、朔夜の顔が歪んだ。まるで泣くのを我慢しているように。
「いっそ殺せば良かったのか?」
呟いた声が苦しそうで、琴子は咄嗟に肯んじた。
「そうかもしれませんね」
朔夜の右手が伸びて、琴子の首に触れた。琴子はギュッと目を閉じた。しかし右手にそれ以上の力は加わらず、滑るように琴子の後頭部に回ると、次の瞬間唇が重ねられた。
突然のことに動けずにいるうちに、今度は朔夜の左腕が琴子の背中を捉えた。琴子は胸の前で両手に握りしめていた本を朔夜の方へ押し出して彼から離れようとしたが、逆に朔夜に抱きすくめられた。
(こんなところを誰かに見られたら、2人とも命はない)
別に構わないという想いが琴子の中で大きくなるが、すぐに駄目だと思い直した。再び腕に力を入れると、朔夜はあっさり琴子を解放した。そのまま踵を返し、書庫を出て行った。
琴子はその場にへたりこんだ。呼吸も乱れているが、頭の中はさらに混乱していた。
主を見送るため東宮殿の前に集った面々に対し皇太子殿下は、
「行って参る」
と言うと、颯爽と馬車に乗りこんだ。真雪もそれに続く。琴子は朔夜が馬車の傍に騎馬で従うのをこっそり見送った。
琴子は苑子、楓と一緒に昼食を摂ってから、苑子の部屋に3人で移った。
「琴子さま、気分が優れないのではありませんか?」
苑子にそう尋ねられ、見れば楓も心配の表情を覗かせていた。ふたりが常とは違う様子に気づいたことが恥ずかしくも嬉しくもあり、さりとて事実を打ち明けるわけにはいかず琴子は心苦しかった。
「少し疲れが出たみたいですが、大丈夫ですわ」
微笑みを顔に貼りつけて答えると、納得した振りをして引いてくれたのも有難かった。
そのまま苑子の部屋でお茶の時間をすごし、茶器が片付けられてからしばらく、にわかに外が騒がしくなった。
「殿下がお帰りになったのかしら」
「少し早いですわね」
顔を見合わせていると、戸の向こうから声がかけられた。
「姫さま方、失礼いたします」
「どうぞ」
部屋の主である苑子が応じると、入って来たのは東宮殿の女官長である青山だった。普段は悠然と構えている彼女が落ち着かない様子に見えた。
「殿下がご公務からの帰路に襲われたとの報告が参りました」
部屋の温度が急速に下がった。苑子と楓の顔色が変わり、琴子も思わず両手を握りしめていた。
「それで、殿下はご無事なのですか?」
「はい、殿下におかれましてはお怪我もなく、衛士によって下手人は全て捕縛されたとのことでございます」
ふたりがホウと息を吐いたのがわかった。だが琴子はまだ動悸が治まらなかった。
青山に先導されて、3人は東宮殿の前に出た。そこには朝見送りをしたより多くの者が集まったようだった。
やがて人々の耳に馬の蹄鉄と車輪のたてる音が届き、ようやく門の前に馬車が戻って来た。その中から現れた皇太子殿下は出かけたときと変わらず飄々とした様子で門を潜った。
「無事戻った。皆、心配をかけたな」
待ち構えていた人々がワッと殿下を取り囲み、一斉に口を開いた。
「殿下、よくぞご無事で」
「本当に良うございました」
「お疲れでしょう、お早く中へ」
琴子もその輪に加わったものの、瞳は馬車のうしろで馬の背から降りる護衛衛士の姿を捉えていた。彼が常に着ている黒衣のあちこちがどす黒く変色しているのに気づいて体が震えた。殿下を囲む人々が東宮殿へと動き出す中、真雪と何か言葉を交わしてから皆とは逆のほうへと歩いて行く朔夜を、堪えきれずに追いかけた。
「朔夜さま」
振り返った朔夜の目は訝しむ風だった。
「怪我をなさったのですか?」
琴子の視線を追って朔夜は着物を見下ろし、それが琴子の目から見えぬように体の向きを変えた。
「これはわたしのものではありませんので」
「そう、ですか。良かった」
朔夜は琴子の顔をチラと見ると、門を出て行った。琴子は彼女を探していた玉に声をかけられるまで、その場に佇んでいた。
「姫さま、顔色がお悪いですよ。どうか今日はもうお休みください」
部屋に戻ったとたん玉に言われて、琴子も頷いた。
「ええ、そうするわ」
「あんなことがあったのですから無理もありません。お食事もこちらで頂けるようお願いしておきます」
「夕食はいらないわ。このまま寝たいから」
「わかりました。ではそのように」
寝巻に着替えて寝台に入ると、ずっと抑えていたものがドッと目から溢れ出した。
(私は選ぶ道を間違えたのかしら)
琴子が取るべきは皇太子殿下を欺いて東宮殿に残るのでなく、実家に帰るのでもなかった。
(すぐに殿下に私の罪を告白すれば良かった)
そもそも琴子は皇太子殿下に対してずっと罪を犯してきた。初めて殿下にお目見えしたその日から、琴子は殿下の後ろにいた護衛衛士に惹かれていたのだから。
朔夜を見つめてはいけないと思いながら、その姿を盗み見ることを止められなかった。想いは誰にも気づかれぬよう心の奥底に閉じ込めてきたが、捨てることは出来なかった。だから殿下も、周りも欺いたままお妃になって、ずっと彼を近くで見ているつもりだった。
それなのに、あの夜の朔夜の一言が琴子の心を呆気なく崩してしまったのだ。
口づけられた悦びも、無事を確認するまでの胸が潰れそうな不安も、朔夜にすべてを伝えたかった。