2 視線の記憶
朝目を覚ますと、いつになく体が怠かった。枕元の小卓に置かれた時計を見ようとして、すぐ脇の燭台が目に入った。ぼんやりする頭でそれが消えていることを無意識のうちに確認して、琴子は唐突に昨夜我が身に起こったことを思い出した。
起き上がって自身を見下ろせば、寝巻を纏ってはいるものの、いつもはきっちり合わせる衿元もしっかり結ぶ帯紐も緩くて肌蹴てしまいそうだった。両衿を掴んで掻き合わせ、琴子はこれからのことを考えた。
琴子が取るべき正しい道は、今すぐ東宮殿を退がること。理由は急な病とでもすればいい。だが、実家に帰れば父には本当の理由を話さねばならない。激怒する父の顔が目に浮かんで、それを追い払うように大きく息を吐き出した。
(私の心はもう決まっている。迷うことなんてない)
決意を固めると、琴子は寝台を降りた。下腹部に鈍い痛みを感じたが、気のせいにした。箪笥の上から手鏡を取って覗き込めば、見つめ返して来た顔は昨日とあまり変わらぬようで、少しホッとした。
「姫さま、お目覚めでございますか?」
戸の外から侍女の玉が声をかけた。
「ええ、起きているわ」
「失礼いたします」
寝室に入って来た玉に、普段と変わった様子はなかった。
(気づいていないのなら、知らせることはないわ)
琴子は玉の手を借りて、身支度を始めた。
苑子と楓とともに、朝の挨拶のため東宮殿の執務室に向かった。いつも通りと己に言い聞かせ、背筋を伸ばして歩いた。さすがに皇太子殿下を前にすると罪の重さで俯きそうになるが、なんとか堪えた。部屋を出入りするとき、戸のすぐ傍に立つ殿下の護衛の姿を絶対に見ないよう意識した。
あまり食欲はなかったが、朝食はすべて口に運んだ。そのあとの日課もひとつずつこなしていった。講義には集中できず、苑子や楓とのお喋りも楽しめず、時間が経つのがゆっくりに感じられた。移動中に何度か殿下とすれ違う機会があり、そのたびに緊張しながらも丁寧に礼をとった。
ようやく一日を終え早めに寝台に入った。しかし目を閉じても眠りが訪れる気配はなく、瞼の裏に昨晩琴子を真っ直ぐに見下ろしていた瞳が浮かぶばかり。あきらめて暗闇の中で目を開いた。
(なぜ朔夜さまはあのようなことを……)
単純に考えれば、苑子か楓を皇太子妃にしたいからだろう。しかし、朔夜は宮中の勢力争いなどとは無縁な人間ではないのか。彼が仕える主は皇太子殿下だけだと琴子は昨日まで当然のように考えてきた。
では、あれを朔夜に命じたのは誰なのだ。真っ先に思い浮かぶのは、琴子の父の最大の政敵である苑子の父だ。だが、可能性のある人物などいくらでもいるだろう。ただ、御学問所で机を並べた仲間たちを疑う気持ちは起こらなかった。
友人たちのことを思ううちに、皇女さまのご学友だったころの光景が蘇ってきた。片手の指で足るほどの回数しかないであろう、朔夜の目に琴子が映ったおりの記憶だ。
ご学友になってまだ日の浅いころ。庭園を散策中に木の枝に栗鼠がいるのに気づき、もっとよく見える場所を探して、上ばかり見ながらフラフラしていた。
「琴子さま」
突然名前を呼ばれて足をとめ、声のした方を見れば朔夜だった。
「それ以上後ろに行ったら、落ちます」
振り返るとすぐそこに池が迫っていて、慌てて飛び退いた。
「ありがとうございます」
「いえ、お気をつけください」
答えたときには朔夜もうこちらを見てはいなかった。このやりとりで、琴子は初めて朔夜の声を聴いたのだ。
1年半が過ぎたある日。やはり庭園を皆で散歩中で、琴子は文と並んで歩いていた。ふと見上げた空に真っ白な雲が浮かんでいた。
「あの雲、先日頂いた砂糖菓子みたいではないですか」
指さしながら隣を見ればそこに文はおらず、やや離れた位置で朔夜がこちらを見ていた。文の姿を探すと、いつの間にか殿下と少し前を歩いていた。
「今のは、文さまに見てもらおうと思って」
恥ずかしさのあまり、琴子は足を速めて朔夜から離れた。
(何だか、変なところばかり見られているわ。もしかして、こんな女は殿下に相応しくないと思われたのかしら)
いつでも皇太子殿下の側にいた専属護衛衛士。己の役目に忠実でゆえに殿下の信頼は厚い。
(それなのに、殿下を裏切るようなことをするなんて……)
疑問の答えは得られるはずもなく、何度も寝返りと溜息を繰り返すばかりだった。