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9 夫の笑み

 東宮殿の廊まで戻ったところで朔夜の手が慌てて離れていったので、琴子は残念に思った。だが、そこに皇太子殿下が真雪と並んで立っていたのだから仕方ない。朔夜とともに礼をとった。殿下はニヤニヤと笑っていて、綺麗な顔が台無しだ。

「思っていたより早かったが、まとまったようだな」

「殿下、こちらをどうもありがとうございました」

 琴子がもとどおり鍵を挟んだ本を差し出すと、殿下は受け取って鍵だけを抜いて真雪に渡し、本は琴子の手に戻した。

「それは祝儀だ。では行くか」

 殿下は執務室の前を通り過ぎ、東宮殿を出てさらに門を潜った。どこへ向かっているのだろうかと琴子は朔夜を見るが、朔夜も首を傾げた。

 南に進むと前方に巨木の茂みが見えてくる。その中に琴子が今朝も参った日の女神の神殿がある。

「琴子が東宮殿に残ったのは賢明だったな。実家に帰っていたら、さすがのわたしも手を出せたかわからぬ」

 歩きながら話し出した殿下の声は鷹揚だった。

「皇太子には東宮殿にいる者を庇護する義務がある。東宮殿における父として、我が子らの望みを叶えてやることもできる」

 神殿の前に着くと、そこに立っていた巫女が一礼して迎えた。

「お待ちしておりました」

 それは楓だった。白と赤の巫女装束姿の楓を琴子は初めて見るが、とてもよく似合っている。楓は琴子を見てにっこり笑って頷いた。

「準備は整ってございます。中へどうぞ」

 そう言うと、楓は先に中へ入った。

「殿下、いったい何を」

 朔夜が戸惑ったように尋ねると、振り返った殿下の答えは明快だった。

「祝言に決まっておろう」

「祝言?」

 朔夜が驚きの声を上げると、殿下は目を眇めた。

「嫌なのか?」

「嫌ではありませんが」

「そなた、まさか左大臣の許しを得てからなどと考えておるのではあるまいな。言っておくが、そなたには無理だ。どうせ互いに夫婦のつもりでいるなら、さっさと周知のものにして、左大臣から認められるのを気長に待て」

 キッパリと言う殿下に対し、琴子は不安を口にした。

「父のことは殿下の仰る通りだと思いますが、他にも問題はあるのではないでしょうか」

「皇后陛下と皇太后陛下には琴子を妃候補から外して朔夜に娶せることについて許しを得ている。(おおきみ)陛下もわたしの思うようにせよと仰っている。あとは、これだ」

 殿下が懐から出した書類をふたりの前に広げた。戸籍課に提出する婚姻の届だ。保護者として、皇太子殿下と並んで署名されている少し震えた筆跡は「松浦直哉」。兄です、と朔夜が琴子に教えてくれた。

「満足したか?」

 殿下はもう聞かぬというように背を向けると、歩き出した。


 神殿の中には20人ほどが集まっていた。内官、女官、侍女、衛士など皆見覚えがあるのは東宮殿付きの者ばかりだからだ。

「急なことだったのに意外と来たな」

「殿下の肝いりで仕事を休めるわけですからね」

「ただ後回しになるだけだろう」

 殿下と真雪が話すのを聞きながら、このために最も仕事を滞らせているのは殿下なのでは、と琴子は気づいた。

「琴子さま」

 普段の貴族の娘としての振舞いを忘れた様子で、苑子が琴子に駆け寄ってきた。勢いのまま抱きつかれて、琴子よりも隣にいる朔夜のほうがギョッとした様子だった。

「おめでとうございます、でよろしいのですよね」

 苑子が確認するように間近から見つめてきた。

「はい。ありがとうございます」

「もっと早くに教えていただきたかった、というのは私の我儘ですわね」

 淋しそうに言ってから、苑子は顔だけ朔夜に向けた。

「朔夜どの、琴子さまをよろしくお願いします」

「はい」

 苑子はまだ言いたいことがありそうだったが、祝言の開始が告げられたので、渋々離れていった。


 神主と巫女によって祝言は粛々と進められた。

 式の間、琴子は隣に朔夜がいることを確認したくてその顔を何度も見上げた。皇太子殿下をはじめとする参列者や日の女神の前ではしたないとは思う。だが、視線を送るたびに気づいて見つめ返してくれる朔夜の口元に笑みが浮かぶのでやめられなかった。

 祝言が終わると、改めて殿下に差し出された婚姻の届に朔夜と琴子はそれぞれ署名した。さらに神主が神殿からの祝福の証となる印を記した。

「これは責任を持って真雪が出しておくゆえ、安心しろ」

「はい、お預かりしますよ」

 殿下の言葉は予想の内だというように、真雪が受け取った。

「よろしくお願いします」

 朔夜に遠慮するつもりはないようなので、琴子も頭を下げた。真雪はひとつ頷くと、正殿のほうへと歩いていった。

 参列していた者たちは東宮殿へと戻り始めていた。殿下も動き出したので朔夜と琴子もそれに続こうとした。そこへ、真雪が去ったのと同じほうから乱れた足音が聞こえた。

「琴子」

 全身から怒気を発して琴子の父がふたりの前に現れたが、呼吸も乱れていた。

「おまえは、わたしの、顔に、泥を塗って」

 琴子を、それから朔夜を血走った眼が睨みつけた。

「貴様、衛士の分際で、よくも、わたしの娘に、手を出せたな」

「お父さま、おやめください。朔夜さまは……」

 父が握りしめた拳で朔夜の頬を殴りつけた。朔夜は黙ってそれを受けた。さらに父は琴子の方へ向き直ると、再び手を振り上げた。今度は朔夜も黙っておらず、琴子を庇うように前に出た。

「たとえ左大臣さまであろうとも、わたしの妻に手をあげることは許せません。どうしてもと仰るならもう一度わたしを殴ってください」

「偉そうな口を。貴様が婿などと、絶対に認めんぞ」

 父はわずかに躊躇う素振りを見せたが、結局は平手で打った。

「おお左大臣、そなたが来るのが遅かったからわたしが代わりを務めてしまったぞ」

 不自然に明るい調子で殿下が割ってはいった。朔夜が2度も殴られる前に止めてほしかったと琴子は恨めしく思う。

「殿下、貴方というお方は」

 父は殿下に対しても怒りをぶつけようとするが、殿下は意に介さなかった。

「わたしの護衛はそなたが思うよりずっと良い男だ。何よりそなたの娘が選んだ相手。少しは……」

「絶対に認められません。琴子、おまえのことももう娘とは思わん。勘当だ」

 父は踵を返すと、もと来たほうへと大股で帰っていった。

「ま、気長にな」

 殿下も東宮殿へと歩き出した。琴子は朔夜の赤くなった頬に触れた。

「朔夜さま、大丈夫ですか? 早く冷やさないと」

「大丈夫です。多分、左大臣さまの手のほうが痛かったと思いますし。それよりも」

 朔夜は琴子の手に自分の手を重ねると、心配そうに琴子の顔を覗きこんだ。

「良かったのですか?」

「あのようになった父に何を言っても聞く耳を持ちません。しばらくは距離を置いたほうがよいと思います」

「後悔したりとか」

「しません」

 即答したあとで、琴子は朔夜の顔を窺った。

「後悔したのは朔夜さまでは? 父が酷いことを言って申し訳ありません」

「貴女が謝ることではありませんし、もっと色々言われても構いません。貴女がここにいてくれるのですから」

 そう言いながら、朔夜の顔が嬉しそうに笑んだ。琴子はしばし、今日初めて目にしたその表情を堪能することにした。


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