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「ハブラ様、あれを。店主の様子がおかしいです。急に体調を崩したような……」
若い兵士が浮足立って身を乗り出そうとするのを、ハブラは肩を掴んで押し止めた。すでに、どうにも手間のかかる若造に内心嫌気が差してきているのである。
「見えなかったか?」
「何がです?」
「針だ。左にいる娘が投げた針が見えなかったのか? まあ、即効性の毒が塗られていたんだろうな」
「そんなもの全く見えませんでしたよ? 本当ですか?」
「ほう、嘘を言ってどうなる? おれを疑う前にもっと目を鍛えることだ、未熟者め」
(あの娘の俊敏で、繊細で、精確な指先の技と、常人には感じ取れぬほど精緻な術力の操作、この役立たずの若造とは比べ物にならん実力だ。素晴らしい。獣人たちはあの頃とまるで変わっていない。むしろ人間を殺すために、あの若さであれだけの技術を身に付けたのだ)
ハブラ、この老練なる武闘家は、興奮のあまり凄まじい速度で思考を巡らせていた。
彼の経験上、いくら身体能力の優れた獣人とはいえ、あのくらいの少女なら精神が未熟であり、他人との命のやり取りを自分で選択できないことがままある。そういった者は駆除するにおいても、抵抗を見せたところでささやかなものばかりであった。しかし、いま目の前にいる彼女たちは違う。彼はそう感じた自身の直感が正しいと確信していた。
(冬に屋敷に忍び込んだ銀髪はいないのか? 獣人たちが団結したとなれば、あやつほどの実力のある同胞を野放しにはしないはずだ)
「しかし、それなら毒などくらって大丈夫なのですか? 医者を呼んだ方がいいのでは?」
「うん? ああ、心配はいらん。死ぬほどの毒ならもっともがき苦しむか、それか刺されて直ぐに死んでいるだろう。ほれみろ、立って歩いておる」
ハブラにとって、脇の兵士のことなどすでに思考から切り捨てられていたが。かろうじて思考を持ち直してそう返された。実のところ店番をしていた店主の安否などもどうでもよかったが、そうは言っていられないのだ。彼には、領民が危害を加えられたなら、領民を保護するために行動をしなければならない義務があるのだ。
ただ、脳裏には昨冬刃を交えた銀髪の少女の姿が思い出されて、ハブラの心はなおも踊っていた。人間の姿をしていたが、彼女もまた獣人だという確信があった。
(それにスズリカだ。スズリカはまだ生きている。タナトス相手に命をかける覚悟はあるが、あやつとはもう一度会わねば、やはりこのわしも死にきれん)
ハブラという男は、なんだかんだ獣人が好きである。主人を殺され、右足を奪われようと、その強さに武闘家として魅せられ、彼らを尊敬していた。耳やしっぽも気にならないし、むしろ人より小柄な自分には人間よりも小柄な獣人の方が色恋にも向いていると考えていた。おかげで彼も若い頃は女遊びをしたりもしたが、結局生涯独身を貫くことになりそうである。
だが、そんなこともどうでもよくなるほどの、恋愛以上の興奮がいま、彼に押し寄せているのだ。彼は自身に幸運が降り掛かっていると感じていた。
「それもそうですが……」
「心配はするなと言っているだろう? おれがあとで様子を見といてやる。それよりもあの娘たちだ」
「かなり腕が立つようですが、何者なんでしょう?」
どうやら見当もついていないらしいこの若い兵士に、ハブラはますます失望させられた。変化の術により、外見は同じ人間に見える以上仕方のない話ではあるが、この男は納得がいかないのである。
変化の術を扱える妖獣人を多く持つ獣人種を始め、亜人たちは個々の才能を磨いて外見を誤魔化してしまえば大概の人間を騙せてしまう。それを看破するために家畜の血を搾り、血花筒などという道具にまで頼って、魔女狩り紛いのことをいつまでも繰り返しているのがこの世界の人間という種族であり、そのような同族の有り様は、武闘家たちにとって屈辱的であった。
当然、ここに居る小男もそれを馬鹿馬鹿しく思い、故に俗人を白眼視している。血花筒の作られた目的は獣人と戦う際に生じる不利を取り除くためで、術を解くため、豚の血を浴びせるためなどという馬鹿げた用途は副産物に過ぎない。これを持っていれば人間に化けた亜人は自分を敵には回せないと、有り難そうに腰からぶら下げる者の姿は滑稽であり、道具に頼って他者より上の存在になったつもりでいる、この世界における真に愚かな弱者の姿だと確信していた。
「何者かなどは問題ではない。何ができるのかが問題だ。それを見極めねばならん」
少し時間は遡り、コーニャが毒針を刺して店主を黙らしてしまったアルアリス率いる獣人一行では――。
「コーニャちゃん、誰かが見てるよ」
自分たちに向けられている監視の目に気が付いた彼女たちの間に、わずかながら緊張感が漂った。
(ちょっと軽率だったかな?)
コーニャは内心で自らを諌めたが、なに、慌てるほどのことではない。いくら見られたところで、ここには視覚情報などいくらでも誤魔化せる、幻術のプロがいるのだ。
「ホロビさん、お願いできますか?」
「わかったわ」
ホロビは容態を伺うふりをして店主の女性の額に手を当てると、その直後には術を掛け終わっていた。
「……ちょうしが、わるいから、きょうは、みせじまい……」
しゃがみこんでいた店主がふらふらと立ち上がり、うわ言のようにそう呟いて店の奥へと消えていく。アルアリス、そして彼女たちの様子を窺っていたハブラと若い兵士の目にはそう映った。
しかし、実際は違うのだ。立ち上がった時点で店主の体は幻術の生み出した分身と入れ替わり、本物の店主は周囲の意識から切り離されながらその場に立ち尽くしたままなのだ。
ホロビは、幻術に於いては妖獣人種のキツネ亜人の中でも屈指の実力を持った人物である。だからこそこの一行に加わっていたのだ。
「こうなったら仕方がないわね。寄り道はここまでにして帰るとしましょうか」
こうして口の過ぎた店主は見事に拉致されることとなった。彼女がその先どうなってしまうかといえば、もちろん犯人たちのおやつだろうということと、この後、店主の様子を窺いに店に入ったハブラが、自分としたことが見事に化かされたと感心することになったのは言うまでもない。
だが、この男は感心するばかりが能ではない。時に知勇兼備と謳われるハブラ、彼のずる賢さが発揮されるときが来たのである。




