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師弟失格  作者: 守野伊音
弟子失格
7/17


 水晶越しに繋がる地上の先で、どこか面影のある知らない人間達が憎悪を燃やしながらその時を待つ。

『東南の村が、壊滅しました』

『天人が地上に降りてくる頻度が増えています』

 最近はそんな報告ばかりが届く。その理由は分かっていた。

 天人は、この戦に飽いている。圧倒的な力の差を持ち、半永久的な寿命を持った彼らは、このつまらない戦争を終える術を知っていた。

 以前、街中を歩く将校同士の会話を少年は聞いたことがある。

 巣を根絶やしにすれば早い、と。

『王の御帰還を、臣下一同、心よりお待ち申し上げております』

 神殿の泉と繋がった水晶の景色は消えた。




 家に帰ろうと歩いていると、目の前を子どもが走り抜けていく。その先にいるのは両手を広げた子どもの両親だ。子どもはその腕に飛び込み、屋台の菓子を強請る。父親らしき男は子どもを肩の上に抱え上げた。子どもは高くなった目線で頬を紅潮させ、誇らしげに笑った。

 彼らの頭上には何もない。青い空が広がっているだけだ。視線の続く限り、遮るもののない雄大なものは、ただ美しさだけを持ってそこにある。

 だが、人間は違う。頭上にはここが、天界がある。自らを害す脅威が頭上にあり続ける恐怖は、天界人には分からないだろう。いま、目の前で幸せそうに笑う彼等と同じ光景が地上にもある。けれど、地上ではそれがいつ奪われるかしれない恐怖の中で紡がれる幸福なのだ。

 何故だ。何故、人間ばかりが奪われる。

 人間だって、彼らと同じように幸福を得て何がいけない。誰かの気まぐれで訪れる死に、絶望に、抗って何が悪い。突然の死を与えるその存在を頭上に掲げる恐怖からの解放を願って、何がいけないのだ。

 強者なのだから弱者を守れと言いたいわけじゃない。ただ、虐げるなと、それだけの願いが何故聞き届けられない。人間は天に昇る術がないのだから、天人が降りてさえ来なければ関わりはなくなる。だが、彼等は降りてくる。降りてくれば、最早どうにもならないこじれの中で諍いが起こる。諍いが起これば、また他の天人が降りてくる。そうして憎悪が巡り廻る。

 天人の中で人間は心を持たない下等生物であり、人間の中で天人は心を持たない絶対的強者だった。

 もう、駄目なのだ。人間は天人を許せず、天人はそもそもそういう対象として人間を見ない。

 人間が天人を滅ぼすのが先か、天人が人間を駆除するのが先かの話だ。

 それは分かっている。分かっているけれど、少年には訳が分からなかった。

 誰からも脅かされない生活を人間に返してほしかった。親が子を失わず、子が親を失わず、脅えず迎える明日を人間に返してほしかった。夕暮れ時で帰路を急ぐ人々と、笑って出迎える人々。明日を約束して笑って別れる日々を、続けさせたかった。

 けれど。


「あら、ルタ? どうしたの? 遊んできたの?」


 片手に紙箱を持った師の女は、人ごみをすり抜けて少年の前にしゃがみ込んだ。

「ふふ、見て。ここのケーキ美味しいって教えてもらったの。今日の夕食後に食べましょう? あまりに美味しそうだから、三つも買っちゃった。全部半分こにして分けましょうか。気に入ったら、今度は一緒に買いに行きましょう」

 帰りましょうと当たり前のように差し出された手を握った少年には、分からなかった。あれだけ人間に続けさせたいと願っている日々。それを少年が実際に目の当たりにしたのは天界だった。天界でしかなかった。

 少年には訳が分からなかった。

 殺す為だけに出会った女と繋ぐ手が、恐ろしいほどに温かい意味が、本当に、分からなかったのだ。




 少年には訳が分からなかった。

 問われれば問われるだけの知識を与える師の女が。

 その知識と技術で殺されるのだというのに、嬉々として自らの睡眠を削ってまで答える師の女が。

 殺されると知らないのだから当たり前なのに、訳が分からないと混乱する自分が。

 自分の持ち物一つ買い替えることを躊躇するようになったのに、少年が働きに出ようとすると、せめて成体になれるようになるまでは駄目よと頭を撫でる師の女が。

 もうとっくに成体となってもおかしくはないはずなのに、いつまでも幼体に近い身体のままの自分が。

 職場の同僚だという男と歩いている師の女を見た次の日から、背が伸び始めた自分が。


 全く分からなかった。








 訳が分からないと揺れた瞳が、青年を見つけてふわりと緩む。最早留める術のない生命を真っ赤に流し続けながらも、彼女は弟子の問いを理解しようと努めた。そうして、罪の在り処を教えてくれた。あれは無意味な殺戮ではなく、憎悪はただ廻っただけだったのだと、青年は知った。

 自らが流す血で溺れながら、師が青年を呼ぶ。


「ルタ」

 はい、師匠。

「ルタ」

 はい、師匠。

「ルタ」

 はい、師匠。

「ルタ」

 はい、師匠。



「しあわせに、なって」





 いいえ、師匠。











 天界の神を殺した。これで、天界は堕ちる。

 天人も皆死んだ。天人に連れ去られた元人間達は、羽の持ち主との死を選び、皆死んだ。地上の時は、天人の生で生きるには早すぎると、皆泣いた。

「王?」

 泣き叫んで解放を喜ぶ人間達の間を縫って、貫かれた腹を押さえて歩き出す。不思議そうに呼び止める声を背中に、壁伝いに身体を支える。手を貸そうとしてくる数多の手を取らず、引きずって家に帰った。

 そこには、青年が殺した時のままの師の女が倒れている。予想していた罵倒どころか、恨み言一つ聞けなかった師の亡骸を寝室に運ぶ。

 口端の血を拭い、手を組もうとしたとき、胸元から小箱が覗いているのが見えた。

『可愛い私のルタへ』

 小さな紙で受取人に指名された青年は、いつまで子ども扱いするつもりですかと小さく呟いてその箱を開き。

 美しい、空を見た。




「王? どうされました?」

 追いかけてきた男は、死んだ天人の手を握り締めて祈るように額をつけている最後の王族に恐る恐る声をかけた。けれど、彼らの王は反応を返さない。

「……我らが王よ。皆が、貴方の言葉を待っております。どうか、我らに解放の宣言を。そして、どうかこの先も、我らをお導きください。世界で唯一、神の御許を知り、誰よりも神に愛された尊き王よ」

 生まれた瞬間から、百年前に人間界を去った王に仕えると決まっていた男達は、伝説を前に膝をついた。目の前の王は、最早神話だ。神話の王が人間界へと帰還する。人類の悲願がいま果たされようとしているのだ。


「…………もう、許してくれ」


 彼らの悲願は、震える声で、そう言った。

「人間としての務めを果たした。王としての責務を果たした。だから、もう、俺を解放してくれ」

 王が、泣いていた。

 仇の手を握りしめ、泣いていたのだ。

「俺は、愛したかった。貴女を愛したかったんだ、師匠……貴女が与えてくださったこの心のままに、貴女を、愛したかったっ……!」

 王の慟哭を聞いて初めて、男達は人間の犯した過ちに気付いた。




『我々は、間違ったのだ』


 一際長く生きた曽祖父の言葉が耳に蘇る。

『我々は神の言葉のままに、人間を天界から解放させる。だが、その代わりに、王の心を奪ったのだ。あの御方は何も御知りではない。交わす言葉や体温の温度を、何一つ知らぬまま命を断たれた。我々は、あの御方を生贄に、救われようとしている。あの御方は、ご自身が犠牲になっていることすら知らぬまま、気づかれぬまま、逝ってしまわれた。我々は、神の御心に反してでも身代わりとなるべきだったのだ。仮令許されずとも、天罰が下ったのだとしても、そうすべきだったのだ!』

 若者達は老臣の言葉をようやく理解できたが、もう遅い。

 全てはもう、終わってしまったのだ。


 そうして人間は天界の恐怖から解放された。

 地上で、制した天界で、歓喜の声が世界を揺らす。


 後悔も、嘆きも、絶望も、それらに押し潰された少数の心など、解放に狂喜する大多数にとっては与り知らぬことだった。

 そしてまた、存在して初めて制限なく心を揺らすことを許された王が、その時には既に全てを喪失していたという事実すらも、大多数の人間にとって、救われたという事実を前にすれば、どうでもよいことだったのだ。






 そこからのことを、王はあまり覚えていない。

 ただ、数多の人間が王の前を通り過ぎていった。王の後ろで立ち止まっていった。王は決して物覚えが悪いわけではなかったけれど、覚えた傍から変わっていく顔に、交わした会話の傍から死んでいく相手に、いつしかほとんど喋らなくなった。

 元より揺らす先を失った心は、それでも何ら不自由を感じなかったのだ。



 王は、今日も一人で空を見上げる。

 時が進むのは、彼女がくれた時計が時を刻むからだ。


 自らが堕とした天界が何より温かかったのは、彼女がいたからだと、今の王は理解していた。あの頃の自分は、訳が分からないものばかりだった。分かってはいけないものばかりだった。

 王として、人間として、親の仇を前にした子どもとして、許されない感情ばかりを生み出した心は、全てが終わった後に動き始めた。

 時計が時を刻むたびに、心は血を流し、動き続ける。いっそ止まってしまえと願っても、時計は止まらず、王の心も止まることはなかった。行く先もないまま、時も心も進み続ける。千年の間、許されぬまま、延々と罪を刻み続けた。




『ここは楽園ですか?』

 繋がれた手を見ることができず、視界に入れないよう見上げながら問うと、その美しい人は困ったように笑った。



『あなたがいるなら、私にはどこでも楽園ですよ』 



 師は、王にそう言った。そう教えてくれた。

 師のいない今、楽園はどこにもないのだと、教えてくれたのだ。




 最早動く必要も意味もなくなった心は、それでも王が生きている以上ここに在り続ける。なんて無意味なのだろうと、王は思った。

『しあわせに、なって』

「……いいえ、師匠」

 最期まで自分を殺した弟子の幸せを願った愚かな師匠。その末期の願いすら裏切る自分は、とことんまで弟子失格だと、王は自嘲した。

 もう、楽園はどこにもない。自らの手で壊したのだ。

 そしてまた、心を与えてくれた唯一の人も。

 幸せになれる道理がない。幸せになる意味がない。幸せになっていい理由すらない。

 王にとって残された未来とは、朽ち果てるその瞬間まで全ての罪を背負い続けることだ。そうして、いつか終わるその日がきたら、きっと天国にいるであろう師に、地獄から詫びることだけだ。

 それだけの為に、いつか終わるその瞬間を、この身が朽ちる瞬間を、千年間待ち続けている。もう、王に残されたものはそれしかないのだ。



「王様――!」



 静寂を切り裂く大声に、一瞬耳を疑った。

 そうして、訳が分からないまま無意識に、酷く緩慢な動作で身体が声の主を探す。



「いい天気ですね――!」



 かちりと一際大きな音を立てた秒針が、朝焼け色の空の中で時を刻み始めたことを、ルタはまだ知らない。



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