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「ここは楽園ですか?」
繋がれた手を見ることができず、視界に入れないよう見上げながら問うと、その美しい人は困ったように笑った。
長い長い少年の記憶は、ぶつ切りで構成されていた。
けれど、最初の記憶だけは酷く鮮明で、いつまで経っても消えてはくれない。
「王子を、王子を逃がせ! せめて王子だけでも守れ! 奴の狙いは我々だ!」
父の怒声が響く。
「貴方達も逃げなさい! そしてどうか、王子を! 逃げなさい! 早く、皆を逃がしなさい! 早く、皆逃げなさい!」
母の悲鳴が響く。
何かが倒れて砕け散る音と、怒鳴り声が響く中、つい先日歩き始めたばかりの子どもはそれを見ていた。誰かに抱きかかえられた子どもは、その男の肩越しに、とても美しい人を見た。
膝裏を越える長い髪。線の細さから女だと言うことが分かる。身体半分を覆うマントを左肩から垂らしながら、右手でぼたぼたと赤を滴らせる剣を揺らしていた。
「子を逃がすか。子への愛を知るか」
美しい女は、長い髪を返り血で真っ赤に染めながら、どろりとした闇を瞳から零す。
「ならば何故」
最後の言葉は聞こえなかった。
ただ、女の腕が動いた時、両親の首は胴を離れ、その足元にごろりと転がったのが見えた。
その光景は、その後ずっと少年の脳裏に焼きついた。
神の力により生まれ変わる百年の眠りの中で、幾度も幾度も、少年の両親は死んでいった。女は、幾度も幾度も少年の両親を殺した。幾度繰り返しても、必ず少年の両親を殺す。
そして、その言葉を紡ぐのだ。
女が紡いだ言葉は少年には聞こえていなかった。聞こえるはずもなかったし、幼すぎる少年が理解できようはずもない。なのに、いつからか少年の記憶にその言葉は刻まれた。
『何故、私の両親を帰してはくれなかったの――……』
返り血で全身を濡らした恐ろしいまでに美しい女が瞳から零した闇。それが涙だったのだと気づいたのは、それからだいぶ後の事だった。
物心ついた頃から、少年の周囲には憎悪しか存在していなかった。
喪失からの憎悪、憎悪が紡ぐ怒りによる活力。生きる意味が憎悪であれば、死ぬ理由も憎悪だった。
真白い衣装を着た少年の周りには、ぎらぎらした目をした大人達がぐるりと囲んでいる。最早天人に対抗する手段は、神が指名した自分が天人として生まれ変わり、天界の門内と地上への道を繋ぐのみだと、少年は理解していた。
天人は日々人間を殺す。それらが何らかの感情から成り立っていれば、まだ理解できた。だが、彼等は人間を心ある生物として見なかった。まるで虫けらを見るかのように見下ろし、嘲笑することすらしない。楽しむわけでも嫌悪するわけでもなく、嘲りすらせずに殺されていく日々の何もかもを、人間は許せなかった。理不尽な死を齎す者が自分達の頭上に存在するのだと思うだけで気が狂いそうになる。しかし、脅えて隠れるには天は広すぎた。どこに逃げたって天はある。天は人間を見下ろし、見下した。
逃げられないのなら戦うしかない。
人間がそう決断するまでに、長い時間はかからなかった。
生まれ変わるまでに百年かかる。その時、今この場にいる人間は誰もいないというのに、彼等は別れを惜しもうともしない。ただ、未来への希望を少年に託し、憎悪にぎらぎらと滾った目で少年を見送った。
「どうか、人間に解放を!」
「どうか、人間に未来を!」
沢山の願いが少年の背を押す。沢山の願いに押され、振り向くことすら考えもつかないまま、少年は神の手によって人間としての生を終えた。
彼が人間として生きた時間は、たった六年だった。
百年の眠りは、少年にとって決して楽なものではなかった。ただでさえ短い生の中、その記憶に残っている中に、明るく楽しい物がどれほどあるというのか。
真っ黒な闇の中、繰り返し訪れる両親の死。その死を齎す赤い女。
人間として生を受けた時は明るい金色だった髪は、いつしか真っ黒な闇と同じ色に染まり、繰り返される死を見続けた瞳は緑から赤へと変わった。
天人により齎される闇と、人間から期待される憎悪による赤。
世界にはきっとこの二色しかないのだと、少年は百年の中で気づいた。その二色しかないから、世界はこんなにも冷たくて、こんなにも寂しくて、こんなにも悲しいのだ。
少年はそう思ったけれど、長い長い百年の間に、いつしかそんな感情も忘れてしまった。
そうして、真っ黒に染まった髪と、憎悪を見過ぎた瞳だけが残った。
いつの間にか少年は生まれていた。
天人として天界に佇んでいた少年の目には何も映らなかった。否、行き交う天人の姿も、街並みも、確かに視界には入っていた。だが、少年の眼には、いずれ殺し尽くす物としてしか映らない。これもいずれは真っ赤に染まり、闇へと堕ちる。そんなものに心動かされる必要などどこにあるのだ。
いつしか雨が降ってきた。天界でも雨が降るのかと不思議な思いでぼんやりと佇む少年の羽が濡れていく。親から教わるはずの何もかもを持たない少年は、誰もができるはずのことができない。誰もが知るはずのことを知らない少年のそれは、天人としての知識に留まらなかったが、この時の彼はまだそんなことすら知らなかった。
慌てて走り出す天人達に、彼らでも天界の天気は操れないのかと思った少年の視界を、夜明けが覆った。
「終わった!」
総じて髪の長い天人らしく、膝裏まである長い夜明け色の髪をした女が前を走りすぎる。
「洗濯物が終わった――!」
その女を、少年は知っていた。
声を出そうとして噎せる。声なんてもうどのくらい出していなかっただろう。人間だった時でさえ、一体どれだけの言葉を発したのか、少年は覚えていない。
「まっ、て……」
待って、行かないで。
朝焼け色の髪をした、俺が殺す、名前も知らない美しい天人。
「待って!」
「あいたぁ!」
必死に伸ばした手は女の髪を掴んでいた。
どうしたの、迷子かな、お父さんとお母さんは?
そう続いた言葉に、お前が殺したのだろうと叫びだしそうになった。その全ての言葉を弟子入り志願へと変え、必死に頼み込んだ。
髪を掴んだ相手を一閃の元に斬り捨てるかと思われた女は、意外にも押しに弱かった。そのまま師弟関係に納まった少年は、どんどん朝が早くなる師匠に老人かと舌打ちしながら弟子としての礼儀を守ろうと努力した。その結果、どうしても起きられなくて盛大に寝過ごした日、寝顔を延々と眺められた。目覚めた瞬間思わず、柔らかい微笑みを浮かべた顔に拳を叩きこんでしまったけれど、何故か延々と褒められた挙句、体術と剣を教えてもらえることになった。
訳が分からなかった。
天人とは命を命と思わず、無造作に相手を殺すものだと思っていた。だから、両親の仇であるこの女も、どれだけ残虐非道な天人なのだろうと思っていた。しかし、既に戦場から退いていた女は、仕事の合間に少年に様々なことを教え、給料日には弟子の服を買うくらいで、金遣いも荒くなければ諍いすら滅多に起こさない。唯一怒ったのは、弟子が拾われ子と近所の子どもに笑われた際に、掃除していた箒を構えて「だったらあなた達も拾って差し上げましょうか!?」と叫び返した時くらいだ。
怒った理由も、怒った末に出てきた言葉も、訳が分からなかった。
天人は、自らの力で武器や防具を作り出すことが可能だ。自分の扱える範囲内にはなるけれど、イメージした通りのものを作り上げることができる。兵士達は、常にマントなり武器なりの形を取って存在させているけれど、こうして日常生活を送っている者は己の身の内にしまっているのだそうだ。街中での使用も非常事態以外は禁止されているという。
「それじゃあ、ちょっとやってみましょうか。まずは、何か敵がいると想像して」
少年は思わず師匠の顔をじっと見る。師匠はそれを初めて力を使うことによる不安と思ったのか、大丈夫大丈夫と笑顔で頭を撫でた。
師から手に入れた知識と力を、師を殺す術にする。仄暗い決意を、師は気づかない。
「それを倒せる武器は想像して」
最初は何も考えなくていい。ただ、武器を出すということだけに集中してと言われた通り、少年は己の中の力を解放した。
そうして現れたのは、家よりも大きく禍々しい何かだった。槍なのか斧なのか、弓なのか剣なのか鉄槌なのか、その全てが混じり合った巨大な武器を見上げて、師の女はぽかんと口を開けたまま動かない。少年は、自分が出したそれが酷く醜悪で気持ちが悪いものに見えた。だから見ていたくなくて逸らした顔を、師の女は両手で掬い上げる。
「凄い、ルタ! 初めてでこの大きさを作り出せるなんて、あなたは才能がありますよ!」
「で、すが、師匠、この、形、は」
自分が生み出しと思うのも嫌な物体を見上げて、師の女はぐっと握り拳を握った。
「とりあえず、必ず倒してやるという意気込みは分かりましたから大丈夫です!」
その意気込みの向かう先が自分だとは考えもつかないだろう人は、自らが生み出した武器に怖じる少年を抱き上げてぐるぐると回る。慌ててしがみついた少年の手から離れた武器を受け止めて、鳴らした指で花びらへと変えた女は、嬉しそうに笑う。
「大丈夫ですよ、ルタ。力が怖くても、使い方が分かれば大丈夫です。それを教えるのが師匠の役目ですからね。だから、大丈夫。ああ、よかった。ルタ、よかった」
師の女は、小さな身体を高く天に掲げて、今度は落とす勢いのままに深く抱きしめた。
「私は、あなたを失わなくていいのね」
そうして、心底安堵したように笑う。
何がそんなに嬉しいのか、少年は心底訳が分からなかった。
少年には訳が分からなかった。
美味しい物を見つけたと、少年の分まで毎度買って帰る師の女が。
急に降ってきた雨にわざわざ自分の羽を広げ、少年の傘にする師の女が。
夜遅くまで本を広げて、少年の教科書を作る師の女が。
熱を出した少年に季節外れで高額になった喉通りのよい果物を買い求め、寝ずに看病し、果物で圧迫された家計簿を見て化粧品を諦めた師の女が。
少年が見惚れた時計を見て、甲斐性なしでごめんとしょんぼり肩を落とした師の女が。
分からなかった。




