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神殿に来て一年、私はすごく悩んでいた。
「うーん、どうしようかなぁ」
私は、今朝もルタのベッドの上に腰掛けて足を揺らした。朝に弱いルタは、最近本気で寝起きが悪い。というより、最初は私が入ってきただけで一応起きてはいたのに、最近ではどうでもいいと言わんばかりに寝倒すのだ。がんがん耳元で叫んでも、掛布を剥ぎ取っても寝続ける。ルタの寝顔可愛いと眺めてしまうから、早く起きてほしい。
「困ったなぁ」
昨日なんて、ルタの上に乗って揺さぶってみたのにどうしよう。クビにならない。
会話ができるのは嬉しいし、ルタが通る度、あちこちから挨拶が飛んでくるのを見るのは幸せだ。この前なんて、世間話をしている姿を見たのだ! 何でも本好きの神官を見つけたらしく、二人で新刊について語っていた。その神官は、見かける度にローリヤと大喧嘩をしているわけなんだけど、どうも、この前の休日二人で遊びに行ったらしい。
いつも、あいつがどうだこうだとぷりぷり怒っていたローリヤだけど、その日の服選びは凄かった。勿論、私の手持ちの服や髪飾りも全部並べて協力したものだ。涙目で部屋に飛び帰ってきた時は焦ったけれど、耳まで真っ赤で、熱まで出していたから、まあ、深くは聞かずにおいてあげた。同室の情けだ。でも同室の私だけじゃなくて、同僚みんな大体の事情は察してしまったわけだけど、本人は隠せているつもりのようだから黙っていてあげよう。
そんなこんなで毎日幸せだ。幸せなんだけど、これはまずい。クビにならないのは、非常に、まずい。
「私、あんまり時間がないんだけどなぁ」
「…………時間?」
いつもはまだぐっすり眠っているはずのルタから返事が返ってきて、慌てて口を押える。油断して独り言を拾われた。
のそりと起き上がってきたルタは、寝起きだというのに美しい。流石に髪は少し乱れているけれど、それでもぼさりとなっていないのはどういうことだ。その特権は、乙女とルタにだけ許されたものだ! だったら問題ないね!
どうでもいいことを真剣に納得した私は、慌てて立ち上がって一礼した。
「おはようございます、王様。すぐに朝食を召し上がられますか?」
「そんなことはどうでもいい。お前、時間とはなんだ?」
ルタの手が私の肘を掴む。私の肘をぐるりと一周してしまう大きくて綺麗な手は、寝起きで恐ろしいほど温かい。このまま抱きついてしまいそうになるほどに。
「時間って何のことですか? あっらぁ? 王様、寝ぼけたんですか? 寝ぼけちゃったんですかぁ? ぷっぷぅ! 王様の、ね、ぼ、す、け、さん!」
その滑らかな頬っぺたをつんつん突っついて笑ったら手刀が降った。脳天かち割れたかと思うほど痛かった。
ローリヤの朝は早い。女の子の支度は時間がかかる。だから、私の朝はもっと早い。
すぅすぅ規則正しく聞こえるローリヤが起きないよう、そっとベッドを抜け出してクローゼットを開ける。かけていたメイド服と、小物入れから厚手のガーゼとさらしを取り出す。朝方は眠りが浅くなっているローリヤが起きていないかもう一度確認して、着替えを始める。
寝間着を脱いで眼前に掲げ持つ。汚れていないか確認してベッド上に投げ捨て、さらしを解いていく。何回か解いた辺りから色が見え始めてきて、眉を顰めた。やっぱり、かなり増えている。
さらしを解き切ったそこには、厚手のガーゼを何枚も重ねて尚さらしを汚すほどの血が流れる傷口があった。
生まれた時からあるその傷は、いつも血を流していた。私が孤児院の前に捨てられたのは、恐らくは親にこの傷を気味悪がられたのだろうと予想をつけている。
昔、私がまだ愚かにもルタの良き師匠になろうとしていた最後の日、ルタがつけた傷だ。
ルタは私を許してはくれないのだろう。
許せるはずもないだろうし、許す必要もない。
私が憎悪を繋げなければ、ルタは人間として生き、人間として死ねたのだ。長い長い時を、罪に苛まれながら生きなくてよかったのだ。
全ての元凶である私を、ルタは生涯許してはくれないだろう。
年を取るごとに傷口は生々しくなり、流す血も多くなった。昔は蚯蚓腫れのように膨らんだ傷から滲むだけだったのに、今では、つい先日刺されたかのように傷口が開いている。
これは予想だけれど、私が死んだあのくらいの年齢になったら死ぬのだろうと思う。そして、それはもう目の前だ。
だから、その前にルタの前から消えるつもりだった。なのに、クビにはならないし、ルタは会話してくれるし、友達は出来るし、毎日楽しいし。
「ルタ、どうしてくれるのよ。私、幸せじゃない」
あなたが過ごした千年の孤独に贖う術はちっとも見つけられないのに、私はこの十六年の人生さえ幸せになってしまった。
あなたのおかげで、私は寂しくなかった。だから、今度こそ、あなたもそうであればいい。そうであるのなら、私はもう、何も思い残すことなんてないのだ。
今こうしているのは、私の未練か、あなたの憎悪か。それとも、最早失くした私の神の采配か。
記憶を持って生まれ直したところで、時が戻らぬ以上、何一つやり直すことは叶わない。
両親が殺されるのを止めることも、私がルタの両親を殺さない選択も、あの子の憎悪に気付くことも、何も叶わない。戻るものは何もない。あの子の千年がなかったことにはならない。
それなのに、本来なら可愛い子どもを得るはずだった親に気味の悪い思いをさせて産まれてきてしまった私は、それでも。嗚呼、それでも、ルタ。
私は本当に、今の時間に感謝してるの。
そして、本当にごめんなさい。
あれだけあなたが誰かを愛する瞬間を見たいと願ったのに、今は、その瞬間を見たくて見たくて、死ぬほど見たくないと思う私を、どうか許さないでください。
かしゃんと薄硝子のコップが割れる。音に気付いて振り向いたルタは、険しい顔をしてこっちに戻ってきてしまった。
「手が滑ってしまいました。申し訳ありません。すぐに片づけて、新しいコップを持ってきますね。だから、王様はそのまま本を選んでいてください」
ぱたぱたと手を振って追い返すのに、ルタは私の手首を掴んだ。
「……お前、最近どうしたんだ」
「何がですか?」
「その、死人のような顔色だ」
「やだなぁ、王様。私はいつでも墓から這い出てきた死人のような顔ですよ!」
胸を張って答え、次の瞬間飛んでくるであろう手刀に身構えたのに、ルタは動かない。それどころか、まるで自分が手刀をくらったかのような顔をしている。
その顔に、ああ、もう時間切れだと気づいた。本当はとっくに気づいていたけれど、神の膜に包まれた天界の日差しのように温かい時間に、もう少しだけまどろんでいたくて、気づかないふりをしていた。
私は明日、十七歳になる。
思ったより保ったのは、それだけ、私がこの時間に執着したからだろう。ねえ、ルタ。私の根性、褒めてくれてもいいんだよ!
私は手首を握るルタの掌に反対の手を重ねた。骨が浮き出たみっともない手。綺麗なルタの手に触るにはみすぼらしくて恥ずかしくなる。それなのにルタは、振り払ったり、嫌な顔一つしない。なんて優しい、いい子なんだろう。
「王様、ごめんなさい。私、持病があって、あまり長く生きられないんです」
息を飲んでも美しいルタ。優しいルタ。可愛いルタ。
私のルタはもういない。いや、きっと最初からいなかった。
ここにいるのは、美しい青年だ。ずっと見ないふりをしていた。ずっと、あの頃から、手放す決意をしてから見る見る成長していく彼を愛しただなんて、本当に、師匠失格にも程がある。
「だから、王様、私をクビにしてください。故郷に帰って、静かに余生を過ごします」
「…………孤児院に戻るのか?」
「あら、ご存知でしたか」
「調べた」
あっさりと白状したルタに苦笑する。今生では両親に縁がなかったけれど、私は既に両親の温かさを知っているから悲しみはない。
「孤児院は十五歳までですから。今まで弾んで頂いたお給料で、景色のいい場所に家でも借りて、ゆっくりします」
空が見える場所がいい。かつてはあの空の中で生きた。孤児院はみんな優しく穏やかだったけれど、やはり故郷はあの空だと思ってしまう。美しい場所だった。時間によって染まりゆく雲の中で生きた記憶は、寂しさの中でもやっぱり美しかった。
「……行くなと言ったら、どうする」
「行きます」
「お前を愛していると言ったら、どうする」
今度息を飲んだのはルタではない。重ねていた手を引き抜こうとしたのに、絡め取られてしまう。美しいルタ。綺麗なルタ。そのルタの指の間に、私の骨のような指が重なっている。昔、嫌がるルタの手を取って歩いた頃は、私が彼の手を包んでいたのに、今ではそんなこと考えもつかないくらい大きな手。
「私、以外で、お願いしますって、言います」
震える声はもう誤魔化しようがない。でも、もういい。もう終わりだ。
「……嫌だ」
「お願いします」
「お前がいい」
「王様」
「お前が俺の前に世界を開いた。だったら、最後まで見届けろ!」
息を吸ってルタの胸に額をつける。どうせすぐに突き飛ばされるのだ。少しだけだと甘えて、頬を擦り付けた。
終わりだ。
終わりだよ。
「ルタ」
ぴたりと、時が止まった。
耳をつけた胸から、大きく跳ねる鼓動が聞こえてくる。
最後の王族。最古の王族。最後の天人。いろんな呼び方がある彼の名は、長い時の中で失われた。だって、呼ぶ人間がいなかったのだから。
だからどの本にも載っていない。語り継がれてもいない。
この世で知っているのは、当人であるルタと、あの時代を知る誰かだけだ。
「…………アセビ、お前は、誰だ?」
震える声が私を呼ぶ。
「あら、私の名前をご存知でしたか。お前ばかりだったので、てっきりお忘れかと」
「アセビ!」
肩を掴まれて引き剥がされた。俯きたくなる顔を、渾身の力で持ち上げる。ただのアセビはもう終わる。ここにいるのは、弟子の気持ち一つ見つけられなかった愚かな師匠だけだ。でも、どんなに愚かでも、師匠として弟子の前にある以上、みっともない姿はさらせない。
「あなたの師だと言ったら、もう一度殺すのかしら?」
紅い瞳が絶望に染まる。震える手が私から離れ、均衡を失ってよろめいたルタの背が壁を打つ。
「…………師匠?」
「そんなに脅えなくても、取って食ったりしないわよ」
苦笑して傍の本棚に背をつける。ちょっと、眩暈がして立っていられない。
「だから、私以外を愛しなさいと、何度も言ったでしょう?」
胸元を握り締めて荒くなる息を何とか抑える。何も今、今来なくたっていいじゃない。最期くらい、今度こそ、血の臭いをさせずに終わらせたかったのに。
「俺を、殺しに、きたのですか?」
「何故?」
ああ、言葉遣いが戻ってしまった。胸を打つ寂しさを苦笑で振り払う。それでも、俺が残った。それだけで幸せを感じる私はもう、どうしようもない。もっとあなたが見たかった。もっとあなたを知りたかった。でも、もう、終わりにしなければ。
じわりじわりと滲みだす血は、いつの間にかどくどくと溢れだしていた。
待って、もう少しだけ、待って。この子の、この人の前から消えるまで、もう少しだけ保って。
「俺は、貴女の仇です」
「私があなたの仇よ。あなたが私の仇だと言うのなら、それは私の所為だもの。私があなたに憎悪を植え付けた。私の責よ。ふふ……私の仇は、私になってしまうわね」
込み上げてくる笑いを隠そうともせず、くすくす笑う私に、ルタは紅い瞳をきつく絞った。
「何がおかしいのですか!」
どんっと壁を殴ったルタの懐から、真白い物が零れ落ちる。
かしゃんと床に落ちて開いた丸い物の中に、空があった。
時間と一緒の、青く澄み渡る青空が、懐中時計の中で時を刻んでいる。
「俺は貴女からもらった恩を踏みにじり、貴女を裏切った! 裏切り、殺し、貴女の故郷を奪い、今尚裁かれもせずにのうのうと生きている!」
ルタが激情のままに叫ぶのに、私は彼が落とした空から目が離せない。
かち、かち、と時が刻まれていく。私が彼にあげたかった時計が、彼と共に、千年間時を刻んでいた。彼と共に、同じ空を生きていた。
その空に吸い込まれそうだ。瞳の奥が熱い。
「私、あなたに、憎まれているのだと、思っていたわ」
「……憎んでいました。生を捨て、人であることを捨て、貴女を殺す瞬間だけを夢見て天人となりました。けれど、天界は俺が思っていたような世界ではなかった。そして、貴女もまた、俺がそうであってほしいと願ったような人では、なかった。貴女が殺戮を快楽とし、残虐を日常としているのなら、俺は、何も躊躇わずいられた……貴女を慕わずにいられた」
ルタは倒れるように膝をつき、私の手を握って額をつけた。
「愛しています」
かち、かちと、時計が時を刻む。私とルタの時間を刻む。
「俺の初恋は貴女です。千年を得て、二度目の恋をしたと思っていました。けれど、これは初恋の続きです」
残りわずかな時間を、刻んでいく。
「愛しています、師匠。貴女を愛しています。愛していますっ……!」
悲鳴のように紡がれる愛の悲しみを受けているのに、私の心を満たすのは喜びだけだった。嗚呼、本当に私は師匠失格だ。
応えては駄目だと頭では分かっている。彼に悲しみを遺したかったわけじゃない。気持ちなんておいていっては駄目だ。彼の背中にこれ以上、どんな些細なものでも背負わせたくはなかったのに、私の手は彼の頬に触れてしまった。
「私はきっと、どこか壊れているのでしょう。親よりも親の仇の子を愛おしく思うなど、正気の沙汰ではない。でも、もう、それでもいいのです。私はあなたと出会って寂しくなくなった。……ルタ、私ね、幸せだったの」
零れ落ちた一筋の涙が、ルタの頬を流れていった。
「本当に、幸せだったの」
その頬に赤い滴が混ざっていく。胸元を押さえていた掌から溢れだした血より、もっと美しい命の色をした瞳が見開かれる。
「私も、あなたが大好きよ、ルタ。あなたを愛してる。だから」
私以外と幸せになって――…………。
掠れた声と一緒に赤を撒き散らし、視界までもが染まっていく。
最後に聞こえたのはルタの絶叫で、ああ、私はどうしたって彼を笑わせることはできないのだと悲しくて悲しくて。
最後に見えた羽の美しさに心を奪われながら、二度目の生涯を終えた。




