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天界と人間界の間に蟠りができて幾百年過ぎただろう。
天人が傲慢だったのか、人間が欲深だったのか。今ではもう分からない。いや、あの頃から誰も分かっていなかった。始まりが何だったのかすら、誰も知らない。
ただ、天人が人間を下等な生物と見下したあの時から、人間が天人を捕えて見世物にしたあの時から、既に始まっていたのだろう。
嘗て神は、天界においてただ一人の絶対神だった。しかし、いつしか人間は独自に神を持ち、信仰した。数では圧倒的に勝る人間においての神は徐々に力を増していき、やがては天界を脅かす存在となっていった。
天と地では幾度も戦端が開かれた。
幾度も、幾度も、何百年も。
しかし、矢尽き、剣折れるまで突き進むのはいつも人間で、天人はそこに理由を見出さなかった。羽虫が群がって目障りだから散らす。その程度の気持ちでしかなかった。だから、先制攻撃を仕掛けることは稀で、戦端を開くは人間で、天人はそれを容赦なく殲滅した。
人間は天人を憎んだけれど、天人はそうではない。憎む程の相手として人間を見てはいなかったのだ。害虫として疎みはしても、憎悪を抱くほどの相手とは思わない。それほどに、人間と天人の力の差は大きかった。そして、その傲慢さを人間は許せず、天人はその傲慢さ故に人間に己と同じ心があると思わなかった。
そしていつしか天人は、その長い生の中で人間との戦に飽いた。ただの害虫駆除として羽虫払う作業を黙々とこなすだけとなる。
幾年も幾年も飽きもせず、同じように攻めてくる人間相手に欠伸をしながら、天界は今日も平和だった。
かくいう私もその一人だ。戦場に参加していたのは、もう優に百年以上前の話だ。天人は寿命が長い。神に近しい者達は千も二千も生きている。私はまだ三百歳ほどだけど。
見目は好きな時期を選べるので、私は一番身体が動きやすい若者の身体を使っていた。幼すぎると小さく不便で、老いすぎると動作が緩慢になってじれったいからだ。そう考えるものは私だけではない。他の多くの天人も、成体との境目か、成体の身体を使っていた。
のんびり天上の街を歩く。今日もいい風が吹く。
朝焼け色の髪を風に流して、私はほくほくと懐に入れた箱を服の上から触った。ああ、長かった。ようやく手に入れた。ずっと、もう十年以上、節約して節制して、貯めに貯めて購入した懐中時計。
「ルタ、喜んでくれるかなぁ」
ちょっと表情に乏しい赤い瞳を思い浮かべて、私はふふっと笑いを零した。
ルタは私の弟子だ。戦場を離れて、もう後はのんびり生きようと思っていた頃、道を歩いていたらいきなり弟子入りしたいと言ってきた幼体がいた。黒髪に赤い瞳が印象的な大層美しい少年だった。
彼はルタと名乗り、是が非でも私に弟子入りしたいと言い募った。最初は断っていたけれど一向に帰ろうとせず、いつの間にか私の家に住みついてしまった彼に根負けして弟子にしてしまった。何故か酷く常識知らずで、羽の仕舞い方すら知らなかった彼に絆されたというのもあるにはある。
この子どもを一人で放り出すのも気が引けるし、生活習慣を覚えるまでは、または彼が飽きるまでと弟子にしてみた。どうせ後はのんびり余生を過ごすだけのつもりだったから、それまでの暇潰しになればいいと思っていたのだ。
しかし、ルタはとても優秀だった。とてもどころではない。恐ろしいほどに優秀だった。
あっという間に私の手には負えないほどの力を発揮してしまった。この間三年ほどだ。
私は慌てた。その頃にはすっかり情が移ってしまった弟子の将来を考えると、これではいけない。もっとちゃんとした機関で、ちゃんとした人に弟子入りさせるべきだ。私で面倒を見られる基礎はとっくに覚え、天立図書館で上級術の本を借りてきて一人で練習する彼の小さな背中を見て、私はそう決めた。
その日から、私の節約と彼の師匠探しが始まった。
彼の力より上となると、上位天人となる。上位天人は長い時を生きている者ばかりで、少し性格に難がある事が多い。その中で、比較的心優しく穏やかで、横暴ではなく、手が早くない者を探した。勿論、彼の力をちゃんと制御できて、導いてくれる者。尚且つ彼を家族のように慈しんでくれる者。
探した探した。それはもう探した。他の人に託そうと決め、ルタにそう伝えるまで出会って三年。探し始めて十年。この探しっぷりを分かってほしい。
ある程度絞られる選択肢の中で、返事が来るまでこれまた気が長い天人ばかりで、五年前に送った返事がようやく十日前に届いた。その日にルタと話をして、彼の元に弟子入りすることに決まった。
だから、今日でルタとはお別れだ。
寂しいけれど、これがルタの為だと思うから、笑ってお別れできる。あんな優秀な弟子を持てただけで幸せだ。
私は、それでもやっぱり寂しいなと苦笑しながら、もう一度箱を撫でた。
これは、表情に乏しいルタが、初めて目を輝かせて見つめていた懐中時計だ。真夏の雲より真白い蓋を開けると、時計の中には空が広がっている。時計の針と共に色を変えていく空と雲に、ルタは珍しく子どもみたいに見惚れていた。買ってほしいとは言わなかったけれど、私が用事を済ませるまでずっとその時計を見ていたし、帰り際にも視線を向けていたのを知っている。買ってあげたかったけれど、これがまたお高い。ちょっとした家を買えるくらいのお値段だった。確かにそれだけの美しさがある。だが高い。
私は、ルタへの餞別にこれを買うことに決めた。店主に事情を話して取り置いてもらって十年。気が長い天人で助かった。
おかげで貯金はすっからかんだけど、まあ、なんとかなるだろう。私の貯金額まで知っているルタが受け取らないかもしれないことだけが心配だけど、これが師匠としてしてあげられる最後のことだ。絶対に受け取ってもらおう。
小さな庭と小さな家。両親が遺してくれた唯一の物。
ああ、ここにただいまと声をかけて帰るのは今日が最後なんだと噛み締めて、私は声を出した。
「ルタ、ただいまー。ごめんね、遅くなっちゃった」
狭い家だから、玄関を入ると奥にリビングが見える。テーブルの上には、昨日から用意を始めていたごちそうが所狭しと。
「あれ?」
並んでいる、はずだった。
テーブルが倒れている。勿論、その上に乗っていた食事も全て床にぶちまけられて、到底食べられるものではなくなっていた。見た目にもこだわって、色取り取りにした料理だったのに、全て混ざってしまえばただ床を汚す汚い色だ。
でも、私の眼はもうそれを見てはいなかった。
「ル、タ……?」
狭い家だった。狭い、はずの、家の中に、数万を超える人間がいるなんてこと、あり得ないのだ。
いつの間にか背後の扉が消えていた。目の前には武装した人間がずらりと列を成している。その向こう、はるか遠くにまでその列は繋がっていた。
そして、私の胸を貫くその剣は、成長に合わせて大きくしていったルタの。
「ル、タ」
ごぼりと口から血が噴き出す。せめて剣の持ち主がルタじゃなければいいなと思ったのに、そこにいたのは、すっかり成長して成体となったルタだった。
剣を伝って流れ落ちる血は、鍔で遮られて床に滴り落ちていく。
ルタは、いつものように感情に乏しい瞳で私を見下ろしている。なかなか背が伸びなかったルタも、六年ほど前からぐんぐん背が伸びてあっという間に私を追い越した。
「汚らわしい天人が、我らが王の名を呼ぶな!」
いつの間にか後ろにいた男が私の身体を蹴り飛ばした。胸に突き刺さっていた剣が抜け、床に叩きつけられる。痛みは思ったよりなかった。ただ、ずるりと抜ける感触が不快で思わず顔をしかめる。
「王……?」
この人間は酷く不思議な事を言う。天人である彼が、人間の王であるはずがない。そもそも、人間界の王はその血を絶やしたと聞いた。
だって、私が王と王妃を殺したのだ。
その子供もいつしか死んだと。だから私は戦場から身を引いたのだから。
何故人間が天界にという疑問は、もうどこかへ飛んでいっていた。血が止まらない。床がどす黒く染まっていく。ルタと一緒に選んだ敷布。あなたの眼によく似た可愛い花が咲いた、お気に入りの。
ルタ、ああ、ルタ。私の可愛いルタ。
「我らが神が道をお与えくださったのだ。王を天人として生まれ変わらせ、天の門内と地上を繋ぐ道を!」
もう、男の言葉も理解できない。
ルタ。私の、ルタ。
一人ぼっちだった、私の弟子。
ルタは血が滴り落ちる剣をだらりと身体の横に下げたまま、私を見下ろしている。
「…………何故、両親を殺したのですか」
両親、両親。言葉がぐるぐる回る。男の言葉はもう理解できなかったけれど、ルタの言葉は必死に拾う。両親、両親。私の、両親。
「私の、両親、は」
「お前のではない! 先代国王陛下と王妃様だ!」
男の声が、うるさい。
「あなた、たち、が、見世物と、し、て、城、で、殺した、でしょう?」
天界にはない草花が好きでよく地上に降りていた母。危ないからと私は連れていってもらえなかったけれど、父はいつも一緒にいて。父さんと母さんは私を置いてデートしてるんだと頬を膨らませて待っていた。いつも待っていた。
そうして、いつまでも、待っていた。
「だか、ら、ごめんね、ルタ……会わせて、あげられ、ないの」
ごめんね、ルタ。私、師匠なのに、ルタのお願い聞いてあげられない。
ルタ、どうしよう。私、駄目な師匠だけど、あなたの為に何がしてあげられるのかな。何ができるかな。できること、後、何が残ってるかな。
「ルタ……ルタ……まってて……ちゃんと、凄い、人、さがして、くる、から。ルタが、りっぱに、成長、できるよう、に、ちゃんと、見てくれる、優しい、人、さがして……ルタ……だから…………」
羽の仕舞い方を知らなかったルタ。一緒にお風呂に入って一枚一枚洗って綺麗にしてあげている間、身体をがちがちに強張らせていたルタ。温かい風で一枚一枚乾かしてあげている内に、いつの間にか眠ってしまったルタ。一緒のベッドで眠り、目を覚ました時には床に額をつけて無礼を謝罪したルタ。
「ルタ」
滅多に笑わないルタ。真面目なルタ。頑固なルタ。口数少ないルタ。
「ルタ」
料理も洗濯も手を抜かないルタ。出会った記念日にと毎年私が作るへたくそなケーキを残さず食べてくれるルタ。背が伸びてつんつるてんになった服に頓着しないルタ。無理やり連れていった衣服店で、師匠の懐事情に考慮しまくった服しか選ばないルタ。
「ルタ」
我儘一つ言わないルタ。突然の豪雨で雨宿りした身体が酷く冷え、かちかちと歯を鳴らすほど寒がっていたのに弱音一つ吐かないルタ。熱を出しても一言も言ってこないルタ。
「ルタ」
寝ずに看病した晩、私の手を握って、ありがとうと小さく泣いたルタ。
ルタ
ルタ
ルタ
一人ぼっちだった、私の弟子。
「しあわせに、なって」
一人ぼっちだった私の、ルタ。
「そうして、人間王は天界を滅ぼしました。これでもう、天から気紛れに落とされる落雷で命を落としたり、美しい人間が連れ去られたりすることはありません。彼のおかげで、地上に平和が訪れた」
めでたし、めでたし。
柔らかい老婆の声でしめられた物語に、子ども達はわぁっと声を上げた。
「王様ってすごいんだなぁ!」
「おれ、大きくなったら王さまになるんだ!」
きゃあきゃあと、男の子でも子ども特有の甲高いを声を上げて目を輝かせる子ども達は、本を読んでくれた院長先生の周りを飛び跳ねた。院長である老婆もまた、穏やな声音と同じほど柔らかな瞳で子ども達に微笑んでいる。
そんな老婆の裾を引いた少女は、舌っ足らずな声で聞いた。
「ねえ、ねえ、いんちょーせんせ! おうさまは、そのあとどうしたの?」
「王様はね、最後の王族であり、最後の天人であるが故に、その後は国政に関わらず、ずっと神殿で過ごされているのですよ」
子ども達は飛び上がって驚く。
「え! 王さま生きているの!?」
「ええ、千年前からずっとご存命ですよ。何故なら、天人は寿命がとても長い上に、今では神の領域に達していらっしゃる方ですから。でも……世界でたった一人の天人ですから、あまり周囲と関わり合いになられないそうです。きっとお寂しいでしょうね」
王様可哀相……そんなしんみりした空気の中、盛大に鼻を啜った子どもがいた。私だ。
「ぞんなにょあんまりだ、ぞんなにょあんまりだぁ!」
「まあ、まあ。アセビ? どうしたの? あらあら、そんなに泣くと、また倒れてしまいますよ」
優しい院長先生のふくよかな身体に抱きしめられても、号泣した私は泣きやまなかった。
だって、あんまりだ。そんなのあんまりじゃないか。
一人ぼっちのルタが一人じゃなくなればいいと思っていたのに、千年も一人ぼっちだなんてあんまりじゃないか。
「あんまりだぁ!」
ぎゃあぎゃあ泣き喚く私のせいで、読み聞かせ会は終了した。
孤児院の皆には本当に申し訳なかったけれど、今の私はそれどころではない。
彼に殺されたのは仕方がない。私が彼の両親を殺したのだから。その上、人としての彼を捨てさせてしまったのも私だ。私が憎悪の連鎖を自分で止められず、彼に続けてしまった。復讐を果たした私は、自分の中の憎悪に折り合いをつけてしまった。私が始めてしまったものに気付きもしないで、もう終わったのだと思ってしまったのだ。
天界が堕ちたのも、まあ、分かるは分かる。だって天人は長く生きている間に短命の者を命として見なくなっていた。気に入ったものは相手の意思関係なく天上に浚ってくるし、適当に天気を荒らして作物を散らして、落雷で命を奪う。まあ、人間だって天人を見世物にして羽を剥いで飼ったりするから、どっちもどっちだ。
問題はどっちが悪いとか何を憎むかという話ではない。
私の可愛いルタが、いま、一人ぼっちで千年も生きているということだ。
私は、小さく丸い手を握り締めて、心を決めた。
「わたし、おおきくなったら、おうさまのいるちんでんではたらく! それで、おうさまがさびしきゅないように、おともらちいっぱいつくるおてつだいするの!」
私が人間として生まれて三年。
人生の指針を決めて十秒。
孤児院を卒業して神殿で働くまで、後十二年。