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 硬いコンクリートの床の上で目が覚めると、太陽はもう高いところを漂っていた。


 あのまま寝たのか、僕は。


 昨日は恥も、外聞も、あられもなく泣いたせいで、目の周りが腫れている感じがした。


 硬く、冷たいコンクリートの床で寝たせいで体中のあちこちが痛く、錆び付いたようにぎしぎしと軋んでいた。


 昨夜、巡樞の過去の物語が終わり、隣で寄り添ったまま寝てしまった彼女をベッドまで抱えて運び、僕はコンクリートの床に背をつけて、天井の暗闇と対峙した。色々なことがくるくると頭の中を巡ったが、何一つ答えなど出るわけもなく、その暗闇に僕は思考を絡めとられて、いつの間にか眠ってしまったのだ。


 彼女は僕が眠っている間にシャワーと着替えを済ましており、既にいつでも出れるという状況で僕が起きるのを待っていた。


 昨日と同じ制服姿だった。


「ようやく起きたわね。行くわよ」


「行くってどこへ?」


 あっけに取られる僕。


「決まっているでしょう。昨日私達を痛い目に合わせてくれた、あの猟奇的連続殺人犯を捕まえによ」


 驚きの混じった叫び声が部屋に響いた。

 もちろん僕のだ。


「私はね、借りはぜったいに、最後の最後まで――――小数点、余りまで計算してきっちり清算するタイプなのよ。数学の授業で“割り算は余り何”とか教えられるでしょう?」

 

 数学じゃなくて算数だな、それは。

 割り算。


 答えの横に点々を書いて余り何と書く。


「私は、あの余りが絶対に許せないのよ。あれはいつだったかしら――――」


 彼女は目を瞑り、物思いに耽る様子を表現して言葉を続ける。


「帰りの夜道を歩いている私の目の前に、真夏だというのに厚手のコートを着込んだ男が現れたの。その男は獣のように荒い息を上げながら、勢いよく纏っていたコートを脱ぎ捨てて、いきり立った不埒で下品なものを、まるで勲章か宝物のように自慢げに、これ見よがしに見せてきた。そんな変質者がいたのよ」


 おいおい、寝起きでいきなり話が物騒になってきたぞ。


「私はね、その情けない無様なそれに、たっぷり皮肉を込めて言ってやったわ」


 赤い瞳にメラメラとサディスティック炎を浮かび上がった。


「小さくて汚いわよ。この低学歴のニートの社会不適合者が――――って」


 ああ、ご愁傷様。


 今頃は再起不能になって残りの人生を過ごしていることだろう。


「つまり、私は余りまでしっかり計算して借りを返す女なのよ」


「要約されたつまりの意味が分かんねーよ。つまらない話まででっち上げるな。そもそも変質者と殺人者じゃ、根本的に相手が違うだろう。そんなもん警察に任しとけよ?」


 それから、あの狼男の用務員に。


「僕は危ない目はごめんだ」


「情けないのね、あれほど痛い目にあったって言うのに。晦日君には反骨精神って言うものがないのかしら? これだから最近の日本男児って」


「あれだけ痛い目にあったから、普通は近寄らないもんだろう。君子危うきに近寄らず。過去の賢人も言ってるし、学習能力だよ。それに僕を近頃の日本男児の象徴のように言うな」


「あら、過去の賢人がどれほどのものかしら? それに学習能力なんてものは猿にだって蚤にだってあるものよ。触らぬ神に祟りなし、臭いものには蓋をしろ、事なかれ主義、思考停止、無責任、受動的、草食系、どれも今の日本男児とあなたを形容するような言葉じゃないかしら?」


 確かに、反論ができない。


「無防備で眠っている女の子に手一つ出さないなんて、草食系の極みだわ」


「さては起きてたな、僕を試したのか?」


「もちろんよ。あなたが世の女性全てを、性の対象としかみていない欲望の権化なのか、それともただの意気地なしのへたれ草食野郎なのか、しっかりと確かめさせて貰ったわ」


 どっちに転んでも最悪のレッテル貼られるしかなかったようだった。



「何だよ、手を出してたほうが良かったってのかよ?」


「そうね、そんなことになっていたら、あなたは残りの人生を子孫の繁栄が永久に不可能な、去勢された犬か猫として過ごしていたでしょうね」


 僕、グッジョブ。

 心の中で人生最大のガッツポーズをした瞬間だった。


「ともかく、早く行くわよ。晦日君はそんなズタボロの格好のままじゃ無理ね。一度晦日君の家に帰りましょう。着替えをした後で行動開始しよ」


 僕は肩と腹の辺りをズタボロに切り裂かれた、みっともない学ラン姿に視線を落とした。中に着ていたYシャツは血まみれだったので、威武将門のでか過ぎるTシャツ――何故かそのTシャツには“人生楽ありゃ苦もあるさ”と言う僕に向けたメッセージのようなものがプリントされていた――をもらい、今はそれを着ていた。


 僕はテキパキと今後のプランを立てる彼女に感心しながらも、内心ほっとしていた。昨日のことで、彼女との関係がおかしくなったりしないか、余所余所しくなったりしないか、実は不安に思っていたからだ。


 でも、彼女は大丈夫のようだった。


 あんな壮絶で悲惨な過去がありながらも、彼女はこうやって何かを求めて活動をしようとしている。


 今思えば、終業式の日からずっと桜の木を監視していたことも、急に僕を図書館に呼び出したりしたことも、こうやって連続殺人犯を見つけ出そうとしていることも――――彼女なりに何かを求めて、世界や他者と関わろうと努力している結果なのかも知れなかった。


 やり方は大分間違って、明後日の方向どころかk点を突破し、大気圏まで突き抜けていると思うが。

 だったら僕はそれに付き合うしかない。


 上了賊船。

 つまり乗りかかった船。

 そして毒を食らわば皿まで。


 僕は両手を広げて降参のポーズを取り、大きな溜息をついた。


「分かった。行こう」


 僕達は彼女のマンションを後にする。


 マンションの入り口では、昨日とは別の係員がマンションの住民を出迎えて挨拶を交わしたが、やはり僕には下劣なものをみるような軽蔑の視線をあてた。


 次ぎ来たら必ずゴキジェットを噴射してやるといわんばかりに。


 僕の家までは電車に乗ったほうが早く着いたが、徒歩でもそんなに変わらないし、天気も悪くないということなので歩いて向かうことにした。


 一月五日。

 土曜日。

 午後二時。

 気温は低く、吹く風は冷たく、頬を撫でる木枯らしは乱暴だったが、どこか気持ちよかった。


 広いコンクリートの道路の脇に伸びる、赤いレンガで舗装された歩道を二人で並んで歩いた。ここら辺は閑静な住宅街ということもあり、大型の高層マンションや、品のいい一軒家が並び、樹が多く植えられ、公園もいくつか見つけた。


 長閑で平和な町並みだった。

 これから僕達が行おうとしていることが全くの嘘みたいに。


「ここら辺は静かでいいな」


「この辺りでは一番閑静で、一番治安が良くて、一番高級な一角らしいわ」


「随分、露骨に一番を強調するんだな?」


「どうせ晦日君は、生まれてこの方一番になったことなんてないでしょうから、ここでも格の違いを見せ付けておいてあげるってことよ」


「そうですか。別に僕はナンバーワンよりもオンリーワン派なんでね」


 隣から小馬鹿にするような「ふふふ」と言う笑い声が聞こえた。


「その数年前に流行った、馬鹿そうなアイドルが歌うワンフレーズ――――そして、その人類最強ともいえる言い訳はね、ナンバーワンになれない人たちが持てる知識の粋を結集させて作った、負け犬の遠吠えの極みなのよ。勉強も、スポーツも、仕事も、恋愛も、ナンバーワンよりオンリーワンが良いなんて、初めから努力しませんって言ってことと同義。つまり、諦観、傍観、怠惰、怠慢、堕落、追随、白旗、降服、服従なのよ。その結果、今の日本男児の定型句となり、そして無責任な人間ばかりを無尽蔵に量産し続けている。つまり、この日本に蔓延する諸悪の根源が、オンリーワンなのよ。分かっていただけたかしら?」


 分かりました。


 痛いほど分かりました。

 体中に刺さった言葉のナイフを抜きながら、うんざりと服従の相槌を打ち白旗を振った。


「人が一人ずつ違うなんて当たり前のことでしょう? 人間は生まれながらオンリーワン、たった独りなのよ。その中で競い合うからこそ意味がある。そうは思わないかしら? 晦日君はもう少し向上心や競争心を持ちなさい。そんなことでは、来るべき戦いで生き残れないわよ」


「僕は、いつか始まる聖戦のために力をためている戦士じゃない。右手に剣、左手に何たらはごめんだ」


「あら、嫌でも戦いは起こるわよ。望む、望まずに、好む、好まずに関わらず。争いは常日頃、この日常に溢れているわ。もちろん、その時に戦わないことを選ぶのも選択肢の一つだけれど、自分の喉下に刃を突きつけられている時に、果たしてそんな悠長な考えが通せるかしら?」


 意味ありげ、意味深長、意味不明。


 そんな言葉が頭の中に過ぎったが、それ以上に僕の心の中に響き渡り、染み渡る言葉となったし、彼女が言うと真に迫り、説得力があった。


 ありすぎるほどに。


 喉元に突きつけられた剣をへし折り、戦いに生き残ったからこそ、今の彼女があるわけで――――確かに、望む、望まずに、好む、好まずに関わらず、争いは常日頃、そこら中で起きている。


 その時、僕は何を選択するだろうか?


 いや、彼女を守るためにナイフを手に取った時から、僕の戦いは始まっているのかもしれない。

 やれやれ、本当に望む、望まずに、好む、好まずに関わらずだ。でも、僕はあの時、自ら望んで剣を手に取ったわけだから、その剣によって滅んだところで、文句は言えないような気がした。


 そして、それが戦いというものだろうと。


 そんな彼女が思いのままに鞭を振るう恐ろしい会話が展開されながら、景観は自分の住んでいる見慣れた町並みへと変わっていった。徒歩で十五分くらいの距離を歩いただけなのに、この町全体の雰囲気というか、グレードの差というか、圧倒的なまでの優劣の差は一体何なんだろうか?


 狭く舗装されていないボコボコの道路に、ひしゃげたガードレール、公園では悪ガキどもが明るいうちからタバコを吸い、自転車に乗る警察官が警戒の表情を浮かべて行ったり来たりしていた。そんなに治安が悪いなんて感じたことはないし、汚い所だとも感じていなかったが、やはり白いものを見た後に黒いものを見たからか、余計に黒くくすんで見えているのかもしれないな。


 僕の家の前に辿り着いた。

 

 木造二階建てのアパートメント。

 僕が住んでいるのは二階の二号室。


 何故か物凄く惨めな気持ちになった。


「晦日君、気に病んだり、落ち込んだりすることはないわ。これが今現在における、晦日君と私を隔てる、圧倒的で絶対的な差なのだから」


「人の心を読むな」


やはりこの女、読心の心得がある。


「しかし、腹減ったな?」


 ぎーぎー悲鳴を鳴らす階段を上りながら言った。


「ぺこぺこよ」


「良く考えたら昨日の昼から何も食べてないな?」


「そうね、ぺこぺこね」


「着替えが終わったら、どこかで飯でも食おうか?」


「ええ、もうぺこぺこ」


「あんた、絶対ぺこぺこ言いたいだけだろう」


「ぺこぺこ」


 案外、可愛げも兼ね揃えているから困る。


「何か食べたいものある? ここら辺だとファーストフードかファミレスになっちゃうけど?」


 彼女は考える。


「ハンバーガーかしらね」


「え?」


 意外な食品名が出てきて驚いた。


 そんなカロリーと脂肪の塊のような食べ物は一切口にしませんとか、害悪極まりない食悪の権化だとか言い出しそうなのに。


「私、生まれてから一度もハンバーガーを食べたことないの。食べたいわ、ハンバーガー」


 異様にハンバーガーへの期待度が高かった。

 狭く短い廊下を歩き、奥の部屋の鍵を開けて薄い扉を開いた。


「ここは、お手洗いか何かかしら?」


「そんなわけあるか。ここで生活しているんだよ。散らかっているから気をつけろよ。後、あんまり家の中を荒らすなよ」


 彼女は物珍しそうにキョロキョロしながらローファーを脱ぎ、部屋の中に入る。


 六畳よりも少しだけ広い部屋にコタツ一台と箪笥が一つ、大きな本棚が一つ。

 物の少なさでは彼女の部屋と大差なかった。


「そう言えば巡さんの家では靴を脱がなかったけど、あれは何で? アメリカ式なの?」


「ああ、あれ? どうせコンクリートだし、週に一回ハウスクリーニングが入るからどっちでもいいと思って」


 かなり裕福な人の発想だった。

 ここでもグレードの差を見せ付けてくれる訳だ。


「それに靴を履いていないと落ち着かないのよ。何かあった時に直ぐに動けるようにしておかないと、不安なの」

 

 やれやれ、昨日の話の後だと――――何を話しても、聞いても、全部がもの悲しく、モノクロームになっちゃうな。彼女は気にしていないようだけど、僕はかなり気にしていた。それにババしか引けないババ抜きやっているような気分だった。


「意外に片付いているじゃない。私、男の子の部屋ってもっと汚いものかと思っていたわ」


 まぁ、許容範囲の部屋というお墨付きをもらった。


「それに沢山本があるのね。ずいぶん下らなくも面白い突っ込みをしてくれるのは、読書の賜物な訳ね」


 ボキャブラリーを褒めてくれたのだろうか?

 下らないは余計だぞ。


 僕の本棚の中には、確かに多種多様、多種多面、多岐多様な本が納まっている。


 僕は、文学小説も、エンタメ小説も、推理小説も、伝記や、歴史書も、ライトノベルも、漫画も、ゲームの攻略本もいけちゃう超濫読派だ。それに映画やアニメ、ドラマ、CMに至るまで大好物と来ている。


 その点では、物語繭と大差はなかった。


「でも、肝心の晦日君の性癖の化身とも、集約とも、権化とも言える、お約束のものがないわね」


 彼女は、「おかしいわね」と言いながら険しい顔で探索モードに入った。


「そんなもん探すな。どんだけ僕に恥をかかす気だよ」


「あら定番のイベントじゃないのかしら? それにあることを否定はしないのね」


 うっ、痛いところをつかれた。


「とにかく、そんなイベントは発生しません」


「どうしたのかしら? ご自慢の伝家の宝刀が急に錆び付いて、鈍らに変わってしまったわよ。つまり突っ込みに切れがなくなっているということね」


 ぐっ、またしても痛いところを。

 しかも僕の読解力に合わせて注釈までつけている。


「安心しなさい。私だってそんなものが見たいわけじゃないんだから、ちょっとお約束的に言ってみただけよ。お約束の展開って大事でしょ? さぁ、早くシャワーでも浴びて着替えを済まして頂戴」


 言われるままにシャワーを浴びた。


 十分後。


「凄いわね、これ? 人間ってこんなことできちゃうんだ」


 しっかり見ていた。


「ねぇ、ねぇ、これは一体どうなっている、いえ、何をしている――――と言うべきかしら? え、これは、まさか、わお。こんなことが、人間同士で? ねぇねぇ、晦日君、晦日君はこんなことをしてみたり、して欲しかったりするのかしら?」


 のぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお。


 それから家を出るまでの十五分間。

 僕は真っ白な灰になっていた。


「そんなに気にすることじゃないでしょ? 年頃の男の子なら誰だってあることなんでしょう? お約束でしょ? でも、その、私、あの――――とても残念だけれど、どうやら私は、晦日君の溢れんばかりのパワフルでワンパクな性欲と性癖を、この身を持って受け止めてあげることは、できないかも。本当に、ごめんなさい」


 彼女は俯いてもじもじした。

 もちろん演技だが。


「謝るな。そして少し恥ずかしそうに言うな。こっちが恥ずかしくなるし、今直ぐにでも自殺したいぐらいだ。それにあれは友達がたまたま持ってきて、僕は仕方なく家に置いておいて」


 語尾が縮んでいくのが分かった。


「そんな母親に言うようなありきたりな言い訳で、この私が納得すると思っているのかしら?」


 ご明察の通りです。


「それに妄想は自由なんだから大丈夫よ。晦日君みたいな人から妄想を奪ったら、それは生きがいを奪うことと同義になってしまうわ」


 恐ろしいフォローの仕方だった。


「さぁ、いいのよ。妄想の中で私に鞭で打たれたり、ハイヒールの踵で踏んづけられたり、豚と罵られたりしても」


「何故、僕の妄想の中で僕が虐められているんだ?」


「そんなの、晦日君がどのつくMだからでしょ」


「何度も言うが僕はMではない。そして人をそんな特別な性癖の変態野郎みたいに言うな」


「あれを見せておいてよく言うわね」


「勝手に見たんだろうが」


「でも変態という意味においては同じよ」


「変態じゃない、僕の性的趣向は一般男性の基準に十分入っている」


 はずだ。


「猫耳、スクール水着、ブルマ、妹萌、ア」


「やめろー」 


 更に危ない所まで、開けてはいけない扉を開こうとしているので、僕は大声でそれを制止した。


「まぁ、いいでしょう。では、これらは一般男性の性的趣向の範疇だと?」


「そうだ」


 きりっ。


「妹萌は犯罪行為よ、お兄ちゃん」


「お兄ちゃんと呼ぶな。僕はその属性には萌えていない。持っていたのはたまたまだ」


 きりっ。


「じゃあ、お兄ちゃんは何属性に萌を感じているのかしら? 是非とも拝聴したいのだけれど」


 属性なんて言葉を、僕は女の子の口から聞きたくなかった。それに無表情で。しかも、その奥には僕を軽蔑し侮蔑したまま可愛げも無く淡々とお兄ちゃんと言われても、萌える要素は一切どこにもない。


 僕は傷ついていたし、もう十分すぎるくらいの恥辱を味合わされていた。そしてこんな会話、今直ぐに切り上げたかった。


 しかし、僕の中の萌感情がそれを許さずに、逆に燃え上がらせていた。


 今こそ萌え上がれ、僕のコスモ。


「僕は、ツインテール萌だ」


 言った瞬間に二人の冷たい間に風が吹いた。

 僕と彼女を分かつように。


「気持ち悪いわね。十分変態じゃない」


 呆れたように言われた。

 しかし悔いはなかった。

 

 僕は右手で大きく天を穿った。


「それと、改めて言っておきますけど、その格好もど変態的よ」


 前者に関しては否定しまい。


 僕ももちろん分かっていた上で、あえて言わせてもらったのだから。しかし後者についてはまだ反論の余地がある。


 あるはずだ。


 ズタボロに破れてしまった学ランは破棄し、袴に白のYシャツ、その上に厚手のピーコートと言う洗練された清新なスタイルで町に繰り出した訳だが、やはり彼女のお気には召さなかったようだ。


 僕が風呂場でこそこそ着替えをしていると、彼女は僕の袴をゴミ箱に捨てようとしたぐらいだ。

 それをやめさせると今度は鋏で切り刻もうとした。

 しかし、否、僕は女性のために服装を選ぶような不埒な男子学生ではないのだ。


「これは僕のポリシーなんだ。古き良き時代の書生を反映させ、繁栄させようと言う、新しい現代風の書生スタイルだ」


「それは分かったけれど、とにかくダサいのよ。その格好」


 もはや何も語るまい。

 この件に関しては僕達に和解の余地はない。


「巡さんだって、休みの日なのに制服じゃないか?」


「私の場合、これしか持っていないのよ」


「え?」


 そうか、対人恐怖症だから買い物ができないのか?


 それであの部屋も物が一切何もないんだ。

 制服ならばサイズさえ分かっていれば、事務局に書類一枚で手に入れることができる。

 やれやれ、僕は自分の思慮の足りなさを、デリカシーのなさを悔やんだ。


「本当はね、もっと流行のっていうのかしら――――可愛い格好したいのよ。髪の毛だって、美容室に行って短くしてみたり、金髪なんかに染めてみたりしたいのよ。自分じゃ前髪くらいしか切れないじゃない?」


 金髪か、大分パンチがあるな。

 でも似合いそうだ。

 金髪でツインテール。

 なかなか悪くないぞ。


 いや、それはかなり良い。

 

 げへへへへ。


「不愉快な妄想はやめてくれるかしら?」


「やはり僕の心の中を読んでいる?」


「下品な顔に書いてあるわよ。私の美しい髪の毛を、自分の汚らしい汚物に巻きつけて、あんなことやこんなことをしてみたいって」


「そんなこと考えている訳あるか。でたらめな解釈するな」


「解釈? と言うことは、それに遠からずなことは考えていたわけね?」


「まさかの誘導尋問スキル」


「当たり前よ。私のハニーとラップにかかったら、ジャック・バウアーだっていちころよ」


「あの一度も口を割ったことのない、尋問、拷問のスペシャリスト、ジャック・バウアーがいちころのハニートラップだと? 僕も是非引っかかりたいものだ」


「あら、晦日君はもうかかっているじゃない。私の鞭の味が忘れられないでしょ?」


「こんなドSトラップに引っかかってたまるか」


 断固として否定する。

 こんな鞭、こんな無恥、こんな無知、こんなムチムチ?


 あれっ、まさか、もはや僕はドSトラップにかかっているというのか?


「ふふふ、私がたっぷり可愛がってあげるわ、これからもうんと啼きなさい。この豚」


 僕の隣には女王様が君臨しています。


「でもね」


 そんな素晴らしく下らないやり取りの後、彼女は話を元に戻すように言った。


「やっぱり、怖いのよ。人間が」


 やれやれ、またしてももの悲しい雰囲気になってしまった。


 僕に何かできることはないだろうか?

 その時、僕の頭に最高のアイディアが過ぎった。


「今度僕が買って来るよ、流行の洋服」


 彼女は一瞬、ありがとうと言いたげに微笑を浮かべて僕を見つめた。

 おお、僕の気持ちが彼女にようやく届いたのか。


「全力で拒否するわ。あなたに任せたらどんな変態的なセンスの洋服を――――いえ、変態的なコスプレを選んでくるか分かったものじゃないんだから。メイド服、ブルマの体操着、更にはハート型の下着、全身網タイツ、荒縄、裸エプロン」


「待て、僕はそんなマニアックな趣味趣向を持ち合わせていない。そして荒縄は服ですらないし、裸エプロンはただのエプロンで、それはプレイの名前だ」


 僕は全力で否定した。

 自分の尊厳をかけて。


「的確な突っ込みを入れたつもりでしょうけど、そんなことをおくびも無く、裸エプロンがプレイの名前だ、何て断言してしまうのは変態の証よ」

 

 一理ある。

 そろそろ僕は変態で豚であることを自覚するべきなのか?

 ぶひぶひ。


「でも、そうね、いつか買い物ぐらいにはつき合わせてあげるわ。光栄に思いなさい」


「ああ、ありがとう」


 それから僕達は駅前にあるチェーンのファーストフード店に入った。


 自動ドアを跨ぐと、彼女は直ぐに僕の後ろに隠れて僕のコートの布を強く掴み、一言も喋らなくなってしまった。


 僕は急にドキドキした。


 やれやれ、これがギャップ萌えと言うのだろうか?

 段々彼女のキャラクターにハマっている気が――――しちゃダメだ。


 僕は適当にハンバーガーのセットを二つ頼み、飲み物は良く分からないから炭酸と炭酸じゃないものを頼んだ。


 店内には余り人がおらず、ガラリとしていた。

 それでも僕達は二階の隅っこの席を選んで座った。


「これがハンバーガーと言う奴ね? そして、これがポテト」


 彼女は珍しそうにハンバーガーの包装紙を剥がして眺める。

 ポテトをつまんで光にかざしてみる。

 鼻に近づけて匂いをかいでみる。


 興味津々だった。


 まだ口には運ばない。


 僕のほうがその光景を珍しそうに眺めながら、ハンバーガーを頬張り、ポテトを口に運ぶ。


 久しぶりに食べると上手いな、相変わらず。


 彼女は僕の食べ方を見つめながら、学習しているようにフムフムと頷いた。そして子供が見よう見真似でするみたいに、ハンバーガーを小さな口に目一杯ほうばった。


 瞬間、彼女の顔が輝いた。

 表情こそ変わらないが、それでもそこには手に取れるような変化があった。


「おいしい」


 彼女は飲み込んだ後呟くと、次はポテトを口に運ぶ。


「おいしい」


 次に炭酸のジュースが入ったカップを手に取り、ストローで中身を啜る。炭酸に驚いたように瞼が持ち上がった。


「おいしい」


 何だか涙が出てきそうな気持ちになってきた。


 昨夜彼女の前であれだけ泣いたのに、またしても僕は涙が出そうな気持ちになっている。

 しかし昨日と違うのは、これが嬉し涙だと言うことだろう。

 

 何と言うか、年頃の女の子がハンバーガーを食べておいしいと言う普通の光景には、とても感動的なものがあった。


「俗世にはずいぶんのおいしい物があるのね? 私堕落してしまいそうよ」


 嫌な物言いだった。

 先ほどまでの感動的な気分が消え去った。


「このファーストフードのチェーンならうちの学校にも入っているから、学校でも食べれるよ」


「じゃあ今度買って来なさい」


 命令口調になった。

 やれやれ、巡樞恐るべした。


「普段は何を食べているんだよ?」


「豆腐よ」


「豆腐だけ?」


「およそ豆腐ね。私の体の八割は豆腐でできているの」


「真顔で嘘つくな。大豆製品の人間なんて聞いたことないぞ」


「あら本当よ。何なら触ってみる? 豆腐みたいに柔らかいわよ――――私の体」


 我が家であのイベントが発生した後から、僕達の会話にエロの要素が加わってしまった。

 僕としては女の子とこんな会話なんてしたくないのに。


「遠慮しておく。残りの人生を子孫の繁栄できなくなった体で過ごしたくはないからね」


「大丈夫よ、今のままでも晦日君は子孫の繁栄なんて行えないんだから」


 ちくしょう。


 言い返せるようなことが何も見当たらない。

 

 彼女はハンバーガーで舌鼓をし、十分に僕を虐めて楽しんだ後、「そろそろ行きましょう」と立ち上がった。なにやら決意めいた強い口調だった。


「本当に、あの化け物みたいな異常殺人者を捕まえる気かなのか?」


 ファーストフード店を出て駅に向かって行く彼女に尋ねた。


「まだそんなことを言っているの? とっくに了承済みで付いて来ているのかと思ったわ」


 大方了承はしていたが、だけど付いて来ているのはあんたがつき合わせているからだろう。

 心の中だけに留めておいた。


「大丈夫よ、ちゃんとあてはあるから。この私が、何の考えもなしに闇雲に行動する訳ないでしょう。晦日君が馬鹿面を晒して眠りこけている間に、私はしっかりと今後の計画を練っていたのよ」


 最高に嫌味な言い方で自信満々だ。


「それに」


 彼女は視線を鋭くして言葉を続ける。


「私達、二人とも顔を見られているのよ? このままあのいかれた殺人鬼が黙って見逃す訳ないでしょう。早めに手を打っておかなきゃ、後々厄介よ」


 衝撃的な言葉に、僕は自分の頭を力強く殴られたような気持ちになった。


 確かに、僕達は昨日あの連続殺人犯に顔を見られ、制服姿だってばっちり見られている。犯人があの辺りに土地勘のある人間だったら、どこの学校の生徒かなんて一目瞭然だろうし、自分の顔を見たかもしれない相手を、わざわざ野放しにしておくとは考えにくかった。


 もちろん僕達は犯人の顔を見ていない。


 深く被っていたフードのせいで顔を窺うどころか、着ていたコートや、妙に前屈みになった低い体制のせいで、体格すらもろくに分からない。しかしそれは僕側の視点であって、向こうからしたらそんなことを知る由もないし、お構いもなしだ。


 僕と彼女の“不死身”の現象のこともあるから、警察や教師にも手助けを求めるわけにもいかず、そもそも彼女が誰か他人を頼るなんてことはない。


 彼女はずっと一人で戦ってきたのだ。

 これからだってそうだろう。


 だから僕たちが――――僕が解決するしかないのだ。


 恐らく、このままでは僕達はまた狙われる。

 その可能性は十二分にあった。

 自分の平和ボケさを実感した。

 彼女の先ほどの言葉が再び頭の中で反駁される。

 嫌でも戦いは起こる。

 望む、望まず、好む、好まずに関わらず。

 彼女にとってはもう戦いの火蓋は切って落とされていたのだ。


 僕達は電車に乗り、電車で揺られ、電車を降り、駅を抜け、十分ほど歩いて学校までたどり着いた。

 大きな鎌首をもたげた校門が僕達を出迎えた。


 もう直ぐ五時になろうとしていた。

 僕達はまず図書館へ向かった。


「私はあの多目的室にいるから、晦日君はあの連続殺人犯の記事の載った新聞を全部と――――物語さんに猫が沢山死んでいる場所を聞いておいて頂戴」


 猫の死んでいる場所?


 そういえば物語繭が昨日そんなこと言っていたけど、何でそんなこと聞く必要があるんだろうか?

 どうせ尋ねたところでまともに答えないだろうから、分からないまま図書館に入館した。


「あれ、またお二人さん、寒いのに暑いね」


「つまらないギャグはやめろ」


 僕は例の如く本を抱えて現れた物語繭と遭遇した。

 休みの日でもやっぱり図書館にいるのか。

 さすが本の虫、もとい本の蛹。


 巡樞は挨拶もしないですたすたと通り過ぎ、階段を上がっていってしまった。


「悪いな、悪気はないんだよ。多分」


 悪気は無いだろうが、いい気はしないはずだ。


「大丈夫、気にしてないよ。それにしても休みの日までどうしたの? と言っても、今は冬休みだから関係ないね」


「ああ、そのことなんだけど、新聞を読みたいんだけど、ある?」


「もちろん。だいだいの新聞社の新聞はあそこにファイリングされているよ」


 彼女は新聞コーナーを指差した。


「ありがとう。それと、もう一ついいかな?」


「うん」


「昨日、猫がどうとか言っていたじゃん?」


「猫? 猫の死体のこと?」


「ああ、あの話の場所ってどこかな?」


「晦日君って、もしかして猫耳好き?」


「何故耳がつく、そこは猫好きでいいだろ。それにその手の話はもうやめてくれ」


 僕はうんざりと言葉を返した。


「もう? と言うことは、さては巡りさんに?」


「断固否定する」


「うんうん、ツンケンしている女の子に猫耳。確かに萌えますね」


「僕はその属性には萌えていない」


 今日に限っては僕の周りの女性が、萌をと言うものに対して過剰反応している気がした。しかし彼女が抱えていた本の一番上のタイトルが、猫耳ハーレムと言う謎の本のタイトルであることを確認し、僕は納得した。


 僕は何とか場所を教えて貰い、改めて礼を言った。


「それじゃあ」と言い、新聞コーナーに向かおうとする僕を――――例によって彼女が、「ああ、そうだ」と思い出したように引きとめる。


 僕は瞬間に体が強張るのを感じた。

 条件反射という奴だろうか?


 またしても昨日のように、得体の知らない物語を物語繭が物語るのかと思うと、ついつい身構えてしまった。


「晦日君って、優しいね。気をつけてね」


 目じり垂れ微笑ましそうに緩んだ濃紺の瞳が、僕を見つめて言った。それだけ言ってしまうと、物語繭は抱えた本でバランスを取りながら、小走りで本棚の波の中に飛び込んでいった。


 僕は拍子抜けしていた。

 

 何が優しいのだろうか?


 僕が猫の死体の場所を尋ねたから、猫のお墓でも作ってあげると勘違いしているのだろうか?


 もしそうなのだとすれば、物語繭、とんでもない誇大妄想家的な人間か、性善説を本気で信じている根っからの善人に他ならなかった。入学してから今日まで、彼女のこともいまいち掴みきれていなかった。


 新聞を抱えて多目的室に入ると、巡樞は待ち草臥れたように欠伸をかみ殺していた。

 この女、人のことをこき使っておいて、自分は暢気に欠伸とは。


「遅かったわね、待ち草臥れたわ」


 もちろん謝意の一つもなく、一ミリ足りともそんなことを感じさせずに続けた。


「さぁ、新聞を日付順に並べて頂戴。記事が面に来るようにね」


 言われるままに机の上に新聞の記事を並べていく。一面のトップ記事から社会面、犯罪面、新聞のありとあらゆる所にこの連続殺人の記事が書かれていた。記事の量が多すぎて机の上に広げきれなくなったので、仕方なく床の上にも新聞を広げることになった。


 途中面倒くさくなった彼女は、新聞の記事を切り取ろうとしたが、それは僕の持てる力を全て使って止めた。


 そんなことをしたら物語繭になんて言われるか―――――あの温厚で柔和で、虫も殺さないような本の虫、ならぬ本の蛹の殻を破って飛び出させ、唯一彼女を怒らせることができるとしたら、それは印刷物を大事にしないと言うことに他ならないことを、僕は確信していた。


 彼女は不満そうに手厳しい言葉を僕に浴びせたが、僕は何度も正論を述べて最後には謝罪の域に達して、ようやく何とか了解して貰うことができた。


 どう考えてもおかしいだろう。


 さて、こうして改めてこの事件を一から知ることにより、事件の奇怪さと残忍さを、僕はまざまざと目の当たりにすることとなった。


 事件が初めて起きたのは大晦日の夜だった。


 十二月三十一日から一月一日の未明にかけて。


 犯行時刻は日を跨ぐ深夜零時頃。

 

 ちょうど僕と彼女が出会った時間帯だ。


 現象が現象を呼び、新たなる現象を巻き起こす。


 狼男の言葉を思い出した。そしてあの夜、彼女と別れるときに感じた漠然のした不安感、そして悲しいことが起こりそうな予感を。

 

 因果律。


 僕の中を色々な疑問や疑念が浮かび上がった。


 初めの犠牲者は二十代前半の女性だった。


 僕らのように夜道を歩いているところをいきなり襲われた。発見された時の姿は、顔面をぐしゃぐしゃにされ、腹を捌かれて臓物を引き出された無残な状態だった。しかも、その冷酷極まりない、残虐無比な解体ショーは、その女性がまだ生きているうちに行われていた。もちろん途中痛みで絶命しただろうが、それでもまだ命あるうちに、そのカニバリズムショーが行われたことには変わらなかった。人体を貪り、臓物を引き出し、顔面を原形を留めないほどに潰し、命ある人間を肉の塊に変える一連の作業は、道具を用いられた形跡などは一つなく、全て犯人の爪や牙で行われたと司法解剖の結果、判明していた。


 新聞には科学捜査の結果を元にして描かれた犯人の全体像が転載されていたが、それはもはや人間の姿ではなく、化物かミュータントの域に達していた。


 詳しくは書かれていないが体の器官や、臓器の一部が持ち帰られているらしく、唾液や精液が付着していることから、性的で快楽的なことが行われているのは間違いなかった。


 記事の隣には女性の生前の写真が写っており、快活な笑顔が印象的の女性だった。


 次の事件は年の明けた一月二日。


 初めの事件と全くケースで起こっており、二十歳の女性が襲われていた。死体は同じように荒れ散らかされ、第一発見者の女性はその場で嘔吐し、現在精神病院に通っていると言う補足までついていた。


 次の事件もその翌日に起きていた。


 やはり被害者は若い女性で、今回は未成年、夜一人で歩いているところを襲われた。


 死体の状況は第一、第二の事件と同じ。


 事件は概ねこの学校の半径五キロ圏内で起きており、警察による厳戒態勢が布かれているようだったが、捜査は既に行き詰っていた。


 事件の共通性としては夜道、女性、死体の荒らされ方、目撃者ゼロと言うことで一致していた。


 そして例外がここに二人いる訳だ。


 初めの事件を元旦に起きたものだとするのなら、三日連続で事件が起きたことになる。

  

 そして四日目の昨日は僕達。

 

 彼女だけかもしれないし、もしかしたら二人ともかもしれない。

 しかし連続殺人犯は突如現れた正義の味方によって僕達を逃がしてしまった。


 やはり、彼女が言うように、目撃者をこのまま残しておくなんてことはないのだろうか?

 また僕達は狙われるのだろうか?

 彼女が。


 狼男は言った。


「あれは私の類であると考えている」と言うことは、下等にしても、もどきにしても、狼男と似たようなものを、これから僕達は退治に出ようと言うわけだ。


 僕はもう一度新聞に乗っている犯人の全体像を眺めた。

 ハンニバル・レクターがミュータントに進化したようなものだ。

 それが冗談じゃないから恐ろしかった。


 僕達は銀の銃弾を持ったエクソシストでも、選ばれた戦士でも、モンスターハンターでも、トラブルバスターでも何でもない。

 

 少し体が丈夫な高校生だ。

 そんなものと対峙して無事でいられる要素は一つもなかった。

 小さな記事に興味深いことが書いてあった。


 犯行時刻と重なる頃に猫の鳴き声を聞いている人が多く、猫すら怯えて逃げ出したと。


 猫。


 この偶然の一致は果たして偶然なのだろうか? 

 それとも何かしらの因果関係があるのだろうか? 


 僕にはその真意は諮りかねた。

 湧きあがりつづける疑問が頭の中でくるくると巡っていた。

 けして答えが出ることなく。


 彼女は一つ一つの出来事を吟味し、詳細、仔細に未詳を検討するように、新聞の記事全てに余すことなく目を通し、時折何かを呟いたり、頭を振ったりしていた。


 そしてホワイトボードに事件や事件の関連性を書き出し始めた。


 それはさながら、化け物的で天文学的な数学の問題、フェルマーの最終定理に取り組む数学者のように、神がかった雰囲気を発揮していた。常人には考えられない計算が彼女の頭の中では繰り広げられ、映画『レインマン』でダスティン・ホフマンが熱演した自閉症の患者のように、彼女のIQ二百五十の頭脳が一つの回答を求めて高速回転を続けていた。


 僕は黙って彼女の計算が解を導くのを待っていた。


「行くわよ」


 突如、彼女は立ち上がった。


「どこへ?」


 まさか、もう犯人の居場所が分かったと言うのだろうか?

 どんな名探偵もびっくりの最速名推理だぞ。

 

 僕の頭の中ではシャーロック・ホームズと明智小五郎が涙を拭っている光景が見えた。

 事実は小説よりも奇なり。

 奇をてらい過ぎた。


「猫の所よ」


「猫?」


「物語さんに猫の死骸のある場所を尋ねてきたんでしょう? だったらさっさと案内しなさい」


 いまいち、猫と連続殺人犯のつながりが見えないが、僕は立ち上がって了解した。いちいち説明を求めたところで僕に理解できる話ではないし、この女がちくいち丁寧な説明をしてくれることはないだろう。


 図書館を出る時、インフォメーションで本を読んでいる物語繭に別れの挨拶をしておいた。


「もう用事は終り?」


 相変わらず、巡樞は目も合わさずに先へ進んでしまった。


「まぁ、大体はね。色々ありがとな」


「私は何もしてないよ、それに図書委員は利用者に心地よく図書館を使って貰うことこそが、最大で絶対の存在理由なんだから。私は図書館と本のためだったら軍隊とだって戦うよ」


「大丈夫だ。この国は図書館の権利を最大限に保障している。メディア良化法なるものは施行されない」


「おっ、今日は冴えてますね、伝家の宝刀」


 彼女は嬉しそうに声を上げた。


 さすが本をこよなく愛する女。

 本の虫、もとい本の蛹。

 図書館というものは、彼女にとって聖域なのだろう。

 絶対不可侵の場所。

 僕は先ほど新聞を切り抜こうした巡樞を全力で止めたことを、心から賞賛した。


「まぁ、ありがとう」


「うん、どういたしまして」


 僕が図書館を後にしようとすると、案の定、もはや待っていました、と言いたくなるように、「ああ、そういえば」と彼女は思い出したみたいに口を開いた。


 僕は咄嗟に身構える。

 条件反射だ。


「晦日君、北欧に伝わる古い民間伝承で“闇色の騎士”って知ってる?」


 僕は首を横に振った。

 そして唾を飲み込んだ。


「化け物を退治していく騎士の話なんだけど、もし興味があったら重要文化図書の館にあるから、いつでも言ってね」


「何でも揃っているんだな、その重要文化図書の館は?」


「大体はね。でも本当に語るべき物語は、まだないの」


 本当に語るべき物語?

 彼女は僕の疑問を置き去りにして先を進めた。


「闇色の騎士。中世の時代にフランスの領地で語られ始めた物語なんだけど、出自は今のところ不明、作者未詳。その物語の中で、騎士は様々な怪物たちと戦い、次々と現れるその化け物を次から次に退治していく。血が流れ、肉が削げ落ち、腕がもげようとも、化け物を退治するために、来る日も、来る日も、騎士は戦い続けるの。最後に化け物の中の化け物、まぁロールプレイングゲームで言うところのラスボスね。それが現れ、それと戦い、そして壮絶な戦いの末、その戦いに勝利する。騎士は安堵の溜息をつき、長い戦いが終わったことを確信する。でも化け物の王が流した血に映った自分の姿を見て、騎士は絶句してしまう。鎧を脱いだ自分の姿が化け物になっていたから。まぁ、そこまでならよくある話、化け物退治をしていたら自分が化け物になってしまっていた。ミイラ取りがミイラになるって奴ね」


 ミイラ?

 木乃伊?


 僕はあの医療機関の地下でであった異様な少年、畳間木乃伊を思い出した。


「それについては、かの有名なニーチェ先生もこう語っています。“怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない”ってね。でもね、この話の面白いところはそこじゃないの。化け物の王は退治されて地獄に落ちる最中、かすれた声で囁くの。何を驚くことがある、お前は生れ落ちたときからすでに化け物だってではないか、そしてお前がいたからこそ、我々はお前の前に現れたのだ。ピリオド」


 彼女は物語に終止符を打った。

 体中の毛が逆立ち、背中には嫌な汗をかいている。

 深い闇を覗いた気がした。


「どう、面白い話でしょう?」


「何で、その話を僕に?」


「何となく、晦日君に聞いて欲しかったからかな。それともう一つ、これはサービス」


「サービス?」


「うん、特別出血大サービスだよ」


 彼女はどこと無く不安そうな笑顔を浮かべて話を続けた。


「東北地方でひっそりと語られる御伽噺。昔、昔、自分の体を何百にも何千にも分けることの出来る、妖怪の家族がいました。妖怪のお父さんは、まだ幼い好奇心旺盛な息子に、“あまり体を分けてはいけないよ、元に戻れなくなってしまうかも知れないからね”と、何度も深く注意をしていました。それにも関わらず、妖怪の子供は自分の体をたくさんに分けて、日本中を巡らせてたくさんの知恵をつけました。体が一つに戻るとその知識も一つに纏ったから、知識を蓄えるのに体を分けることは本当に便利でした。彼はそうやって自分の知らない日本中の知識を集めようとしました。しかし、そうやって自分を沢山に分けているうちに、妖怪の子供の体はどんどんと小さくなり、最後には風に吹かれて消えてしまいそうなぐらい小さくなってしまいました。石ころよりも、砂粒よりも小さく、小さくなってしまいました。結局、自分の体を沢山に分けすぎた妖怪の子供は、二度と自分の体を一つにすることが出来ずに、やがて消えてしまいましたとさ。とっぴんぱらりのぷう」

 

 彼女は藍色の瞳を震わせながら、その物語を閉じた。

 彼女は再び本を抱えて、本と本棚によって構築された絶対不可侵の聖域の中に入っていった。


 僕は震える足でその場を立ち去った。


 巡樞は昨日と同じく二対の像の前で僕を待っていた。

 今起きた物語繭との話を説明すると、とくに興味もなさそうに「あっそう」と歩き出した。


「物語さんが普通じゃないって言っていたけど、あれって僕達と同じ意味で言っていたのか?」


 先に進む彼女に説明を求める。


「そうかもしれないわね」


「じゃあ彼女も不死身の体なのか?」


「そういう意味じゃないわよ。一般的な人間と比べて普通じゃないってこと」


「そんなこと、分かるのかよ?」


「何となくね。それにしても――――怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。言い得て妙ね」

 

 何が言い得て妙なのか、僕には全く分からなかった。


「それに彼女の物語は、なかなか現代的でもあるわね。おもしろいわ。体を分ける妖怪の物語は、恐らく量子化誤差の寓話か何かじゃないかしら?」


「量子化誤差?」


「ええ、つまり信号をアナログからデジタルに移行する際に生じる誤差のことよ。テレビ番組がアナログからデジタルに移行したでしょ? デジタルだと、どうしてもデータ圧縮のコーデックに時間がかかるのよ。情報の劣化も大きく、それに復元もできない。そのため、チャンネル変更などの応答が悪くなり、緊急地震速報、時報、生中継などのリアルタイム性が低下するの、今のデジタル放送も何秒か遅れて放送されているでしょ。そんなことを風刺しているんじゃないかしら?」

 

 よく分からないけど、ともかくデジタルだと誤差が生じて復元が出来ないということは、まぁ、分かった。

 

 しかし物語繭がそんなことを風刺して、僕にわざわざ聞かせたりするだろうか?

 そこには別の何か、重大な意味が含まれているのではないか?

 そんなことを考えた。


「まぁ、分かったよ。それとあの医療機関の中で会った、あの畳間木乃伊って生徒も普通じゃないのか?」


 彼女が珍しく自分から名乗っているのを僕は思い出した。


「間違いなく、普通じゃないわね」


「僕達を助けてくれたあの用務員さんは?」


 威武将門。 

 狼男。


 おそらく僕が出会った中では一番まともではないだろう。

 もちろん、彼女を除いてだが。


「あの人は、気持ち悪いから嫌いよ。生理的にね」


 独断と偏見が、かなりの割合を占めているらしかった。


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