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「初めての経験はどうだったかしら。甘く、ほろ苦く、ちょっぴり痛かったかしら?」


 軽蔑の視線を浮かべながら楽しげに質問を繰り返す巡樞に――――僕は先ほどのシリアルキラーに臓物をぶちかまれて死んだほうが、幾分かマシではなかったかと、真剣に、そして仔細に検討していた。


 あの後、狼男であり、世を忍ぶ仮の姿、用務員兼警備員としてライカンスロープの現象と向き合っている威武将門と一定の協議、友好条約のようなものを結んで僕達は解散した。


 条約の内容は、それぞれから一つだけ。


 彼からは――――今後、迫り来るであろう現象について、隠すことなく話して欲しいと言うことだった。彼は十中八九、今後も僕の目の前には今日一日のような、そして彼女と出会ったような現象が起こるであろうと断言した。



“現象は現象を呼び起こし、新たな現象となる”。



 彼は確信的に断言した。



“因果律”。



 そして自然の節理が、神の真理がそこにはあると言う。


 僕はそのことを了承して、今日起きたおよそ全てのことを語った。

 然し、彼女の体が不死身の類であることだけは黙っていた。


 それは僕が出した条約の中身にも関係している。


 僕が出した条件の中身は――――彼女、巡樞を一切、ロゴスや現象といったことに関わらせないこと。


 もちろん彼女からしたら不本意であることは間違いないが、僕としてはやっぱり女の子を、それも彼女のように特殊というか、人と上手く接することができない女の子を、もしかしたら僕が考えている以上の深い孤独や、心の傷を抱えているかもしれない女の子を、そんな得体の知れない奇妙奇天烈なことに巻き込みたくはなかった。


 彼女を守るなんて大層なことを言いたい訳じゃないが、僕は漫画やアニメのヒロインのような戦う女性と言うものに、あまり関心を抱いてはいない。と言っても僕は、女性は清く、正しく、慎ましく、なんて言う保守的な人間でもない。


 まぁ、中途半端な男だ。


 そして僕達の条約は無事に締結された。


 威武将門が僕と彼女を駅まで送ってくれ、その電車の中で彼女と出会った大晦日のように――と言っても今回は、彼女は姿勢を正しくして瞳を閉じたりせずに、僕に辛辣プラス悪辣かける嗜虐心わる哀れみで、何一つマイナスすること無く構成された言葉の刃をぶつけていた――車内で揺られながら、電車は進み、闇に飲み込まれていた。


 時刻は既に深夜近く、終電間際だった。


「一つ聞いてもいいかな?」


「何かしら? 私が答えたいことなら答えてもいいわよ」


 その条件ではほとんど僕の望むような答えは帰ってこない気はするが。


「巡さんが不死身の体になったのって、いつから? 何か原因があったりするのかな?」


 沈黙。


 それは彼女が答えたいと言うよりも、やはり聞いてはいけない、踏み込んではいけない領域への質問だった。


 僕は尋ねる前からそのことを確信していた。


 僕の問いに彼女からは答えが返ってくるともなく、言葉の刃が飛んでくることさえなかった。彼女は何も言わずに目を閉じて、電池が切れて止まってしまったみたいに動かなくなった。それは硬く扉を閉ざしてしまったみたいに。


 傷つけたのだろうか?

 それとも嫌われただろうか?


 嫌われるのはまだいいとして、傷つけたなら最低だ。


「あの、余計なこと聞いて、ごめん」


 僕は狼狽して言った。僕の謝罪にも彼女は一言も反応せずに、目を閉じ無言で停止したままだった。

彼女の降りる駅のアナウンスが鳴った。彼女はゆっくりと立ち上がり、自動ドアの前まで進み、振り返った。


「晦日君、送って行ってもらえるかしら?」


 彼女は表情と言うものを一切浮かべずに、平坦なままそう尋ねた。


「あ、ああ。うん。構わないよ」


 僕は驚きながらも即答で答えた。


 その時、僕を見つめていた彼女は本当に美しかった。

 そして今にも壊れてしまいそうなほどに、脆く、か弱く、危なげで、儚く見えた。今にも消えてしまいそうな彼女の美しさには、何か感じさせるものがあった。


 息を呑むくらい。

 寒気がするぐらい。

 この世のものとは思えぬくらい。

 恐ろしく、美しかった。


 次の言葉さえなければ。


「言っておきますけど――――私は誘っているわけじゃないのよ」


 そんなことは言われるまでもなく分かっていた。


 電車を降りて見慣れない土地を彼女の案内するままに歩く。学校の帰り道だし、自転車で通ったりすることもあったはずなのに、ここは全く知らない土地に見えた。


 実際、彼女の最寄り駅と僕の最寄り駅は駅二つ分しか違わない。僕の家から学校まで自転車で四十分くらいだから、ここからだと僕の家まで二十分もかからないだろう。


 見覚えがあってもいいはずなのだけれど、もはやここは知らない街であり、他所者を嫌い、追い出そうとする排他的な空気さえ感じられた。


 もちろん僕の被害妄想に他ならないが。


 二人で帰路を辿っている間、彼女は一切口を開かなかった。街も、草木も、動物も、夜の闇も、空気も、何もかもが語ることをやめていた。薄く、満ちていこうとする月が、嘲笑うように夜空に浮かんでいた。


 僕も口を開かなかった。


「ここよ」


 十分ほど歩いて彼女が立ち止まって見上げた建物は、尋常じゃないほどの超高級マンションだった。


 アシンメトリーの美しい門構え、分厚く仰々しい外壁、イタリアガーデンの庭園様式、綺麗に整えられた並木やプラタナス、全てにおいて手抜きのない、細部の仕上げに至るまで完璧な完成度を誇った高層マンション――――否、建築物だった。


 僕はあんぐりと口を空けた。


「凄いと所に住んでいるんだな。じゃあ、僕はこれで失礼するよ」


 役目を終えた僕は踵を返して立ち去ろうとした。


 先ほどから彼女の機嫌はあまりよくなかったし、電車の中での失言を未だに引きずっていたから、ここは早く立ち去ったほうがいいと自動的に判断した。


「待ちなさいよ」


 彼女は有無を言わさぬ口調で僕を制止させた。


「今からどうやって帰るのよ?」


「いや、そんなに僕の家遠くないから、歩いて帰るよ」


「折角ここまで来たんだから、寄って行きなさい。それに晦日君だって、私の部屋に上がれることを期待していたんでしょう?」


「そんなこと微塵も思っていない。これっぽっちも、一ミリたりとも、露ほどにも、僕は考えていない」


「少しは思いなさいよ、それは逆に失礼というものよ。いいから寄っていきなさい。お茶かコーヒー――――それとアメと鞭くらいは出してあげるから」


「鞭以外に出された覚えが無いぞ」


「生憎アメは切らしているのよ」


「あんたは人生で一度もアメを与えたことなんてないだろ」


「でも、私の鞭好きでしょ?」


「好きなわけあるか」


「Mなのに?」


「断固否定する。僕はSにもMに分類されないノーマル――――Nだ」


「N? つまり“なんでもござれ”という訳ね」


「脳内補正で勝手な解釈を生み出すな」


 久しぶりにテンポの言い会話が交わされ、僕が大声を出して突っ込むと、彼女はやはりくしゃみをしたみたいに、表情を崩してくすりと笑った。


 そのほんの僅かな時間の瞬間的な笑顔はなんていうか、一瞬だけ咲く花のような、本当に微笑ましい笑顔だった。見る人を幸せにしてしまう、何かを感じずにはいられない、そんな素敵な笑顔だ。


「晦日君のそういうのって、本当にうんざりさせられるわね。特に今日みたいなことがあった後だと、尚更下らなく感じるわ。でも、これが生きているっていう実感なのかしらね」


 彼女は感慨深げに言ってしまうと、マンションの中に入って行ってしまった。


 エントランスは広く、明るく、豪勢で、僕の目にはパーティ会場のようにさえ映った。しかも受付には二十四時間在中の受付係まで備え付けられていた。


 受付係の男は彼女が入って来ると、「お帰りなさいませ」と丁寧に挨拶をした。彼女はもちろんそんな挨拶を完全にシカトして、目も合わさずに先に進む。受付係の男は彼女の後に続く僕を、何か汚いものでもみるみたいに、露骨に警戒と嫌悪の表情を浮かべて見つめていた。


 少なからず傷ついた。


 確かにぼろぼろの格好をしているが、それに彼女に比べて気品や、身なりの良さや、育ちの良さ、素養の良さはなかったが、それでももう少し人間らしい扱いをしてくれても、もう少し暖かい目で見てくれてもいいのではないだろうか?


 僕だって同じ地面を踏んで、同じ空気を吸っている人間だ。


 僕の悲しみは高級感溢れるマンションの空気に溶けることなく、どこか遠くのほうにつまみ出された。

キーを指し込み、暗証番号を入力すると分厚い自動ドアが開いた。ホテルのラウンジのような落ち着いた空間が広がった。ラウンジの床には大理石が敷かれ、大きなマホガニー調の机と赤い革張りのソファーを、絞られた間接照明が照らし、観葉植物が色を添えている。ラウンジを抜けてエレベーターに乗った。エレベーターの中は僕の部屋よりも広く、そのことが余計に僕を情けない気持ちにさせた。


「あの、両親とか大丈夫なの?」


 僕は悲しみを紛らわすように話しかけた。


「こんな時間に男を連れて帰ってきて。いや、僕がそういう相手だ何て両親も思わないと思うけど、僕はこんなぼろぼろの格好だし」


「五月蝿いわね、ちょっと静にしてくれないかしら」


 彼女に不機嫌そうに叩きつけられた。

 蝿かゴキブリのように。

 やはり彼女の機嫌はあまり良くないようだった。


 僕は押し黙った。


 十三階でエレベーターは止まり、長い廊下を歩く。

 十三号室の扉にカードキーを差し込んで室内に入った。

 室内は夜よりも暗い闇で覆われていて、そしてがらんどうだった。

 どうやら両親などはいないようだった。

 一人暮らしだろうか?


 以前彼女が言っていた、「家に帰っても誰もいない」と言うのは本当だった。

 

 明かりにもつけず、靴も脱がずに闇の奥へと進んでいく。

 僕も下駄を脱がず足元を確かめながら、闇に絡め取られていく彼女の背を追う。

 一枚扉を開け、空けっ広の空間に出た。

 そこもやはりがらんどうだった。


 寂しさが充満し、孤独が沈殿している気がした。

 リビングだろうか?


 その部屋に何があって、どれくらいの広さで、どんな色や形をしているのかは分からない。硬い打ちっぱなしの床を踏む甲高い足音だけが、闇の中で大きく木霊した。カーテンを引く音がした後、月が棚引かせる青白い光が一条、部屋に差し込む。


 およそ何もない部屋だった。


 三十畳ほどのワンルームが、灰色の不毛の大地のように広がっていた。


 僕の直ぐ右手のキッチンは広くダイニングだった。冷蔵庫、レンジ、オーブンなどが一応備え付けられていて、全てが黒一色で揃っていたが、台所周りが使用された形跡はほとんどなかった。部屋には洋服ダンスとベッドが一つ、無人島に打ち上げられた漂流物のようにぽつんと置かれていた。


 それだけだった。


 四方をコンクリートで打たれた馬鹿っ広い真っ暗な部屋に、ベッドと洋服ダンスが一つずつ。


 他には何一つない。


 無機質で、無味無臭で、無為自閉な空間が広がっていた。


 それだけ。


「そんなところに突っ立っていないで、寛いでいいのよ」


 こんな空間でどうやって寛げというのか?


 とりあえずコンクリートの床に腰を下ろした。

 ひんやりとした感覚と物悲しさが尻に伝わった。


「さっきはコーヒーぐらい出すなんて見栄を張ったりしたものだけど、実はコーヒーもお茶も牛乳も、何もないのよ。何にも」

 

 何もない。

 何にも。


 その言葉に特別な意味が込められているように感じた。


「別に、いいよ」


 僕は何となくばつが悪くて、そっけなく言った。


「ちょっと待っていてね」


 キッチンへ向かう彼女の背を眺めながら、部屋をもう一度見回した。

 本当に何もない部屋だった。

 生活観のかけらすらなく、女性らしさのかけらもない。


 ベッドカバーは無個性な白色、掛け布団も枕も白。カーテンは厚地の黒。

 灰色の室内にはゴミの一つも、塵の一つもなかった。

 重く暗い息苦しさに押しつぶされ、空気さえも居心地を悪くしていた。

 なんだか、良く知っているアニメで某キャラクターが暮らしていそうな部屋だな。

 そんなことをふと思いついた。

 これで壊れたメガネと包帯があれば完璧なのに。


「言っておきますけど」


 戻ってきた彼女は鉄のマグカップに水を注いで戻ってきた。

 僕はその水を受け取った。


「壊れたメガネや包帯はないわよ。ご期待に添えなくて申し訳ないけれど」


「読心の心得があるのか?」


「当たり前よ。晦日君があわよくばシャワーを浴び終わった後、裸の私を押し倒してやろうなんて下種な考え、とっくにお見通しよ」


「そんなものを期待してはないし、考えてすらない。てか、あんた絶対アニメとか漫画好きだろう?」


「まさか、私がそんな俗なもの。もう一つ言っておきますけど、晦日君は死なないわ、私が――――」


 まさか?


「守らないわよ。無様に死になさい」


「そこは守るだろ? それに前後の発言が矛盾してるぞ」


 僕はもう彼女に守られていた。

 二度も。


 今ではそんな気がしていただけだ。

 それだけ。


「さっきね」


 彼女は仕切りなおすように正確に声を発してベッドに腰を下ろした。


 赤い瞳がどこを見ているわけでもなく、虚空の空間をさ迷った。それは本当に行き場をなくして迷っているみたいだった。


「電車の中で晦日君が尋ねたでしょう?」


「その話ならいいよ。ごめん。立ち入るつもりじゃなかったんだ」


「違うのよ、話したくないわけじゃないのよ」


 彼女はゆっくりと言葉を続けた。


「少し整理していたの。初めて言葉にするから、初めて誰かに聞いてもらうから――――どうやって言葉にしたらいいのか分からなくて、どうして今みたいな生活になってしまったのか分からなくて、ずっと考えていたのよ。ずっと」


 彼女は一旦言葉を閉じた。


 僕はこの部屋を訪れるまでの無言の時間を思い出した。

 僕は無言で続きを待った。


 彼女は僕のその態度を良しとしたのか、一回小さく頷いた。


「それはもう幸せな日々だったわ。絵に描いたようにね。お父さんがいて、お母さんがいて、妹がいた。私の家庭は、生まれつき裕福で資産家の家だったの。お父さんは背が高くて格好良くて、お母さんは綺麗で優しかった。私は幼い頃から綺麗で、可愛くて、頭がよくて、要領が良くて、器量も良くて、天が二物も三物も与えてしまったような、文句のない娘だった。もちろん、それは今でもだけれど」


 僕は突っ込みたい気持ちを押さえ込んで話の続きを待った。

 またしても彼女は僕のその行動を良しとしたのか、満足げに頷いた。


「妹もとても可愛くて、頭も良くて、無邪気で、天真爛漫さがあった」


 ようするにもう一人の巡樞がいる訳だ。


「でもね、ある日、私が小学六年生の時に、私達の家族は一家で心中したの」


 心中? 

 幸せな家庭なのに?


 そこから彼女が語り出した過去の物語は、小学生が体験していいようなことでもなければ、高校生が口にしてもいいようなことでもなかった。


 そこにどれほどの悲しみや、恐怖や、絶望が含まれていたかは、僕には分からない。


 図りようもない。


 僕ごときに分かる話ではない。

 彼女の家庭は、彼女が小学六年生の時に一家心中を図った。

 それは成功した。


 彼女を除いて。


 家族が一家心中した理由は今でも謎のままだった。


 それは今だに、どれだけ考えてみても、八方手を尽して調べてみても、僅かな手がかりさえなく、一家が心中したという以外の事実は見つからなかった。


 裕福な家庭。

 愛し合う夫婦。

 愛情を注がれた子供たち。

 世間体も良く、悪い噂もない。

 絵に描いたような幸せな家族。

 一家が心中するような理由なんてどこにもなかった。

 

 小学六年生の巡樞が小学校生活最後の通信簿をもらい、全て“たいへん良い”の通信簿を片手に妹と一緒に急いで家に帰ると、その惨劇は突如始まった。


 何の前触れもなく。

 嵐のように。


 通信簿を見せる間もなく、四人家族の一家は一つの部屋に集まり、父が隠し持っていた包丁で姉妹を殺害し始めたのだという。


 別れの言葉も無く。

 まず妹を刺し殺した。

 次に姉の巡樞を刺し殺した。

 いや、殺したと思い込んだ。


 その後で、痛みと、恐怖と、悲しみに塗れて消えていく意識の中で、泣き叫びながらお互いを刺し殺す両親の姿を、彼女は瞼に焼き付けた。


 目が覚めると部屋中に血の海が広がり、そして引いていき、渇いた黒い血に塗れた家族が、変わり果てた冷たい死体となっていた。


 不思議なことにあれだけ包丁で刺された自分の体には、傷跡一つなかった。


「一緒に死のうと思ったわ。何度も試したの。でも、私は死ぬことができなかった。その時に、私が死ねないことに気がついた。私は置いてけぼりを食らってしまったのよ。除け者にされてしまったのね」


 その後二週間に渡って、巡樞はその死体のある部屋で暮らし、できる限りいつも通りの生活をした。家族の目が覚めた時に、いつも通りのお利口な姿を見せれば褒めてもらえると思ったと――――彼女はなんでもないことのように言った。


「今考えれば健気よね。毎朝ちゃんと起きて、歯を磨いて、家族全員分の食事を作って、お勉強をやって、お部屋のお掃除をして、妹をお風呂に入れてあげて、家族の身なりを整えて、寝る間にお休みのキスをして。本当にグロテスクよ。気が狂うわけだわ」

 

 彼女は自分の思慮の浅さを吐き捨てるように言った。


 コンクリートの床に落ちた彼女の言葉が、僕の胸の中で反響した。


“私死体としか喋れないのよ”。

“つーかーよ”。


 そう言うことかよ。

 ちくしょう。


「それからのことは、お世辞にも愉快、痛快、奇想天外とは言えなかったわね。物語としてもB級ね。世間の好きそうな、浮気もできない主婦が見る昼ドラみたいに陳腐な話よ」


 彼女は感情の篭らない、そこに書いてあることを読み上げるような口調で、物語の続きを話した。


 二週間もの間、一切の連絡の取れない状況に何か危険なことを感じ取ったのか、仕事関系の人間か、ご近所の誰かが警察に通報したのだろう。彼女の家に警察官が家宅捜査に入った。彼女は神経衰弱した状態で無事に保護されたが、発見された状況から、醜聞、ゴシップ、黒い噂が絶えず、新聞記者や、カメラマンなどが雪崩のように押しかけ、根も葉もない噂を、一人の少女を対人恐怖症にしてしまうだけのトラウマを、少女の心をばらばらに引き裂いてしまうだけの傷を、一生消えることのない苦しみを与えた。


 彼女は保護された後、直ぐに警察署から保護施設に移され、そこで長い長い事情聴取が始まった。彼女は一言も喋らなかった。喋れなかったし、何も考えられなかった。食べ物も喉を通らず、口に入れては直ぐに吐き出した。そのうちに点滴だけの生活になり、何の証言も得られないことから、彼女は更に別の施設へと預けられた。


 その施設の中では彼女が体中を弄繰り回され、脳みその中まで覗き込まれてばらばらにされた。毎日が検査とカウンセリングの連続だったと、同じことを聞かれ、同じことをさせられ、同じ時間に同じ薬を飲まされた。

 

 来る日も来る日も。

 終わりすらなく。


 彼女は自分の体に起きた変化には頑なに口を噤み、直ぐにある決意をした。


 ここを出て一人で生きようと。


「私はね、絶対に死んでやるもんかって思ったの。置いてけぼりをくらって、私を除け者にするなら、それも構わない。いいでしょう、私はこの理不尽な扱いを、不条理を受け入れましょうって。私は、私を一人にした家族の分まで生きてやるって、私は死を否定してやるって、とにかく好き勝手、自由気ままに生きてやるって、自分に言い聞かせたのよ。今思えば、自分を奮い立たせるための誓いみたいなものね」


 それからはこの気が触れそうなおぞましい空間を出ることに、全精力を傾けたと彼女は語った。

 

 鍵のかけられた独房のような部屋の中で寝る時間も惜しみ、生きて行くためにどうしたらいいのか、この施設から出て自由になるにはどうしたらいいのか、唯只管にそれだけを考えたと。手に入るあらゆる本を読破し、独学で学び、夜も昼も関係なく知識を詰め込むことだけに専念した。


 そこにどれほどの血の滲むような努力があったのかは分からない。


 それでも、強引に自分のIQを二百五十まで伸ばしてしまうようなことだ。もともとの素養があったのだとしても、それは尋常じゃない毎日だったと思う。


 十四歳になる頃には六法全書を全て丸暗記し、家族の遺産を使って雇った弁護士と協議に合議、謀議を重ね、粘り強く法的な問題、金銭的な交渉を続け、ようやく施設を出ることに成功した。しかしやっとのことで自由の身になれたと思うと、そこには更なる苦境が、考えもしなかった不快な現実が待ちうけていた。


 突如、親権を主張する顔も知らない親戚が現れ、その男は彼女に自分の娘として暮らすように迫った。父の異母兄弟に当たる叔父だった。


「あえて言うわ、金が目当てのただのカスかクズよ。それ以下ね。バクテリアだって地球に対して役に立っているのに、あのカスときたら寄生虫よりも質が悪いわ」


 何てことはないと平坦なまま、抑揚も無く語った彼女だが、その体は震えていた。バラバラになってしまう自分を留めるように、自分を抱きかかえるように腕を組んでいた。


 僕は話を聞きながら、ずっと拳に力を入れ、歯を食いしばっていた。


 叔父は傾いた自分の会社を立て直すために、どうしても彼女の親の遺産が必要だった。彼女のことなどどうでもよく、親権と彼女の親の遺産さえ手に入ればそれでよかった。


 彼女を受け入れた環境は輪をかけて酷かった。


 施設以上と言ってもいいぐらいに。

 彼女はまたしても対策を講じねばならなかった。


 その家では半年ほど暮らしたというが、悪質で精神を侵害するような義兄弟達の偏見やいじめは毎日のように続き、言われのない迫害が繰り返され、彼女は夜もまともに眠ることが出来ずに、その半年間のほとんどを自分の部屋の中で過した。部屋に閉じこもり、来る日も来る日も、この状況を打開するための方法を模索し続けた。


 結局、雇った弁護士と親権を譲り受けた叔父との間で、長い協議の末に示談が成立し、彼女はようやく自由の身になった。しかし、そのために彼女は相続した遺産のほぼ全てを手放す結果となった。それに彼女が彼女であるために、そして自由になるために支払った代償は大きすぎた。彼女はその時に自我を失い、自分を見失い、アイデンティティを喪失した。


 それらは決して金で買い戻せるようなものではなく、時間が解決してくれる類のものでもなかった。

 それは結局のところ二度と戻ってはこない、大切すぎるものばかりだった。


「資産のほとんどを失ったといっても、それでも女の子がこれから先、一人で生きていけるだけの財産は残ったわ。それに私が本当に必要としていたものは、守りたかったものは、金銭の類じゃなかったのよ。もっと、なんて言うのかしら、形の無いもの、弱くて、脆くて、暖かくて、重たい」

 

 彼女は上手い言葉は出てこないことに苛立ったように眉間に皺を寄せた。


「そうね、何だか上手く言い表せないけれど、卵? みたいなものかしらね。でも、結局最後には踏みにじられて、砕けてしまったわ。あっけなく」


 彼女は澄ました顔で平気そうに語ったが、僕には全く平気なことじゃなかったし、彼女だったそれは同じはずだった。


 僕の顔は涙で濡れていた。

 自分が惨めで情けなく感じた。

 無性に悔しくて腹が立った。


 十五歳でようやく全てのことから解放された彼女は、弁護士が特別なコネクションを使い、破格の条件で紹介してくれた高等学校に入学することになった。


 教育機関といってもやはり営利団体、それなりの金額さえ積めばある程度の融通は利かせてくれる。それにこの学校は少し変わった人間が理事を務めていて、校風も他の学校とは違い、大分自由が利く、そのことを理由に、家の中に閉じ籠もり、塞ぎ込んでばかりいてはいけないと、弁護士は彼女に高校に通うことを進めたと言う。


 ほとんど籍を置いているだけで卒業を保障されているというのは、つまりそういうことだった。


 そして彼女は神現学園に通うことになった。

 そこで彼女は過去を、物語を、言葉を閉じた。


「上手く話せたかしら?」


 そんなふうに尋ねられたけど、僕は何も言葉にすることができないでいた。


「私自身、思い返しながらだったから、所々穴があったり、辻褄が合わなかったりするかもしれないわね。でも、これが晦日君の質問に対する答えよ。どうかしら?」


 彼女は何事もないと言うように尋ねた。

 

 僕は彼女に対して語るべき言葉が何もないことに深く傷ついた。

 本当に自分が情けなかった。

 何も言ってあげる言葉がない。

 

 悔しかった。


「優しいのね、晦日君は。そして私のために泣いてくれるのね。でも、涙なんて流さないで」


 彼女の言葉は恐ろしいほど淡々としていた。

 崩れた視界ではもう彼女の表情すら確認することはできなかった。


「私はね、もう涙も出ないの。何もかもが枯れ果ててしまったのよ。空っぽなの」


 彼女は立ち上がり僕の隣に座った。

 二人で体を縮めて寄り添った。

 体が密着し、肩と肩が触れ合う。


 そのまま僕の肩に頭を乗せ、震える体ごと僕に凭れかかった。


「晦日君、私ね、人間が怖いのよ。どうしようもなく」


 呟いた。


「晦日君、人間ってどうしてこんなにも暖かいのかしらね。もう暫くこうしていていいかしら?」


 僕は頷いた。


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