陸
目を覚ますと、見知らぬ天井がそこにはあった。
白熱灯の光に照らされ、畳の上に敷かれた敷布団の上に横たわっている自分の体を、ぼんやりとした視界の中に収め、確認することができた。
どうやら部屋の中らしい。
三途の川は渡り損ねたようだ。
部屋の中央には灯油ストーブが置いてあり、僕に向けて暖かい風を送っていた。
「ようやく目が覚めたわね」
巡樞は腕を組んだ堂々たる立ち姿を披露して、僕の足元に現れた。
「晦日君が情けなく気を失って――――それは、それは、大変だったのよ。あの気持ちの悪い用務員にあなたを担いでもらって、この用務員の宿舎まで運んでもらい、晦日君の体を見られないように、用務員を追い出してあなたを介抱するのは」
彼女は額に手を当てて、大きく疲れたことをアピールした。
僕が表情を引きつらせたのは言うまでもない。
やれやれ、彼女を助けようと楯になってぼろぼろになったのに、その言葉は些か酷すぎるのではないだろうか?
別に恩を売りたくてやったわけではないし、恩を感じて欲しいわけでもないが、礼の一つぐらいあってもいいだろう、それこそ礼儀だ。
「随分不満そうな顔をしているのね、もしかしてお礼の一つでも言えよって思っているのかしら?」
見抜かれていた。
「言っておきますけどね、お礼なら晦日君が眠っている時に、ちゃんとしておきましたからね」
「それってどんなお礼だよ、僕に伝わっていないじゃないか?」
「いつか教えてあげるわよ。おそらく、それを知った晦日君は狂喜乱舞し、悶え苦しんで、死んでしまうでしょうね。その時の晦日君の死に顔が私は楽しみでしょうがないわ」
「一体何をしてくれたんだ、呪いでもかけたのか?」
この女、僕に対する配慮ってものが圧倒的に足りなすぎる。
僕のことを教室の備品ぐらいにしか思っていないんじゃないだろうか?
しかし、そもそも、この女は僕の死ぬところが見たいわけだし、そこを出発点にして僕達の関係も始まっているわけだから、あの時シリアルキラーを前にして僕をかばうなんてことをせずに、僕がシリアルキラーにずたぼろにスプラッタにされた後、悠々自適に僕の死体を眺めればよかったのではないだろうか?
もしかして、彼女にも一応の母性の言うようなものが存在しているのではないか?
「なぁ、何であの時、僕を庇ったりしたんだよ? あそこで僕が死ねば、あんたの目的は叶ったかもしれないだろう?」
「目的? ああ、晦日君の死に顔が見たいってことね」
彼女は下らないというように冷たい視線を向けた。
「だって、あんな鬼畜な殺人鬼に晦日君の死体をぐしゃぐしゃにされたら、あなたが後悔と恥辱に塗れて死んでいく死に顔が見れないじゃない」
そんなこと当然でしょうと、世界の真理を見せ付けるかのごとく語る彼女に、僕はもはや反論する気もうせて、「そうですか」と呟いた。
あの時、彼女が戻ってきて身を訂してまで守ろうとしてくれたことに、少なからず喜びと感動を受けたことを、僕は自分の恥の一つに加えておいた。
彼女に出会ってから僕の恥は膨れ上がるばかりだった。
「どうやら目が覚めたようだな、少年」
用務員宿舎の横開きの扉を開くと、僕と彼女を救ってくれた男性が上下紺色のジャージ姿で現れた。
どうやら、彼はこの学校に住み込みで働いている用務員兼警備員のようだった。そういえば校門の脇に作られた守衛室があったな。
懐中電灯と竹刀を持っていうることから、校内の見回りを終えてきたのだろう。
角刈りの頭にしゃくれた顎。太い眉に、少年ような円らな目、どんぐりのような瞳の中は、星が瞬くようにきらきらと輝きを放っている。山の尾根のような太い鼻。プロレスラーのような頑丈そうな体格。岩のように大きな男だった。
なんとも形容しがたいが、ともかく全身が特徴のような男だった。
年齢は二十代後半にしておこう。
助けてくれた義理を込めて。
用務員の男性が部屋の中に入ってくると、巡樞は入り口を向いた僕の足元から素早い動きで僕の枕元に移動し、おずおずと僕の髪の毛を握った。
こういうところは可愛げがあっていいだが。
「まさにブルーマンデーだな、少年。傷は大丈夫か?」
ブルマンデー?
災難だってことか。
しかし今日は月曜日だったか?
いや、金曜日だ。
適当なことを言う男だった。
それに台詞がいちいち、アクション戦隊もののヒーローのようにハキハシとし、ばっちり決まっていて、こそばゆさを感じずにはいられなかった。
そのうち、「後楽園で僕と握手」とか言い出さなければいいが。
一抹の不安を覚えた。
「はい、助けていただいてありがとうございます。でも今日は金曜日ですよ」
「気にするな、少年。体のことも、曜日のことも、とにかく命があって何よりだ」
確かにその通りだが、その通りでいいのか?
僕は戸惑った。
「それに、お礼なら彼女にするといい。随分献身的に、そして母性本能溢れんばかりに、君の心配と看病をしてくれたぞ。ここに運んできた以外は、私はほとんど何もしていない」
献身的だって?
まさか?
さては、このおずおずとした姿を見ているから言っているんだな。これはただのコミュニケーション障害の域に達している対人恐怖症なだけで、化けの皮を剥げば、化け猫よりも恐ろしい女なのに。
世の中、何か間違っている。
「とにかく、ありがとうございました」
僕はよろよろと起き上がる。
その背中を彼女が支えてくれた。
おや、もしかしたら、用務員の言っていることも大方嘘ではないのかもしれない。
僕のテンションが少し上昇した。
「まぁ、知っていると思うが、この辺りも最近物騒でね、見回りもかねて近所の居酒屋に飲みに行っていたんだが、その帰り道、君達が襲われているのを見つけ、たまたま今まで身に着けてきた武術が役に立った訳だ。彼女は被害届や家族への連絡などはしないでくれと、頑ななまでに言っているんだが、少年もそれでいいのかな?」
彼女が僕の背を強くつねった。
僕のテンションが右肩下がりになったのは言うまでもなかった。
「はい、それで構いません。傷も思ったほどたいしたことではありませんし、大げさにはしたくないんで」
お腹の辺りを摩ってみると、傷はもはや完全に回復していた。
今では痛みもなく、健常で健康、健全な肉体へと戻っていた。
一体この体はどうなっているのだろうか?
まぁ、そのお陰で死なずに済んだ訳だが、いや死に損ねたと言うべきか。
「少年達がそういうなら私は構わないが、今後は何かあったら私が相談に乗ろう。こう見えてもトラブルには滅法強くてね。威武将門だ。以後お見知りおきを」
確かに、頼りたくなるような逞しい名前だ。
僕も名乗り、ついでに彼女も紹介しておいた。どうせ名前も名乗っていないだろうから。最近は名前を名乗ってばかりの気がするな、交友関係の浅い僕としては珍しいことで、大変恥ずかしいところだった。
「ところで、大変言いにくいことなのだが、実はもう三日も風呂に入っておらず、ろくに着替えもしていなくてね。ここで体を拭いて着替えをしたいのだが、お嬢さん、少し席を外してもらえないだろうか?」
とても丁寧な口調で空恐ろしいことを口にした。
「そういうことなら、僕ももう動けるので行きます」
僕は立ち上がろうとした。すると、「少年には少し手伝ってもらいたいことがあるのだよ」と片目ウィンクと凄まじい握力の篭った、草鞋と束子を足したようなごつい手で肩を押さえられた。
僕は悲鳴を上げたくなるのを抑えながら助けを求めようと彼女に視線を送ると、彼女の嗜虐心の炎がメラメラと燃え上がるのを、その紅の双眸の中に見つけた。彼女は悪魔的な笑顔を浮かべながら口を開いた。
「しっかり手伝いなさい、命の恩人なんだから」
そう言うと背を向けて出て行ってしまった。
瞬間的に、僕は身の危険を感じることになった。
もしかしてこのごついおっさんは、そっち系か?
いや、そっち系って何だ?
おい、自分に突っ込んでどうする。
ん?
この場合突っ込むという言葉は禁句に近くないか?
というか突っ込まれんの?
えっ、ちょっと待ってよ。
再び僕の中で最大音量のエマージェンシーが鳴った。
緊急事態。
「少年」
威武将門は言いにくそうに改まって僕を呼ぶ。
「前述の通り、大変言いづらいことなのだが」
来た、まさかの告白。
「少年の体――――」
ドストレートに来た。
こんな馬鹿でかい男に押し倒されたら、抵抗できるわけない。
今直ぐにでも自殺したい願望が僕を支配し、同時に今から一生の恥を、十六年間生きてきた中で最大の汚辱を、恥の烙印を押されると覚悟した。
「その傷の治りから見て、少年、普通の少年ではないな?」
そっち?
助かった。
僕は安堵の溜息をついたが、同時に知られてはいけない秘密を知られ、心臓の鼓動が高まった。
まずいぞ。
何とか上手く乗り切ったと思っていたが、そりゃあれだけ血が飛び出して、その傷がインスタントラーメンを作るみたいに簡単に直ったら、誰だって怪しむに決まっている。今までの人生では、極力傷を作らないように最善の注意を払って生きてきたが、今回ばかりはそうもいかない。大抵の場合はかすり傷程度だったので、なんでもないと笑顔を見せればしのげたが、やはりあの傷では訝しがらないほうがおかしいだろう。
ごまかせなかった場合は、何とかしてでも口封じをしなければいけないが。
果たしてこの大男を前にどうやって?
「あの、さっきのシリアルキラー野郎、たいしたことのないやつで、傷もかすり傷程度に浅かったんですよ」
全く説得力がない。
「それに、僕昔から痛いのとか慣れてて、傷も治り早くなったっていうか、もう慣れっこなんですよね」
半分本当のことだが、何も解決してはいなかった。
「少年、隠さなくてもいいんだ。実は私も」
そう言うと威武将門は立ち上がって上半身のジャージを脱ぎ、中に着ていた白いタンクトップまで脱いだ。燃やしたスチールウールみたいな逞しいむく毛に覆われた、筋骨隆々、鉄筋コンクリートジャングルみたいな頑丈な体が露になり、やっぱりそういうことかと僕は覚悟した。
次の瞬間、威武将門はイヌ科の動物のように低い呻き声を漏らして体を震わせた。
その後の光景は、凡そ僕の人生に置いて一番を与えてもいい衝撃的な光景となった。
まず体中の筋肉が膨張するように盛り上がったかと思うと、その後に体中を濃い茶色と灰色を混ぜたような、ごわごわしたデッキブラシのような体毛が生え始めて体中を覆った。頬から顎にかけて突き出し、鋭い牙が生え揃い、耳が大きく肥大しながら後退し、少しずり下がったズボンの後ろから筆の先みたいな尻尾が飛び出した。
マイケルジャクソンの名曲、『スリラー』のPVを見ているようだったが、これはまさしく現実で、事実そのものだ。
悲鳴を堪えながら目を見開き、その変貌が終わるのを待った。
「お待たせしてすまない。月が満ちていないとコントロールが難しくてね。それにいちいち服を無駄にしてしまうのも勿体無くてね。用務員と言うのは本当に薄給なのだよ」
獣の声で自分の給与を嘆いたその声の主は、紛れもない威武将門だった。そして全身を灰色の毛で覆い、鋭い牙と爪を持ち、長い耳と金色の目を持った正真正銘の狼男だった。
「これで大体のことは察していただけたと思う。彼女に出て行ってもらったのは、さすがに女性には衝撃が強すぎると思ってのことだ。私はこれでも恥ずかしがり屋でね。それに彼女は普通の少女だ」
彼女には衝撃が強すぎるか。
普通の女性なんて言葉は必要ないと思うが、確かに彼女はこの場にいなくて良かったと思う。吸血鬼の存在をあれだけ馬鹿にしたうえに、僕らの不死身の現象についても、あくまでも科学的な見解を求めたぐらいだ、この光景を見たら何を言い出すか分かったものじゃない。
しかし、それにしてもこの状況は一体何なのだろうか?
そして僕達の周りでは何がおき始めているのだろうか?
新しい年を迎えて、僕は本当に不思議の国に迷い込み、紛れ込んでしまったのではないだろうか?
戻って来い僕の平穏の日々よ。
再び“獣化”――威武将門は狼男への変身をそう呼んだ――を解き、人間の姿に戻って白いタンクトップとジャージを着込んだ彼は、改まった丁寧な言葉で説明を始めた。
「見ていただいた通り、それに大体の知識は持っていると思うが、私は“狼男”と言う奴だ。我々のようなもののことを、“獣人”とも、“ワーウルフ”とも言う。総称としては“ライカンスロープ”と言うのが一般的であるだろう」
ライカンスロープ。
つまり獣人。
起源は旧約聖書にまで遡る。
その書の中で、ネブカドネザルの王は自らが狼であるとして七年間に及び苦しみを味わい、ギリシャ神話ではゼウスがリュカオーン王を狼へと変身させた。中世になるとそれは悪魔の仕業とされ、狼男への迫害が始まり、拷問、磔刑、火あぶり、疑わしきは罰せよと次々と罪なき人が犠牲になったと言う。
「私がこの体になったのは、あくまでも後天的なもので、まぁ、はじめはかなり苦しみもした。人間社会に溶け込めないこともあった。それにある種の疎外感、絶望感を感じていたし、孤独でもあった。今では大分慣れて、この現象にもなんとか折り合いがついている。つまり受け入れることで前に進むことが出来たというわけだな」
歯を輝かせて気さくに語ったが、それは想像を絶することだったと思う。
もし、僕がある日突然に狼男になってしまったら、それはもう自殺以外の選択肢はないだろう。
狼男ならば死ねるだろうから、まぁ首吊り辺りで手を打つと思う。
威武将門は更に言葉を続け、それは今回の連続殺人事件にまで波及した。
「先ほど君を襲った犯人と、今回のあの連続殺人を行っている殺人者は、同一の人物と見て間違いない。そしてあれは私の類であると考えている」
狼男というのは、こんな島国日本の都心の外れに、多く生息しているものなのだろうか?
原型の狼でさえ日本では絶滅しているというのに、狼男はひっそりと生き伸びているなんて、とても、はいそうですかと、鵜呑みにできる事実ではなかった。
「嫌、あれは類というかもどきだろう。そもそも狼ですらない。下等なものだ」
もどき。
下等。
狼ですらない。
やはり人間と同じでライカンスロープの世界にもヒエラルキーの構造があるのか、やはりどの世の中も世知辛いものなのだな。僕は妙に納得してしまい、同情的な気持ちにさえなった。
「我々の間では、この得体の知れない現象――――私の“獣化”や、君の不死身の体、それはら決して超常現象的なことではなく、まして神や悪魔から授かったり与えられたりしたものでもなく、ほぼ全ての現象が後天的かつ人為的、作意的に付与されたものだと考えられている。というよりもそれが真実だ」
僕は少なからず動揺した。
こんなことが、狼男になったり、不死身の肉体を得ることが、人為的に行えることなのだろうか?
とてもじゃないけど信じられない。
これじゃ、僕が愛読してやまない漫画的、余りにも日本の商業的な手法に嵌りすぎていないだろうか?
大量生産大量消費的過ぎだ。
「ロゴス」
確信を得ているように、そして知りえている全てのように、威武将門は言った。
僕はその言葉を反駁して尋ねた。
ロゴス?
「このような現象に対して必ず背後にいる何か、そして現象そのもの。それが名称なのか、総称なのか、言葉であるのか、記号であるのか、統一された意思を持った組織なのか、はたまた個人による活動、及び陰謀なのか、それとも現象だけを取り上げてそう呼んでいるのか、それは分からない。しかし現象の裏には必ずこのロゴスの存在があり、現象がロゴスと言ってもいい」
威武将門は一旦言葉を閉じて僕を見つめた。
それは僕の覚悟を試し、確認するように、その先に進む資格があるのかを見定めるように。
僕は黙ったままその視線に頷いた。
「“初めにロゴスがあった、ロゴスは神と共にある、ロゴスは神であった”。聖書の一説だ。ロゴスには多くの意味がある。概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想、そして語るべき言葉と」
風呂敷が広がりすぎて、僕の脳みそでは把握しきれなくなってきた。
つまり聖書にも載ってしまっているような大それた何かが、後天的、かつ人為的、そして作意的に現象とやらを起こしていて、それに僕や巡樞や、威武将門や、あのシリアルキラーまで巻き込まれているって言うことなのだろうか?
これであっているのか?
「いいか、少年、この学校は遥か古よりこの地に根を張り、ロゴスを研究し体現するために、否、この神現学園そのものが、ロゴスであり、現象であるのかもしれないのだ。私はその深淵に少しでも近づきたくて、何故に私はこの体になったのかを知りたくて、この地に足を踏み入れた」
大胆な解釈に深い注釈を入れて欲しかったが、僕自身も何となくそう感じている節があった。この学校の異常な広さ然り、文化的価値のある図書館、校内に作られた多種多様、奇奇怪怪な西のエリアの建物然り、あの医療機関然りだ。
「因果律。現象が現象を呼び、新たなる現象となる。我々のようなロゴスを体現した者たちに伝わる言葉であり、一種の暗黙の了解となっている言葉だ。そして我々ロゴスを体現した者たちは、流されてはいけない血が流れる日を、安息日とも、落日とも、終日とも言えるたった一日を待ち続けているのだ」
たった一日を待ち続ける。
それが一体どういうことなのか、僕には上手く理解することが出来なかった。しかし不死身の僕と巡樞が出会い、狼男まで現れたことを考えると、この学校には何かがある、意図的に何かが集まりつつあり、台風の目になりつつあると、考えざるを得なかった。
現象が現象を呼び、新たなる現象となる。
神はサイコロを振らない。
得体の知れない大きな手のひらの上で、僕達は踊らされているのかしれない。