伍
僕はしょんぼりと肩を落として帰路を辿っていた。
学校を出て駅までの道のりを歩いている。
叱られた子供のように、罪悪感や後ろめたさが膨れ上がり、僕の肩からは後悔がどっと流れ落ちている。
滝のように。
また一つ恥が増えてしまった。
畳間木乃伊と名乗った、僕と同じ高校に通っていると思われる生徒――かなり異形の風貌をした少年だった――に諭されるように施設を追い出された。
別になんてことはないのかも知れないが、実際隣には何も恥じることはないと、威風堂々と胸を張って歩く彼女がいる訳で、僕が落ち込むようなことでもないのだが、何故か異様に僕の気分を沈ませていた。それはもう凄まじい自殺願望となって僕を覆いつくし、空に広がる黒滔々とした闇の如く、僕を飲み込もうとしていた。
家に帰ったら、まずは世界の自殺大全集でも読み耽り、次回の自殺の予定でも立てるかと真剣に検討を始めていた。
どうせ死ぬことは叶わないが。
彼女は僕の少し先を歩きながら、不満そうにぶつぶつと一人ごとを呟いている。それは覚えている円周率を延々と述べるサヴァン症候群の患者か、遥かアフリカの奥地で呪詛を唱える原住民の姿に見えた。
空恐ろしいことこの上ない。
「ねぇ、晦日君はどう思ったかしら?」
振り返り僕に尋ねる。
「どうって何が?」
分からずに聞き返す僕。
「あの医療機関の施設よ」
「だからあの機関がどうなんだよ?」
「おかしいと思わなかった?」
彼女は声のトーンを落として言った。遠くのほうから聞こえて近くで響く魅惑の声域が、これ以上ないほどに低く絞られ、その先の言葉の奇怪さを物語っていた。それは踏み入れてはいけない聖域と同義語のようで、僕はできることならばその先を聞きたくなかった。
「別におかしいことなんてないだろう。確かに所長は変な人って言うか、自慢したがりな持病を持っていたし、地下には変な研究室があったし、白髪のおかしな具合の悪そうな生徒もいたけど、患者って言っていたし。別におかしいってことはないだろう、そう思うよ」
僕は言い訳を並べる子供よろしく、思いつたおかしなことを全て並べた。
「自分から変だの、おかしいだの言っているじゃない」
彼女は白々しい視線でもちろんそこを指摘する。
「でもね、私がおかしいっているのはそんなことじゃないのよ。何故あの施設はものけの殻なのか? 患者もあの畳間とかいう少年しかいないし、ほとんどの機械は稼動しておらず、地下の研究室以外は最近使われた形跡すらない。それに、あの看護婦はどこに行ってしまったのかしら?」
「そんなこと知らないよ、多分帰ったんだろう」
「あの所長の御手洗って人、本物かしら?」
「本物って?」
「考えてもみなさいよ。私が初めに見せた新聞の記事では、あの医療機関の所長権研究員、御手洗御霊は若いと書かれていたでしょう」
確かに、そう書かれていた。
この研究を成功させた医療機関の若き所長兼研究員である御手洗御霊氏、と。
「では、晦日君、私達が会った御手洗御霊はいくつに見えたかしら?」
僕の体中を冷や汗が流れ、鳥肌が体を覆うように這いずり回った。
僕は彼をしわがれた猿と形容した。
あの御手洗御霊はどう好意的に見ても五十歳は越えているはずだった。
「そう考えてみれば、おかしいことばかりでしょ? それにあの人、血の匂いがしなかったかしら?」
「知らないよ、さては僕を怖がらせようとしてるんだろ? そんな古臭い手には引っかからないぞ。別に何も変なことなんてなかったさ、そうに決まっているよ」
「もう既に大分怖がっているように見えるけど、それは錯覚かしらね?」
彼女は僕の震える膝を刺して言った。
「錯覚だよ、錯角的に穿った見方をしているんだよ」
「その錯角は、おそらく錯覚にかけて、一直線が二直線に交わる時、一直線の反対側で相対する角のことを言っているんでしょうけれど、今一つよく分からないわね。明確な説明を求めるわ」
「いちいち人の洒落の揚げ足を取るなよ、そんなの説明なんて出来ないし、むしろない。ただの駄洒落だ。とにかく、別に変なことなんてなかったし、今日のことはもう忘れよう。そのほうが良いに決まっている」
僕はそう言い切って先に進みだした。
コンクリートの路地を歩きながら、電柱の下に彼女を残したまま暫く進む。
彼女は声をかけるでもなく、ついてくる様子も足音も聞こえないので不安になり、振り返ると、それ見たことかと意地の悪い顔をして見せた。
僕は驚いて目の色を変えた。
「やっぱり、晦日君みたいな人は、絶対に先頭を歩いていても後ろが気になって振り返ると思ったわ。これからは一人で先に進めるなんて意気込みもないくせに、自分から一人で前に進まないことね。あなたみたいな人は、赤信号みんなで渡れば怖くない、の教訓を常に心に刻み込んで、誰かが通った道のりをただ歩いて行けばいいのよ」
彼女はいつも通り、辛辣プラス悪辣かけることの嗜虐心で構成された言葉の刃を浴びせかけてきたが、僕はそんな言葉など歯牙にもかけずに、必死に彼女の名を叫んで彼女に飛び掛った。突然の僕の大声と決死の形相に驚いたであろう彼女は、虚を付かれたように目を丸くしたが、僕は手を伸ばして彼女に掴みかかり、そのまま彼女に覆いかぶさってコンクリートの地面にダイブした。
地面を雑巾掛けのように滑ると同時に、僕と彼女の上を何かが通り抜け、僕は肩口から背中にかけて激しい痛みを覚えた。見ると、鋭い爪で切り裂かれたように、三本の長い傷ができていた。
「ちくしょー、一体何なんだ?」
彼女を抱きかかえたまま振り返ると、黒く長いコートを着てフードを深く被った何者かが、大きく荒い息を吐きながら立っていた。猫背になり、両手ぶらり戦法のようにだらりとぶら下げた両手には、闇夜でも輝く鋭利な爪がついていた。
「ナイフ、今日もあのナイフ持ってるのか?」
「えっ?」
彼女は直ぐに胸のポケットからサバイバルナイフを取り出し、それを僕に渡した。その表情からして、既に状況は把握できているようだった。
「あなた、戦闘の心得があるの?」
ナイフを受け取り、彼女の楯になるように立ち上がった。
「あるわけないだろ、僕はどこにでもいる普通の高校生だ」
僕は叫んだ。
今目の前に現れたのは、恐らく僕に関わり合いのない世間様を騒がせる連続殺人者だ。
カニバリズム主義のシリアルキラー。
僕はそのことを既に確信していた。
今は僕と彼女を標的にしている異常殺人犯――いや、もはやこの風貌、形相、状況から察するに、生まれながら殺人衝動を抱えた殺人中毒者に違いない――と対峙し、握ったナイフを前に突き出す。僕の両手はナイフを拒絶しているように大きく振るえ、その震えは直ぐに足にも伝わった。
振り返らず、彼女にとにかく「逃げろ」と叫び、僕は目の前のシリアルキラーを牽制するようにナイフを振るった。
ともかく僕が不死身である以上――もちろん細切れにされたり、首を刎ねられてまで生きていられるのかは皆無だが――このシリアルキラーが満足するまでやられたふりをすれば、何とかこの状況を回避できるのでは?
そんなことを瞬間的に思いついた。
しかし今日の新聞の記事に書かれていたような、体を食い散らかされて、臓物を引き出されてまで生きていられるのかは、皆目検討がつかなかったし、見当をつけたくもなかった。
シリアルキラーは地に伏せるほど姿勢を低くしたまま、物凄い速さで眼前まで迫った。もはや瞬間移動にしか見えないその速度に、僕は全く対応ができず、その刹那に腹部に感じた激しい痛みは、那由他の如くに感じられた。
僕は込み上げる不快感を噎せるような咳と共に吐き出し、口元の生暖かい感覚で口から血を吐き出したことを悟った。見たくもない腹部に視線を落とすと、シリアルキラーの爪が学ランを貫き、深々と腹に突き刺さっているのが生々しく映った。
やれやれ、目がかすむ上に、何でもかんでもスローモーションに見えて来るじゃないか?
これが走馬灯って奴なのか?
勘弁してくれ。
シリアルキラーが僕の腹に爪を差し込んだまま、反対の腕を振って僕の顔面に一撃をくれようとする。僕の体は一歩も動くことができない。ゆっくり、ゆっくと、ビデオのコマ送りのような世界で、鋭く死と刻印された爪が近づいてくる。しかし反対の方向から足音と共に誰かの体が、その華奢な体躯ごとシリアルキラーにぶつかり、紙一重で僕の顔面を爪が抉り取るのを防いだ。
シリアルキラーは一歩後ろに飛び跳ね、体制を立て直すように爪を鳴らした。
華奢な体の女性は両手を大きく広げて僕の壁になった。
僕は砕けるように、その場に膝をつけてから地面に倒れた。
街灯の光がその人物を照らし、やはりそれが巡樞であると分かると、僕は無性に暖かい気持ちになった。そこには感動的なものさえあったが、それ以上に情けなさと怒りも込み上げた。
「何やってんだよ、早く逃げろって言っただろ」
「何って――――」
彼女は両手を広げたまま振り返らずに言う。
「晦日君こそ何をやっているのよ、情けない。さっさと変身して戦いなさい」
「僕はどこかの仮面ライダーかサイヤ人かよ」
この期に及んでこんなやり取りが微笑ましい。
しかしシリアルキラーはそんな僕らの微笑ましい会話など意に介さず、それどこか不愉快だと言わんばかりに、「ふしゃー」と息を荒げ、またしても姿勢を低くし瞬間移動のような速度で彼女との間合いをつめた。僕は立ち上がろうと力を振り絞ったがそれも叶わず、彼女が切り裂かれるのをただ見届けるしかなかった。
「最近の女子高生は勇ましくて素晴らしい。これぞ大和撫子。女は強し――――」
どこからともなく声が聞こえると、その声の主はシリアルキラーと彼女の間に割って入り、シリアルキラーが振った手を払い、逆に相手の顎を掬うように、右手でアッパーカットを放った。アッパーカットは空を切り裂き、その空いた右脇の下を貫こうと、シリアルキラーは爪を振るう。しかしシリアルキラーが振るった手は、易々と反対の左手に捕まえられた。
一瞬の攻防だった。
ふしゃー。
シリアルキラーは奇声を放つように息を吐いた。
「匂うな、獣の臭いが。ずいぶんと腹を空かしているようだが、さては夕食はまだと見える」
ふしゃー。
二人はしばし力の均衡を図るように対峙したまま動かない。
「アルコールが回るから過度な運動は控えたいのだが」
そう言ってシリアルキラーの足を掬うように、下段に蹴りを入れて体制を崩させると、すぐさまもう反対の足で上段の回し蹴りを顔面に入れた。フードを被ったままの顔面が足の肩に凹んだように見え、そのままコンクリートの壁まで飛ばされたが、四本の手足で器用に壁と水平に着地すると、シリアルキラーは一目散に闇の中へ消えて行った。
「ふー、危ないところだったね。ボーイズ&ガール?」
良い汗かきました。
そんな調子で額の汗を拭きながら振り返った男は、僕と彼女を見つめて爽やかだが暑苦しい笑顔を浮かべ、白すぎる歯を輝かせた。
何故か僕は背筋に痛みとは別の寒気を感じた。
突如現れた男性を見上げながら、途切れそうになる意識を無理矢理に引き留めた。
「ありがとうございます。あなたは一体?」
月並みな言葉で尋ねた。
「通りすがりの正義の味方――――って言ったら安っぽすぎるかい、少年?」
白い歯が一層輝きを増し、瞳の中の星が弾けて眩しすぎた。
想像を遥かに超越する寒い答えが返ってきて、そこで僕の意識は途切れた。
真っ白になった。