肆
あの後、彼女のとの話がちょっとした立ち話では埒があかないことに気がついた僕は、図書館内の三階にある多目的室の一室を借りて、そこに場所を移した。
そこは二十平米くらいの手ごろな空間、白い壁、白い床、折り畳み式の長いテーブルとパイプ椅子、ノートパソコンとホワイトボードが一台ずつ、冷暖房も完備された快適な部屋だった。
「巡さん、僕と同じクラスだったんだ?」
パイプ椅子に腰掛けて、僕は尋ねた。
「だから言ったでしょう、無知は罪だって」
「でも全然気がつかなかったよ。何でだろう?」
「さっきも言ったでしょう、コミュニケーション障害と言えるほどの対人恐怖症って。入学式も出てないし、一度も授業を受けていないもの。行事にだって参加したことないわ。担任の先生とも一度も会ったことないし、私がクラスにいるなんて知らないんじゃないかしら。たまに登校しても校内を散歩するぐらいね」
「入学式から一度も授業に出ていないんじゃ、僕が知る訳ないだろう。てか、このままじゃあんた留年だぞ?」
「可愛そうね、不出来な人って。私にはね、留年も、欠席も、遅刻も、早退もないのよ。存在しているだけで卒業が認められているのよ」
「そんな馬鹿な、嘘をつくな」
勝ち誇る彼女に、僕は抗議するように言った。
冗談じゃない。
そんな出鱈目で、不公平で、差別的なことがあってたまるか。
「まぁ、あなた見たいな人には理解できないでしょうね。と言うよりも、納得したくないでしょうね。圧倒的で絶対的な、生まれながらにして平等ではない、人間同士の優劣の差を。でも、これが真実なのよ。なぜならば、私のIQは、優に二百五十を超えているのだから」
「二百五十? まさか、そんな人間いるのかよ? 金田一少年だってIQ百八十なのに」
「そんな架空の人物と比べないでくれるかしら、事実は小説よりも奇なりよ」
「奇をてらい過ぎだ」
彼女は澄ました顔で不敵に言った。
僕の突っ込みは巡樞と言う壮大な壁に当たって脆くも砕けた。
やはり彼女には一切の常識と言うもの通用しないのだ。
そう言えば初めて会った時も、五十ヵ国語以上喋れると言っていたではないか、僕は唖然として彼女を見つめた。
「さて、早速本題に入りましょう」
何事もなかったように次の話題に移ろうとする彼女に、僕は手を前に出して制止した。
「本題の前に、もう一つ聞いておきたい。僕の住所、どうやって知ったんだ?」
「そんなの、あなたの親戚のふりをして学校の人事局に問い合わせたに決まっているじゃない。病弱な叔父が危篤と言う設定にして、あなたの両親とは喧嘩別れで疎遠であると伝えたら、疑いもせずに快く教えてくれたわ」
「犯罪だぞ、それ。何が、そんなの決まっているじゃない、だよ。立派な犯罪者だ。それに存在しているかすら分からない親戚や叔父まで作り上げて、あんたストーカーの上に妄想癖まであるのか。重度のメンヘラちゃんなのか?」
「ねぇ、何度も言わせないで頂戴。あなたのそういう所って、私本当にうんざりすしちゃうの。ギャグ漫画のキャラクラーとか、ライトノベルの語り手を意識しているような台詞とか突っ込みって、あまりにも幼稚で、稚拙で、滑稽すぎないかしら? まぁ、晦日君が未だに厨二病を発病していると言うのなら、仕方なく受け入れざるをおえないのだけれど」
「発病してねーよ、そんな架空の病気。一度たりとも罹ったことはない」
「では進化して高二病ね」
「それも違う。そして高二病は進化ではなく退化だ」
「と言うことは、つまり何とかにつける薬はないと言う訳ね。ねぇ、晦日君、この場合の何とかとは何だったかしら? おかしいわね、私、記憶障害にかかってしまったみたいよ」
「絶対嘘だろ。IQ二百五十が泣くぞ」
「IQは涙を流すことはないわ、ただ積みあがっていくだけよ。さぁ、私に教えなさい」
「しれっと嫌味を。そこをど忘れする人間なんているのかよ。馬鹿だよ、馬鹿に決まっているだろ」
「そうそう、つまり晦日君が無知で無能の厨二病患者ということよ」
「馬鹿を通り越して一週回っただと?」
もはや僕は何も語るまいとした。
ここで一人きりになったのなら、僕は肩を震わせて涙を流しただろう。
今夜枕が濡れることは確定した。
「さて、本題よ」
彼女は立ち上がりホワイトボードの前に立った。
学校の教師のようにホワイトボードを叩きながら、これから講義を始めますと言わんばかりに、僕に見つめた。
「要するに今日あなたをここに呼んだのは、私達は一体どうなっているのかを解明するためなの」
「解明?」
「そうよ、私達のこの不死身の現象を二人で解明しましょう」
彼女はとても真剣にそう言い切った。
「どうやって?」
「それを考えるために、晦日君に集まってもらったのよ。あなたは自分の肉体について、どういう見解を持っているのかしら? 是非聞かせて頂きたいわ」
さっきまで僕を無知か無能、厨二病患者扱いしていたくせに、僕に意見を求めるなんて。
彼女はホワイボードに、『我々の肉体におけるそれぞれの見解』と見出しを書き出し、その下に発言者の僕の名前を書いた。その字は、今朝届いた葉書と一緒で、定規を使って書いたような神経質そうな字で、見ているだけで気分を害す字だった。女の子には丸くて柔らかい、見ているだけで幸せになりそうな字を書いて欲しいと、この時本気で思った。
「さぁ、言ってみて」
僕は言われて悩んだ。
どちらかと言えばだが、僕は自分のこの特殊な肉体について、なるべく考えないように、そして臭いものに蓋をするような感覚で今日まで生きてきた。だから、真面目に自分の体がどういう構造をしているのかなんて考えたこともなかたっし、知りたいとも思わなかった。
別に今だって知りたい訳じゃない。
「羊が僕達の中に入り込んでいる」
「羊? どういうことかしら? 明確な説明を求めるわ」
僕は首を振って冗談だと説明した
「吸血鬼の末裔、とか」
次も取りあえず思いついたことを言ってみた。しかしそれを聞いた彼女の表情を見て、僕は自身の発言を心の底から後悔し、自責の念に駆られた。彼女は僕を心底軽蔑するみたいに、眉間に皺を寄せて汚いものでも見ているような表情を浮かべた。
それは牛乳を拭いた後の雑巾を眺めているような。
僕は雑巾なのか?
「あなた、本当に馬鹿なの?」
取りあえず吐き気を抑えるようにそう言い放った後、更にまくし立てるように続けた。
「吸血鬼って言うのは、そもそも古代ルーマニアが起源になっていて、そこからキリスト教やスラヴ人の伝承と混ざり合いながら、ヨーロッパ全土に広がっていったものなのよ。そして吸血鬼伝承と言うのは、流入してくることなる文化、宗教、更には多くの死を齎す疫病などに対する、恐れや答えとして語られ始め、その頃は吸血鬼と言うのは意志も理性もない化け物であり、現象のように扱われているの。そして日本には、西洋のような吸血気の記述は存在しない。それにあなたが頭で思い描いているのは、どうせドラキュラ伯爵とか、作家、菊地秀行なんかが書く吸血鬼なんでしょうが、そんなもの現実に存在するわけがないのよ、想像と架空の産物、フィクションなの。それにドラキュラ伯爵にしたって実在のモデルがいることはご存知かしら? 十五世紀のルーマニア、ワラキアの領主、ヴラド・ツェペシュ。でも、彼だって実際に吸血鬼だったわけじゃなくて、後世の作家が面白おかしく吸血鬼に仕立てただけなのよ。で、これらの歴史的事実を踏まえた上で、私やあなたが吸血鬼の末裔だと言うなら、私を納得させられるだけの論証を示して頂戴。何故、私達には牙がなく、血も吸わず、十字架も、にんにくも、太陽の光も大丈夫なのかしら?」
僕はもはやぐうの音も出なくなっていた。
ちょっと思いついたことを言っただけで、僕の人格や人間性すら否定されているようなこの物言い。針を通す隙間もないような、この完璧な理論や、方程式を打ちつけて、僕を足の裏で踏みつけるように蹂躙しようとする彼女の仕打ちに、僕は怖れ慄いた。
それにしたって、彼女こそ吸血鬼について知識がありすぎではないだろうか?
菊地秀行にしたって『吸血鬼ハンターD』とか、その手のことに興味がなきゃ、絶対に知りえないだろうし、最後の牙や、血を吸うとか、にんにくや、十字架だってよっぽどステレオタイプな吸血鬼像じゃないか。最近の流行の吸血鬼は随分と洗練されていて、太陽の光も十字架もへっちゃらだし、血を吸わなくても生きていけるし、にんにくなんて、もはや設定にすら加わっていない場合だっているのに。
「思いつたことを言っただけだよ。そんなに全力で否定することないだろ」
「これからは発言に気をつけて頂戴。私思いついたことを直ぐに口にされたり、つまらない冗談とかって一番嫌いなの。次から下らない発言一つにつき、十字架に貼り付けて杭を打ち付けるわ」
「まんま吸血鬼の退治方法じゃないか。僕達は吸血鬼じゃない。今理解しました」
「あら、本当に理解できたのかしら? 何ならにんにくを丸かじりさせてもいいのよ」
それはかなり嫌な罰だった。
そんな状態で電車に乗ったら、かなり白い目で見られるんだろうな。
それにしても悪魔のような女だ。
「じゃあ、巡さんはどう思っているんだよ?」
彼女は襟を正し、いいでしょうと言った様子で喉を鳴らした。
「私が思うに、不死身の現象と言うのは細胞の活性化及び、分裂、増殖の促進、抑制、更には知覚の拡大によって制御された、再生コントロールの現象と言う可能性が一つ上げられるわね」
「再生コントロール?」
「まぁ、ナノマシンによって細胞が活性化され、無限に再生し続けられるというのが、一番分かりやすい説明ね」
「先生、質問です?」
僕は仕方なく可愛い教え子になりきって手を上げて質問した。
彼女は意外にもその設定に乗ってきて、「はい、晦日君」と持っていたペンで僕を指した。
「ナノマシンの注入なら、僕は誰かに人体実験のモルモットにされたことになるのではないでしょうか? 僕にはそのような経験と記憶はありません」
「もちろん、私もよ。それにナノマシンを制御するには、今の科学技術ではペースペーカー大のAIを人体に埋め込んで、そこでナノマシンの制御コントロールをしなくてはいけないの。だからナノマシンと言うのは一例に過ぎないわ。それにナノマシン自体も実用段階には来ていないでしょうからね。知覚の拡大でそれを補える可能性もあるけれど、それには薬物の投与や、シナプスの結合を人為的に変換しなければいけないため、危険も大きく副作用も高いのでそれの可能性も低いわ。自然に知覚の拡大が行われたポストヒューマン説も可能性としてはあるけれど、私は別にして、あなたの知性や品性ではそれはなさそうね」
いちいち説明に嫌味や僕への否定を入れてくる必要はあるのだろうか?
知覚の拡大に絶対品性は関係ないだろう。
そもそもナノマシンの注入がなかった時点で、知覚の拡大も存在しないはずでだ。僕の吸血鬼、オカルト説をあれだけ否定しておきながら、彼女はオーバーテクノロジー的なSF説を持ち出してきて、僕も彼女も未知の可能性という点に関してはどっこいどっこいじゃないか。
「ずいぶん不満そうな表情ね?」
彼女は僕の心の中を読み取ったように言った。
まさか、知覚の拡大によって相手の心を読むことが?
そんな下らないことはさておき、僕はとんでもないと首を横に振った。
「確かに、今のは少し行き過ぎた発想ね。でも、次の考えには少し自身があるのよ」
そう言うと、彼女はホワイトボートに文字や記号、更には数式、図式、化学式などを書き始めた。
やれやれ、女の子がこんな奇妙な数式やら化学式なんて書き出したら、男の子は絶対にがっかりしちゃうだろうな。僕としては女の子なんて、隣に座って笑っていてさえくれれば、それで万事オッケーでハッピーなのに。
それにそもそも僕は、数学も化学、物理学も校内でドンケツに近く、中学生の頃から赤点しか取ったことない理系アレルギーの文系人間だ。それなのにこんな宇宙文字みたいなものを見せ付けられて、まさに拷問、針の筵かアイアンメイデンの中に詰め込まれているみたいだった。しかし、どうせ何を言っても聞き入れてもらえないだろうと諦め、僕は彼女が書き出したことを少しでも理解しようと、ホワイドボードを睨んだ。
「どうかしら?」
彼女は自信満々に、そして唯我独尊的に、自分が書き出した神の真理、モーセの十戒の如き教えを背にして、僕に忌憚のない意見を求めた。
僕は恐る恐る、そして彼女から返って来る反応を分かりきっていながら、仕方なく手を上げた。
「はい、晦日君」
「先生、何が書いてあるのか、一行目から分かりません」
またしても僕を矮小なもの、死体に沸いた蛆でも見るような軽蔑の表情を浮かべていた。
僕は蛆なのか?
深い溜息を落とした後、彼女は口を開いた。
「つまり、テロメアの異常発達なのよ」
つまりと要約されて全く分からないこの悲しみを、おそらく彼女は一生理解することはないのだろう。
もう一度手を上げて先の説明を求めた。
「人間のDNAには、テロメアという細胞老化、染色体端末を保護する役目を持っている構造部分があるのよ。通常テロメアの長さは決まっていて、それが短いほど、寿命が短いと言われているの。そして通常テロメアは細胞分列のたびに短くなり、分裂の回数が生まれながらに決まっている。だけど、もしかしたら私達の場合は、その細胞分裂の回数が制限されていないのかも知れないわ。それと鼻の奥、脳の裏側から伸びる内分泌器官、下垂体。この器官には老化を防いだり、成長を促すホルモンを分泌する機能が備わっているの。テロメアだけでなく、この下垂体も異常発達している可能性も除外できないわね」
「根拠はあるのですか?」
「もちろん。晦日君、バクテリアって知っているかしら?」
「一応、アメーバみたいなものですよね?」
彼女は何度目かの残念そうな溜息をついた後、説明を続けた。
「まぁ、そういうことにしておきましょう。バクテリアには寿命もなく、細胞分裂の回数も決まっていないの、そして永遠に再生を繰り返す。それはね、DNAが人間や動物などのように末端などがなく、円環になっているからのよ」
「おお」
「つまり私達のDNAも、バクテリアと同じく円環になっているか、もしくは細胞分裂の際にテロメアが短くならずに、再生する機能がついている可能性があると言う訳よ」
「おお」
僕は感心して拍手をした。しかし自分の肉体が、あのぶよぶよした細菌類と同じ構造をしているかもしれないと言うのも、なかなか残念なものだった。
「で、それをどうやって解明するんですか?」
「そこが大きな問題なのよ。私にたちには、大きなラボも資金もない。DNAの解析には膨大な手間と時間がかかる上に、必要な器材もたくさんあるのよ」
「僕の部屋に小学生の時に使った顕微鏡があります」
冗談で言ってみたが、彼女は視線だけでおだまりと威嚇した。
「走査型電子顕微鏡、遠心分離機、シーケンサ、キャピラリ、スーパーコンピューターは最低でも欲しいわね」
聞きなれない器材が多く彼女の口から発せられ、ホワイボードには今晩の夕食の買い物の品を書き出すように、いかめしい機械の名前たちが記載されていった。
僕は先ほどから補足情報を得ようとして机の上のノートパソコンを開き、インターネットでテロメアについて検索をかけていた。どうやら、彼女の言っていることはだいたいにおいて合っているらしく、確かにテロメアの研究が不死に繋がる要素はあるらしい。下垂体も同様。しかし今の医療技術ではせいぜい癌を抑制したり、老化の早い病気を持つ患者の老化を遅らせるぐらいに留まっていた。
そもそも僕は不老不死じゃないし、毎年しっかりと歳を重ねて老化もしている。僕達のテロメアが彼女の言うように円環になっているのなら、僕達は赤ん坊のまま歳を取らないのではないのだろうか?
「ちょっと、晦日君、聞いているのかしら?」
僕は呼ばれて顔を上げた。
不機嫌そうに僕を睨みつけている彼女が背にしたホワイトボードには、必要な器材達がびっちり書き込まれていた。それはどう考えても、僕が一生係わり合いになることないだろうと確信できる類のものばかりだった。
「ああ、聞いているよ。でも、そんなに大量の器材、どうしたって調達できないよ。秋葉原で簡単に手に入るわけでもないだろうし、買うにしたって、僕は日々の生活にだって困窮しているぐらいなんだ」
「誰があなたの空っぽの財布を当てになんてするもんですか。いいこと、私があなたをここに呼び出したのは、綿密か緻密な計画がしっかり組んであるからなのよ」
そう言うと彼女は口の端を吊り上げなら、背中から一冊の新聞を取り出した。
「じゃっじゃじゃーん」
平坦なまま、そう言って手渡された新聞の一面には、年末年始から世間を賑わせている連続殺人の記事が載っていた。
『猟奇的な連続殺人者、恐るべきカニバリズム』
そんな見出しがついていた。
犠牲者は今のところ三人ほどで、その犠牲者の全てが、無残な死骸へと変えられ、肉を貪られ、臓器の一部を持ち帰られていることから、犯人のことをマスコミが、カニバリストやシリアルキラーと言う名で呼んで、面白おかしく書き立て、報道していた。
つまり現代のハンニバル・レクターの登場と言うわけだ。
事件の全てがこの学園近辺で行われ、恐らく連絡網なども回っているはずだった。
もちろん僕のところには来ていないが。
「この事件の犯人、まだ捕まってないんだよな」
「そんな記事どうでもいいわよ」
人々が恐怖している食人主義の殺人鬼も、彼女にかかればどうでもいい些事へと様変わりしてしまうのだろう。偉大なる作家、トルーマン・カポーティが生み出した究極のイノセンスを持つ少女、ホリー・ゴライトリーも彼女にかかれば形無しだった。
僕は彼女が指したページを捲り記事を読んだ。
案外小さい記事だった。
『不老不死への大いなる前進』
染色体の両端部「テロメア」が異常に短くなる難病の患者の皮膚細胞から人工多能性幹細胞(iPS細胞)を作り、長さを回復させることに、この医療機関が成功した。テロメアは老化や細胞の癌化にかかわることが知られており、生命活動の営み解明やがん治療に役立つ可能性がある。
開発に携わった医師研究者は、先天性角化異常症という遺伝性疾患に着目。テロメアを維持する酵素「テロメラーゼ」が不足してテロメアが短くなる難病で、 老化が早まるほか貧血や皮膚の異常などが起こる。患者数人の皮膚細胞を採取し、新しく開発された遺伝子を導入する方法でiPS細胞を作成した。
その結果、患者の元の細胞では、テロメラーゼを構成する分子の一部が不足しているにもかかわらず、iPS細胞ではテロメラーゼが正常に働くようになることを突き止めた。また、テロメアが修復され、正常の長さに戻ることも発見した。
この研究を成功させた医療機関の若き代表兼研究員である御手洗御霊氏と、研究員であり、この病気で苦しんでいる猿渡榊氏によれば、この技術が確立され、テロメアの解析が進めば、近い将来人類は寿命と言う呪縛から解放されるかもしれないと言う。
「どうかしら?」
「何がどうか良く分からないんだけど? どうしてこれが僕たちの不死身の現象に繋がるのかな?」
「良く見なさいよ。記事の一番後ろに書いてある、その研究を成功させた医療機関を。驚くわよ」
僕は記事の末尾に記載された、情報提供の欄に書かれている医療機関の名称に、彼女に言われるままに驚いてしまった。
それはこの学校の敷地内にある医療機関の施設だった。
やれやれ、この学校は一体どんな目的で開校したのだろうか?
文化財団が運営する、歴史的に優れた図書が集められた図書館に、不死を研究する医療機関、更にはIQ二百五十を超える、授業に出ないことを許されている不死身の女の子、そして僕。もちろん僕は小物に過ぎないが、まるで何でもありの学校だった。
「これだけ凄い研究をしている医療機関なら、私が欲しい器材も設備も全部揃っているわよ」
「もしかして僕らのことを調べてもらうのか? それは御免だ。他人に自分の体をいじくられるなんて、考えられない。恥さらしもいい所だ」
僕は絶対反対と首を横に振った。
「私だって同じよ。得体の知れないドスケベ変態医師なんかに、私のこの麗しくたわわに実った体を触らせたりするものですか」
どうやら彼女の中で世の中の医師は、全てドスケベ変態の称号を与えられているようだった。不名誉この上ないな。
「それに、私達みたいな貴重なサンプルが手に入ったら、もうモルモット以下の扱いよ。私が言いたいのは、彼らがいない時に、少しだけ器材を使わせてもらいたいってことなのよ。つまりシェアね」
「シェアって、勝手に不法侵入して、機械を無断で使用するってことじゃないのか?」
「別名ね」
「別名じゃなくて、僕が言っているのが真実で、あんたが言っているのは都合の良い自己中心的な解釈、ごまかし、レトリックの入れ替えだ」
「分かったわ」
僕がもう我慢できなくって大声で突っ込みを入れると、彼女は以外にも真面目な顔でそれを受け止めた。
「とにかく、まずは下見に行きましょう。さぁ偵察よ」
僕は肩を落とした。
僕の突っ込みを真面目に受け止めていたんじゃなくて、ただ単に彼女はもう待ちきれないと言う様子でうずうずしているだけだった。彼女は遠足の前日のように胸をときめかせながら、出発を心待ちにしていた。
「ねぇ、晦日君、こういうのって私凄いわくわくしちゃうの、俗に言うワクテカって奴ね。あなたはどうかしら?」
「ああ、僕もwktkで楽しみだよ。子供の頃やったスパイごっこを思い出す」
「それはピンクパンサーかしら? それとルパン三世? 私は女の子だからキャッツ・アイね」
「それじゃ泥棒だろ。勘弁してくれ」
僕達は階段を降りてエントランスを抜けようとした。
するとインフォメーションからまたして本を山のように抱えた物語繭が、僕らの前に現れた。
「あれ、もう帰るの?」
「ああ、読みたい本も読んだし、調べ者も終わったしね」
僕が立ち止まって彼女と話をすると、巡樞は無言で彼女を追い抜いて図書館を後にしてしまった。
「あの、あんまり悪く思わないでほしいな、なんか人間が苦手らしくてさ」
「大丈夫、分かってるよ。不器用なんだよね、ああいう子って」
藍色の瞳が優しく凪いだ。
僕が「じゃあ」と行こうとすると、「ああ、そうだ」と彼女は思い出したように僕を制止した。
「晦日君って、蓬莱の千尋って言う、中国の古い物語を読んだことある?」
「いや、聞いたことないな」
僕は読書好きだが、読者家じゃない。
「重要文化図書の館にその原文が寄贈されているんけれど、興味深い話なの」
重要文化図書の館には何でも寄贈されているんだな。まるでキリスト教徒の聖地、ヴァチカンの図書館みたいだった。
「秦の時代から見聞や伝聞、伝承などを何世紀にも渡って集められた千の物語からなる短編集なんだけど、その中の一つに、死ぬことを怖れた皇帝の話があるの。
大陸のある時代、年老いた皇帝は一日一日を過ごすたびに、自分が死んでしまうことに怯えながら、何れ来る死に恐怖して城の中に閉じこもって暮らしている。
ようやく争いを収めて手に入れた平穏も、皇帝の地位も、この優雅な暮らしも、美しい都も、自分に跪く民草も、死んでしまったら全て失ってしまう、皇帝は迫り来る死に怯えながら、どうしたらこの死の呪縛から逃れられるのか頭を悩ます。
そんなある日、大陸全土、海の向こう、未開の地にまで使者を送って、不老不死に関する探索をさせる。
永遠の命を得られる桃とか、若返りの泉とか、龍の玉とか、古くから伝わる伝承、些細な噂、不老不死に関するありとあらゆることを調べ、持ち帰らせては実践していく。
でも、結局不老不死になることはかなわずに、皇帝はある日とんでもない事を考えだした。それは人間を食べることによって、寿命が延びるんではないかと言うことだった。その日から皇帝は人間を食べ始める、肉を貪り、血を啜り、骨をしゃぶる、むしゃむしゃ、ぐちゃぐちゃ、ぺちゃぺちゃ、来る日も、来る日も、人間を食べ続ける、むしゃむしゃ、ぐちゃぐちゃ、ぺちゃぺちゃ。で、最後はどうなったと思う?」
僕はごくりと唾を飲み、首を横に振った。
背中には嫌な汗をかいていた。
彼女の語り草が異様に真に迫っていたからだ。
僕は暗闇で怪談を聞かされているような恐怖を感じていた。
「もちろん不老不死なんかにはなれず、人を食らうことでしか生きられない食人鬼になってしまった。その姿を見かねた皇帝の息子が、最後には皇帝を火あぶりにしてしまうんだけど、火の中からは結局骨の一本も見つからなかった。お仕舞い」
彼女はそこで物語を閉じた。
「どう、面白そうでしょう? 興味があったら読んでみてね」
そう言うと、彼女はまた抱えた本でバランスを取るように歩き出した。
「物語さん、どうしてその話を僕に?」
僕は彼女の背に声をかけた。彼女は振り返り、匂い立つような笑みを浮かべた。口元の黒子がこれ以上ないくらい扇情的に見えた。
「何となく、晦日君に聞いて欲しかったからじゃ、だめ? そうだ、最近この学校の周り、猫の死体が多いの、気をつけてね」
最後にそれだけ言ってしまうと、彼女は紙と背表紙で出来た巣の中に帰って行った。
気がつくと体中の肌が粟立ち、毛が逆立っていた。
一体この恐怖は何なんだろうか?
僕は戸惑っていた。
図書館の外に出ると二対の向かい合った像の前で、巡樞が僕待っていた。彼女は訝しげな視線で僕を見つめて「どうしたの、顔が真っ青よ」と言った。
僕は物語繭との一連の出来事を彼女に話した。
「ふーん、だから言ったでしょう、彼女には気をつけなさいって」
「どういう意味だよ?」
「額面どおりの意味よ、そんなことも分からないの。とにかく彼女は普通じゃないのよ」
「普通じゃないってどこが?」
「全部よ、ともかく」
「全部って?」
すたすたと歩き出す彼女の背に尋ねたが、その答えは返ってこなかった。
物語繭も僕らと同じように死なない体なのだろうか?
それとも彼女の言っている普通じゃないと言う意味は、別にあるのだろうか?
今の僕には確かめる術はなかった。
「そう言えば、巡さんは何でそんなに自分が死ねないのか知りたいんだよ?」
「晦日君は知りたくないの?」
「どうかな、あまり深く考えてこなかったな」
「可愛そうに、考えるだけの脳みそがなかったのね」
「憐れんだ目で見るな。別に怪我しても直ぐ治って便利だな、くらいに考えればいいだろ。何か理由があるのかよ?」
「別にいいじゃない、理由なんて。あなたは死にたいわけだし、私はあなたの死ぬところが見たいんだから」
何となく彼女の表情が曇り、扉が硬く閉ざされたような気がした。
だから僕はそれ以上尋ねない事にした。
彼女の中でその扉は決して開けてはいけない扉なのだ。
だから僕は開けないことにした。
僕達は暫く無言で歩いた。
僕の通っている神現学園は、大きく分けて五つのエリアに分かれている。
学校の大きな正門があり、長い欅並木、桜並木の並ぶ南のエリア。一般の生徒が通っている校舎や体育館、講堂、図書館などがある東のエリア。陸上競技用の運動場、芝生のあるコート、テニス場、部活用の建物などの、運動系の部活が幅を引かせる中央エリア。一般生徒の立ち入りが禁止されている、教職員用の北のエリア。そして、いつも見慣れている場所とは違う、人の寄り付かない反対側の西のエリア。
その西のエリアには、よく分からない不気味な建物が乱立している。どう考えても高等学校には必要ないだろう思われる、頑丈で厳しいコンクリートの群れがそこには聳え建ち、冷たく厳かな態度で訪れる者を拒絶している。建物によっては、武装した警備員まで張り付いている厳戒態勢さで、僕は左足を軸にくるりと反転して、そのまま帰路を辿ろうかと思ったぐらいだった。
好奇心旺盛なうら若き生徒達も好んで寄り付かないこのエリアは、教職員用の北のエリアを“聖域”と呼んでいるのに対して“禁止区域”と呼ばれていて、この辺りで行方不明になった生徒もいるなんて噂も立ち、それは堕落したバビロンか、空から降る業火で焼かれたソドムかゴモラのように、誰もが敬遠する区域だった。
もちろん彼女を除いてだが。
巡樞は招かれざる客であることなど全く意に介せず、その細くしなやかな足をどんどん進めていく。短いスカートは野を跳ねるように、黒いローファーはリズムを奏でるように、軽やかに地面を踏んでいた。高い腰の手前まで、黒い滝のように伸びた長い髪の毛は一糸の乱れもなく、飛沫を上げるように輝いている。後ろから見ても彼女のプロポーションのよさは群を抜いていたし、絵になっていた。場所がこんな滅んだ廃墟みたいな場所じゃなければ。
完全に沈みきっていない夕日が、縁を取るようにシルエットを赤く染め、覆い被った闇は血を啜る怪物のように、その牙を剥き出している。長く伸びた影が、ここから今直ぐにでも立ち去れと警告していた。
ふと、先ほど新聞で読んだ記事が頭に浮かび、僕は辺りをキョロキョロと見回す。連続殺人犯、カニバリズム主義のシリアルキラーがこの辺りに潜んでいるのではないか?
そんなことを咄嗟に思いついた。
頬を撫でる冬の風が悲鳴を上げるように通り抜ける。舐めるように撫でる木枯らしに煽られ、僕は完全に疑心暗鬼に陥っていた。
「さっきから黙りこくってどうしたのかしら? もう怖がっているの? ほら、着いたわよ」
振り返った彼女が不満そうに呟く。
赤い瞳が夕日の灯火と重なり輝いた。
その灯火は僕らの命を灯した蝋燭の火に見えた。この双眸に宿る儚い火が消えた時、僕も彼女も消え去ってしまうみたいに。
やれやれ、そうだよ。
完全にビビッているよ。
「さぁ、行くわよ」
そんな僕の一抹の不安などに全く気がつく様子もなく――気がついたとしても気遣うこともしないだろうが――彼女は建物の中に進んで行こうとする。
周りの建物とは少し雰囲気と様式の違う、建物の自動ドアの前で僕は彼女に制止を求め、建物を見上げた。医療機関の建物らしく白を基調として、所々赤いラインが引かれている。しかしその赤いラインは垂れ流される血に見えた。
「ここに入るのはいいとして、入ってどうするつもりなんだ?」
「そんなの、決まっているでしょう。さっきホワイトボードに書き出した器材があるかどうか確かめるのよ」
「確かめるったって、どうやって?」
「それは中に入ってから考えるわ、器材の名前は頭に入っているでしょうね?」
「ええっと、顕微鏡と、遠心なんとか」
僕は必死に思い出そうとした。
「もういいわ。器材は私が探すから、晦日君は適当に医師か研究者と会話してちょうだい」
「適当に会話って?」
「何でもいいのよ、不死身の現象について見解でも求めていなさい。とにかく行くわよ」
面倒くさそうにそう言い放ち、彼女は自動ドアを開けて中に入ってしまった。
高校の敷地内にある医療機関のエントランスは、意外にも普通の病院と変わらないような作りになっていて、自動ドアを抜けるとまず待合室があり、院内は薄暗く青みがかっている。待合室には硬く不親切そうな長椅子が置かれていて、それはまだ誰にも使われていない新品同様に見えた。受け付け用の窓口が向かって右手にあり、正面には長い廊下が待ち受けている。院内は鼻腔を擽るアルコールや薬剤の匂いが充満して、それが立ち込める霧の様に靄がかってさえ見えた。
「何か御用ですか?」
窓口の向こうから白い看護服を着た女性が僕達を見て尋ねた。その女性は顔がないように僕の目には映り、蛍光灯が反射しているのだと自分に言い聞かせた。
巡樞は直ぐに僕の後ろに回り込み、僕を前へと押し出した。
どうやら、ここからは僕の出番らしい。
「あの、僕たちこの学校の生徒なんですが、冬休みの研究でどうしてもこの医療機関の先生にお話を聞きたくて来ました」
「ごめんなさいね、いくらこの学校の生徒さんでも、この施設の見学はやっていないの。立ち入りも禁止しているくらいだから」
立ち入りを禁止しているなら、何でこの学校の敷地内にあるんだよ。
僕は心の中で突っ込んだが、背につんつんと彼女の指の感触が伝わり、どうするのよ、と背中が責め受けていた。ここで引き下がったら、後でどんな嫌味を、責め苦を負わされるか分かったものじゃない。
僕は少し頭を悩ませた。
「あの、どうしてもこの医療機関の先生にお会いしたいんです。僕の弟が生まれつき老化の早い病気を患っていて、長くても後三年ほどしか生きられないと診断されました。そんな時この医療機関が発見した技術を知ったんです。お願いします、どうか先生に合わせてください」
僕は悲痛な声色を作って大きく頭を下げた。
看護服を着た女性はそれを聞いて気の毒そうに表情を歪め、僕に少し待つように言った。女性が去り、待合室の硬い長椅子に座りながら、彼女が感心したように瞳を持ち上げた。
「よくも、まぁ、あんな下らない嘘がぽんぽん出てくるものね。私、少しだけ晦日君を見直したわ」
「こんなことで見直されても全然嬉しくないよ。僕は今物凄く憂鬱な気持ちになっているんだから。人生の恥が一つ増えたよ」
「そうかしら、立派な詐欺師になれるわよ」
「なりたくないし、詐欺師に立派な人はいないだろ」
「あら、詐欺師にだってきっと立派な人はいるわよ。詐欺で集めたお金を恵まれない子供たちに分け与えてあげたり。結局最後には何も奪わずに心だけを奪っていくとか」
「それはフィクションの話だろ。あんたこそアニメや漫画の見すぎの厨二病じゃないか」
「やっぱり、そのことを根に持っていたのね」
僕の言葉に彼女の表情が狂気に塗れた。
「きっといつかそれを言い返してやろうと、心に秘めていたんでしょうね? 嫌ね、執念深く粘着質な男って。晦日君って、好きな女の子には嫉妬深くなりすぎちゃって、夜も眠れなくなるタイプでしょう? それでいて自分のものになったら一方的に気持を押し付けて、束縛して、欲望の捌け口にしちゃう、自己顕示欲の塊みたいな男の子なんでしょうね。ああ、怖い、怖い、それに嘆かわしいわ」
少し彼女の言葉を借りただけでこの仕打ち、僕は深い傷口に塩を塗られているような感覚に悶え苦しんでいた。もうこうなってしまったら、彼女には好きなだけ言いたいことを言わせるしかないことを、僕は彼女との短い関わりの中で、すでに経験則として学んでいた。
僕が言い訳を並べたり、大声を上げて否定すればするほど、彼女の悪魔的とも言えるサディストの性が膨れ上がり、それは彼女の瞳の奥に滾る炎の如く燃え上がり、嗜虐の限りをつくさんと徹底的に僕を打ちのめすのだ。僕は四つんばいになって、尻に鞭を打ちつけられている奴隷の気持ちを味合され、溢れ出す自殺願望を押さえ込みながら、早く先ほどの女性が戻ってこないかと心から願っていた。
しかし女性は戻ってはこなかった。
「君たちが、私の偉大なる研究を見学したいと言う、前途ある若者達かね」
変わりに奥の廊下から歩いてきた白衣を纏った男は、押し付けがましく、誇らしげに手を広げて言った。放って置いたらそのうちハラショーとか言い出しそうな、胡散臭そうな男だった。
男は薄く後退した、油っぽい灰色の髪をポマードか何かで後ろに撫でつけ、顔中に切り刻まれたような深い皺があり、目は大きく見開かれ、眼窩は剥き出しになり、瞳孔は開ききっていた。しわがれた猿みたいな体躯の上に、大きすぎる白衣をマントのように纏って翻し、これからまさに素晴らしいことが起こると言わんばかりに、座っている僕達二人を見下ろしていた。
猫の鳴き声が聞こえた気がした。
「はい、ぜひ先生の研究を見せて頂きたいと思って来ました」
後ろで臭いものでも見るように、訝しげで胡散臭そうな視線を送っている彼女を僕の体で隠しながら、僕は立ち上がり頭を下げた。
「この医療機関の所長を勤めている御手洗御霊だ」
差し出された爪の長い手を取り、僕は握手を交わし自己紹介をした。紙をくしゃくしゃに丸めたような手は小刻みに震えていた。まるで薬物でもやっているように。
後ろの彼女は僕の付き添いということにした。
立ち上がった彼女は余所余所しく頭を下げると僕の後ろに隠れ、学ランの肘の辺りを強く握った。極度の対人恐怖症であり、コミュニケーション障害の域に達していると言うだけあって、他人を前にした時の彼女は、今までの傍若無人さが塩をかけられたナメクジのように溶けてなくなり、しおらしさと弱弱しさが前面に押し出されていた。
「女性には少し退屈な所だろう」
所長の御手洗御霊は傲慢な笑みを浮かべながら僕達を、廊下の奥に案内した。
「先生の研究が乗っていた新聞記事を読んだんですけど、テロメアの短くなった患者を、ⅰPS細胞を作って移植することで、患者の体内でもテロメアーゼを作り出せるようになり、テロメアが短くなることを防ぎ、更にはテロメアを伸ばすことも可能と書いてありましたが、本当ですか?」
「その通り」
歩きながら咳払いをした所長は、興奮を抑えながら言葉を続ける。
「テロメアが生まれつき短い患者は、テロメアを作り出すテロメアーゼと言う物質が著しく少ない。それを患者から採取した皮膚細胞にテロメアーゼを作り出せるように改良した遺伝子を組み合わせて移植することによって、患者の体内でもテロメアーゼを作り出すことができるようにしたと言うわけだよ。さぁここが私の研究室だ」
廊下は半分過ぎた辺りで十字に別れていて、僕達はそこを右に曲がり、突き当たりのドアを開けると、ガラス張りの研究室が目の前に広がった。研究室の中には、見たこともない機械、器材がいたるところに設置され、医療の研究と言うよりは、海外ドラマの『CSIシリーズ』なんかでお馴染みの科学捜査を行う研究室に見えた。
「中に入れてあげることはできないが、ここから覗いて見るといい。分からないことがあったら何でも聞きなさい」
「あの、ここではDNAの解析なんかもできるんですか?」
またしても背中を指でせっつかれた僕は、適当な質問をぶつけさせられる羽目となった。
「もちろんだとも、解析どころか、改造も、改変も、改竄だってできてしまうよ。そうしなければ患者のテロメアを調べ、治療することなんてできんしね。君の弟も老化が早い病気にかかっていると言ったね?」
「はい、そうなんです」
僕は悲しそうに肩を落とす演技をした。そして本当に悲しい気持ちになった。
「だが、安心したまえ。私のこの研究が実用的なものになれば、君の弟も必ず助かることになるだろう」
「まだ実用的じゃないのですか?」
「いや、限りなく実用可能なところまで来ているのだが、まだ解析できていないところも多くてね。更に先に進んだ運用のためにはクリアできない問題点も一つあって、それさえクリアできればと言ったところなのだが」
彼は思い悩んだように皺を寄せて唸った。
「あの、この技術が発展すれば不老不死も夢じゃないって言うのは本当なんですか?」
「もちろんだとも、究極の成功はそこにある。細胞の分裂の回数が決まっているテロメアのリミッターを外し、細胞分裂の回数を無限大にすることによって、肉体の老化は完全に防ぐことができる。つまり細胞が死なずに分裂を繰りかし続ける。アルキメデスが捜し求めた永久機関を、我々の人体の中に作り出すことができるのだよ」
神の偉業を語るが如く、男の言葉は天に昇っていく。僕はうんざりさせられながら、その話の最中に次の質問を一生懸命考えていた。
「それを応用することによって、傷を一瞬で再生できたりはしないんですか、つまり不死身の肉体を作ったりとか、ドラキュラみたいな」
少し冗談めかせて言ってみた。こんなオカルトじみた話を真面目にしたら、僕の人格を疑われかねない、しかしそんな僕の考えとは裏腹に、所長の御手洗御霊は「素晴らしい」と、声を上げて天に向かって両手を広げた。
全く何が素晴らしいのか理解不能だった。
僕はテロメアだってさっき知ったばかりだし、ⅰPS細胞に関しては、未だに何の細胞だが分かったもんじゃない。SPI試験と同じですと言われたって、僕はそうなんですかと納得しただろう。
「君はずいぶん先見の明があるな。確かに改良を加えたⅰPS細胞を人体に直接投与することによって、傷の再生速度を著しく上げると言う成果は出ているし、なくなった四肢の再生すら行えることは既に証明されている」
「生まれつきそういう体質の人はいないんですか? たとえばバクテリアのようにDNAが円環になっていたりとか?」
「何?」
そこで所長は目を今以上に飛び出させた。もう既に眼球の半分以上が空気に触れていた。そのままポロリと目玉が地面に転がりそうだった。
どんなに好意的に見ても、偉大なる研究者というよりは、漫画なんかに出てくるマッドサイエンティストの域に達しているように思えた。それかただの薬物中毒者だ。
「君は」
所長は眼光を鋭くして僕を睨みつる。
何かまずいことを言ったのかと思い、もしかしたら僕達を怪しんだかと心配した。
「君は本当に素晴らしい発想の持ち主だ。いい科学者になりそうだよ」
所長は笑顔を僕の肩を叩きながら言った。
安堵の溜息を漏らした。
「しかし、さすがの私も、人間のDNAが円環になっているなどと考えたことはなかったな。いや、これが人工的にできるなら、それは大発見だぞ」
上機嫌でぶつぶつ言いながら、その後も所長は長々と自分の研究について説明を続けた。
その後、僕らは更に施設内を案内して貰う羽目になった。御手洗御霊は常に上機嫌で、自分の話をしたくて仕方がないと言った様子で話を続けていた。
研究者と言うものは、皆こうなのだろうか?
まるで新興宗教を広める教祖と変わりがなかった。
所長に案内されるままに、患者のいない空の病室、手術室、緊急治療室、レントゲン室などをぐるりと回り、今はブリーフィングルームに腰を落ち着けていた。
施設の中を回っている間、所長の自慢話的に脚色された偉業の数々を聞かされ続け、僕の脳みそは今ではテロメア一色に染められ、洗脳完了の一歩手前まで言っていった。もう少し聞かされればアレルギー反応を起こしてしまうんじゃないかと危惧しながら、僕自身のテロメアが短くなっているような気さえしていた。
ブリーフィングルームの中でも、所長の話は相も変わらず続き、その言葉は決壊したダムの如く、油を注いだ火の如く、留まるとこを知らなかった。今ではテロメアや不老不死とは関係のない、いかに自分が優れているかの説明に躍起になっていた。
どうやら彼はこの学園の卒業生で、若くて才能に溢れた研究者であったが、自分が主流派の研究をせずに、オカルトじみた研究を続けたことによって研究室を追い出されたことを深く根に持っていた。そしてそこからの苦難の道のりや、失敗の連続、今回の研究の成功をドラマチックに叙述詩的に語る様は、今まで相手にされてこなかった鬱憤、恨み、つらみ、ねたみ、そねみ、およそ考え付くこの世の怨念や怨嗟を全て僕達にぶつけているようで、聞いていて僕は心から自殺したくなった。
それに彼の神経質そうに何度も体をかきむしり、目をむき出す様は、見ている僕を不快な気持ちにさせた。
「奴らは私の素晴らしさを全く分かっていないんだ、何故、気がつかない? 下らない常識にとらわれているからだ、奴らはきっと後悔することになる、私を研究室から追い出し、医学から締め出したことを、私の今度の研究が完成すれば」
凄まじい形相でそこまで語ると、突如、所長は大きく咳き込み、顔面は血が上ったように真っ赤になった。苦しそうに呼吸を荒げ、床に膝を着いた。
「大丈夫ですか?」
僕が駆け寄って手を差し伸べようとすると、彼は勢い良く手を払い、飛び出した眼球で僕を睨みつけたが、既に焦点が合っていなかった。そしてその目は僕でなく巡樞を見ているような気がした。
「大丈夫だ、持病の発作だ」
よろよろと立ち上がり、壁に手をついて部屋を出て行こうとする。
僕は唖然として動けなくなってしまい、彼女にどうしようと視線を向けた。すると、先ほどまで退屈そうにそっぽを向いていた巡樞が、今では息を吹き返したように真剣で興味深そうに所長の姿を見つめていた。
「すまない、今日のところは帰ってくれないか。私も疲れてしまったようだ」
途絶え途絶えに言うと、所長はブリーフィングルームを飛び出して行ってしまった。
その時、僕は自分の目を疑うような光景に出くわした。所長の体が、白衣越しに盛り上がり、膨らんでいるようにみえた。ぼこぼこと沸騰したように、皮膚が盛り上がっては収まり、また盛り上がる、そんな光景だった。もちろん見間違えであるだろうが、所長のあの感じだと恐らくただ事ではないだろう。
「張り切りすぎたのかな? 悪いことしたな」
何事もなかったかのように僕は振り返って言った。しかし彼女は僕の言葉に反応せずに、黙ったまま何かを考え続けていた。そして考えが纏まったのか、一度大きく頷くと僕のほうを向いて口を開いた。
「行くわよ」
「行くってどこへ?」
「いいから付いてきなさい」
先ほどのまでのしおらしさはどこへやら、元の傲岸不遜、大胆不敵、天下無双のアイデンティティを取り戻した巡樞は、ブリーフィングルームを抜けて廊下を進みだした。
「ちょっとまずくないか? 勝手にうろちょろしてばれたりしたら」
「あの様子じゃ、当分戻ってこないわよ」
「だからって、どこ行くんだよ?」
「気がつかなかった? あの気持ち悪い男、施設全体を案内しているように見せかけて、絶対に近寄らなかった場所が一箇所あるのよ」
彼女は歩幅を早めてどんどんと先を急ぐ。
しおらしく、そして大人しくしていたのかと思ったら、そんなところまで観察していたなんて、僕は全然気がつかなかったし、そんなこと微塵にも感じなかったのに。
恐るべき女だ。
それにしても、やはり些かまずくないだろうか?
勝手に歩き回ってもし見つかったりでもしたら、それに彼女は一体何を気になっているのか?
しかし、ここは彼女に従うしかなかった。どの道、僕には彼女に対してのイニシアチブを、これっぽっちも、小指の先、露ほども持ち合わせていないのだから。
「ここよ」
それは中央の廊下を一番突き当りまで進んだ所に待ち構えていた。
分厚そうな鉄の扉だった。
「施設を右周りにぐるっと回ったけど、この中央の廊下の奥には一度も近づかなかったし、会話にも出さなかった。つまり、この医療機関にとって一番大事な研究か、世間に公表できないような血なまぐさいことが、この扉の奥には存在しているのよ」
事を大げさに考えすぎじゃないだろうか?
僕にはただの倉庫の扉にしか見えないが。
いや、そうであって欲しいのだが。
重たい鉄のレバーを下げて分厚い扉を開くと、地下へ続く階段が現れた。淡い青色のライトに照らされた階段は、まるで怪談話に出てくる黄泉の入り口であるかのように、白い靄を漂わせながら、迷い込んだ僕達を飲み込もうと、手薬煉を引いているように見えた。
またしても猫の鳴き声が聞こえた。
その悲痛な泣き声は、この先に入ることを止めようと必死に泣き叫んでいるようだった。
「本当に降りるのか?」
「当たり前でしょ。もしかして怖いのかしら?」
「そうじゃないけど」
強がってみた。
「だったら行くわよ」
ですよね。
彼女は階段を降り始めた。
地下へ進むたびに気温が著しく下がり、冷凍庫の中に閉じ込められているような温度になった。
歯が浮き、手が震える。
「巡さん、寒くないの?」
この異常な寒さに対しても、全く動じる気配もなく進み続けていた。
「私、寒さとか暑さに鈍感なのよ」
「だから、真冬なのにそんな薄着なわけだ」
やれやれ、不死身な上に寒さや暑さまで感じないなんて、完全無欠と言う言葉は、彼女にこそ相応しいと本気で考え始めていた。もちろん人間性や性格的には、欠陥と問題しか思い浮かばないが。
三十段ほどの階段を下り終えると、地下の研究室が現れた。
天井から床までぶら下がっているビニールの幕が何重にも重なっている。外気を遮断するために取り付けられた、SF映画なので目にする透明なビニールのカーテンを掻き分けて中に進入すると、青白い光に照らされた研究室は一層恐ろしく見えた。
広さは上の研究室の半分ほどしかないが、置いている器材は先ほど公開された研究室のものよりも禍々しく、痛々しい拷問器具のようにも見えた。二つ並んだ鉄のベッドには、分厚いゴムの拘束具や金属の鎖、手錠などが取り付けられ、その隣のキャスターには、メスなどの見慣れた医療器具のほかに、ドリルや電動のこぎりのようなものまで揃っていた。
ベッドの反対側には沢山の機械が音を立てながら動いており、招かれざる客が来たことに不満を漏らしているみたいに聞こえた。ぶくぶくと泡を立てる透明な容器に、何かを記録しているようにグラフを書き続けている機械、試験管が何十本と並べられ、その中には例外なく血液か体液の類が入っていた。
彼女それらをゆっくりと視察し、観察し、考察し、省察した後、機械とベッドの間に置かれた銀色の上下二段の冷蔵庫のような箱に近づいて行った。
そして冷蔵庫の隣には、更に奥へ進める間仕切り状になったスイングドアがある。
僕はどうか彼女が奥へ進む扉に手をかけないでくれと願い、足音を殺しながら彼女の後を追った。
彼女はまず銀色の冷蔵庫の上段を空けた。中は冷凍庫になっているらしく、蓋のついた試験管がずらりと並んでいた。中には濃く青い液体が詰まっている。下の冷蔵庫も同じようなものだった。彼女が冷蔵庫を閉めると、急に億の扉から激しい物音が聞こえた。ガラスが割れる音、大きなものが倒れる音が聞こえた後、激しい呻き声のようなくぐもった音が響き、空間を震わせた。
この世の者とは思えない、低く張り裂けんばかりの音に僕の足は竦み、体中が震えたが、しかし彼女には一切動じた様子はなく、案の定奥へ進む扉に手をかけようと手を伸ばした。
おいおい、これは僕の短い人生の経験則からすると、絶対に明けてはいけない種類の扉だ。
僕の中に潜む虫や、第六感が持てる最大限の警告を与えている。
エマージェンシー。
これを開けたが最後、僕たちは抗えない何かに飲み込まれて、二度と元の世界には戻って来れない。
そんなことが脳裏に過ぎり、彼女を制止しようとしたが、情けないことに僕の体は一ミリたりとも動かず、寒さと恐怖でがくがくと浮いた歯は、言葉を絞り出すことすらできなかった。
彼女の手がスイングドアに触れる。
「おやおや、君達、そこで何をしているのかな?」
背後から声が響き、僕は飛び跳ねんばかりにびくりと震えた。
振り返ると僕と同じ学ランを来た制服姿の少年が立っていた。
それは異様で異常な異形の少年だった。
色が完全に抜け落ちた白髪を肩の辺りまで伸ばし、長い前髪はビー玉のように空っぽの瞳の上で揺れている。鼻は高く、唇は薄くて紫色をしている。青白いライトに照らされているせいもあるが、顔色は大分悪い。身長は低くないが、華奢な体つきで重病の患者のように見えた。立っている事すら奇跡のように。そんな彼が放っている異様で異常な雰囲気は、この世の理を超越した、超常者の域に達しているような気さえした。ここにいるようで、ここにいない、そんな影か霞のような男でありながら、僕に与える重圧と言うか無言のプレッシャーは、押しつぶさんばかりに僕を覆っていた。
「聞こえているかな?」
冷たいタイプライターで打ったような声は、僕達の心の中に直接入り込んで来るみたいに響いた。
「君達、この学校の生徒だね? 一体どうして迷いこんだのか、君はずいぶんと面白い格好をしている」
僕の袴を穿いた書生スタイルを見つめて彼は言った。
「奥のお嬢さんは、随分美人だ」
彼は感心したように言ったが、それが演技であり、全く心が篭っていないことは明らかだった。目の前の少年には、およそ感情と言うものが無く、心と言うものが欠落しているように見えた。
まるで人形だ。
「僕達、ここの所長の御手洗御霊さんに施設を案内してもらっていて、その途中に所長さんが具合悪くなったようなので、今日は帰るように言われたんですが、随分苦しそうにしていたので心配になって施設の中を探していたんです。それにお礼も言いたかったので」
適当な言い訳を並べ立て、それを聞いた少年は、「ふーん、そうか、そんなことが」と頷いたが、納得していないことなど一目瞭然だった。
「あなたは?」
僕はひび割れた大地のように深い間を埋めようと尋ねてみた。
彼は無言、無表情、無関心に僕ら二人を見つめ、見据え、見透かし、見通し、見定めて僕らを観察していた。心の中まで覗き込まれているような心地悪さに、思わず吐き気が催してきた。
視線だけで人を不愉快にさせる男だった。
「僕かい? 僕は、畳間木乃伊。この医療機関で研究に協力している患者だよ。この学校の生徒でもある。君達こそ名前は?」
「晦日裏兎です」
僕は名前を名乗った。
「巡樞よ」
彼女は珍しく自分から名乗り、一歩前に足を踏み出して行った。
「晦日裏兎君に巡樞さんか、面白い二人組みだな、全く一体、全体、どうして」
二人は暫く向かい合って視線をぶつけていた。
その視線の交錯は、まるで龍と虎が睨み合っているかのように、自分の優位さや優劣差を競い合っているように見えた。流水の如く静かで冷たい、それでいて雄雄しき視線の交錯だった。
「今日のところは帰るといいよ。所長には僕のほうから伝えておこう」
視線のやり取りを追え、何か秘密のメッセージを受け取ったように納得した表情で頷いた彼は、階段に手を向けてそう言った。
「一つ聞いてもいいかしら?」
彼女は挑むような口調で尋ねる。
「僕に答えられることなら、答えよう」
彼も受けて立とうという態度を取った。
「あの奥には何があるの?」
彼女は後一歩で入ることが適わなかった奥の部屋を指した。
先ほど響いた音はとっくに聞こえなくなっており、今は凍りついた静寂に機械の不満を漏らすような音だけが空間を揺らしていた。
くふふふふ。
彼の背筋も凍るような笑い声が頭の中を木霊した。
「申し訳ないけど、それは守秘義務でね。それに君達が知っていいような、立ち入っていいようなことではないんだよ」
二の句を告げさせないように言葉を続けた。
「さぁ、お帰りなさい。もう随分と夜も深い、夜道には気をつけるといいよ」
不吉な彼の言葉が呪いのように響き渡った。