參
謹賀新年。
それから三日間、僕は沸きあがる自殺願望を押さえ込んで、ただただコタツの中で丸くなった猫のように平穏に過ごしていた。
何故か読書にも集中できず、新年の特別番組を見る気のもなれず、ただただ去年の暮れに国許から送られてきた蜜柑を、ひたすらに食べ続けた。
世間様と言う、僕には全く関わり合いのない大衆たちは、新たなる年を微笑ましく迎え入れて、年賀状やお年玉と呼ばれる羨ましすぎる謎の風習を配ったり、配られたり、お雑煮の中の浮かぶ餅を喉に流したり、詰まらせたりしているのだろうが、僕はただひたすらに蜜柑を食べ続けていた。
僕の体臭が心なしか柑橘系に感じられるほどに。
そして、それだけが僕のすべき事のように。
初めの二日間ぐらいは、誰かからメールや電話が来ないものかと携帯電話を仕切りに眺め、電波の向こうに念を送り続けていたが、それは深い眠りについたように、またはそれ自体が棺桶になってしまったかのように、完全に沈黙を貫いていた。
結局、恒例の、“明けましておめでとう。今年もよろしくメール”ですら、僕の元には届かなかった。だから三日目には、携帯電話を充電しておくことさえ止めてしまった。
僕に関わりの合いの全くない世間様、しかし、この辺りの世間では、新年早々に連続殺人事件なんかが起こったりして、折角のハッピーニューイヤーな気持ちにジャブジャブと水を差しまくっていた。
しかし僕にはやはり全く関わり合いのないことで、僕は新学期が始まるまでの短い休みを、特に外出する予定もなく、初詣などもちろん行かずに、年賀状を書くこともなく、羽子板、凧揚げなどもせずに部屋に篭もりじっとして、垂れ流されるモラトリアムの一部と蜜柑の皮と共に無為に消失していた。
年頃の男の子の日課とも言えるオナニーですら、する気にはならなかった。
大晦日の日から全てのやる気が消失してしまっていた。
空気の抜けた風船のように、人間の抜け殻だけが怠惰を抱えて緩やかに死に近づいていた。
いや、近づいていればいいのだけれど。
そうして三箇日が過ぎた。
一月四日。
郵便ポストには、新年初めてとなる郵便物、もとい葉書が一通届いていた。
そこには定規で線を引いたような神経質すぎる、およそ女性の字とは思えない可愛くない字で、こう書かれていた。
晦日君、一月四日の昼の十二時に学園の図書館で待っているわ。遅刻厳禁。 巡樞。
僕は大きすぎる荷物を抱え込んだ人がするような、深すぎる溜息をついた。
時計に視線を送ると、既に十時を過ぎていた。
僕は慌ててシャワーを浴び、浴び終わると濡れた髪のまま、小さな鏡の前で髪の毛を整えた。髪の毛をセットするべきか、このままで行くべきか、正直なところかなり悩んだ。
整髪剤なんかをつけて行って彼女に、「何気合入れているのかしら、デートのつもり、おこがましいにも程があるわね、気持ち悪い」何て言われたたらもちろん僕は傷つくだろうし、大分恥じもかくだろう。それでも女性に呼ばれて髪型も整えないのは失礼なんじゃないか、その狭間で揺れていた。
それはもう振り子のように。
びゅんびゅんと。
女性経験のない男性は、こういう時どうしたらいいのか本当に分からないのだ。
結局髪の毛はそのままで行くことにした。
制服、及び書生スタイルに着替えて、通っている高等学校に向かった。
一人孤独の充満した電車で揺られながら、「やれやれ、何が悲しくて休みの日に高校に出向かねば行けないのか」そんなことを考えていた。しかし、手紙でああ書かれた以上、こちらには断る術がない、というか断るツールがない。もし、僕が実家に帰っていたり、旅行に出かかけていたり、寝過ごしてあの手紙を見なかったら、どうするつもりなのだろうか?
まぁ、どうせ彼女にはやることがないのだろう。
何て言ったって、終業式の日から大晦日の日まで、毎日僕が来るのを一人で見張っていたぐらいの女だ。それぐらいは朝飯前なのであろう。
「だって、やることないもの。家に帰っても誰もいないし、友達も一人もいないし、それに今までだって、ずっと一人ぼっちだったんだから。私本当にやることなんて何もないのよ」
僕は彼女の言葉を思い返していた。
そこに重大な秘密が隠されているように、難解な暗号を読み解くように、僕は彼女の言葉の真意を考えていた。
一体、彼女は何者なのだろうか?
学校に辿り着くと、僕は重苦しく鎌首をもたげた校門を潜り抜け、校舎とは別館の図書館へ向かった。
我が校の図書館は、少しばかり有名な図書館であり、文化的に価値のある貴重な図書の揃った、文化財団が運営する図書館だった。
とにかくこの学園と同じで馬鹿広く、揃っている本の冊数が半端ではない。少し規模を小さくした国立国会図書館のようなものだと、入学したときのオリエンテーションで先生が自慢気に語っていた。一般の人にも閲覧が許可されており、学校の審査が通れば貸し出しも行っている。多くの文化研究者や作家、芸術家があしげなく通っている図書館であり、古くは夏目漱石、福沢諭吉などが愛用し、太宰治や芥川龍之介も通っていたと実しやかに言われている。
外観はアメリカの古いレンガ造りの建物をそのまま再現したようで、映画『ティファニーで朝食を』で、オードリー・ヘップバーンとジョージ・ペハードが行く、ニューヨークの市立図書館に似ていた。
ライオンとユニコーンの像が向かい合って建った、かび臭そうな建物の入り口は、意外にも最新の自動ドアで驚くが、入り口を潜り、空港の入場ゲートのような通行口で学生証を翳してゲートを抜けて中に入ってみると、外観以上に驚くことになる。
まず建物のエントランスの天井が高く、円蓋の天使のステンドグラスの嵌められた天井まで一気に吹き抜けている。窓から入る光も上手い具合に調節され、明るすぎず、暗すぎない、絶妙な光加減に調節されている。全五階、地下まで含めれば六フロアに分かれた館内は広く、床は綺麗な緑色の大理石があしらわれ、館内全てが一定の温度と湿度に管理されている。インフォメーションの前には、ずらりと検索用のコンピューターが並び、探している本を一発検索することができ、広く居心地の良い閲覧所のテーブルには、全て読書灯が設置されている。多目的室の貸し出しも行っていますと、案内も張り出され、無線ランも開放されており、館内では自由にインターネットが出来る外、パソコンやブランケットの貸し出しも行っている。まさに至れり尽せりの図書館だった。
館内は静かで、ページのこすれる音と鉛筆の引っかく音以外は、静寂が腰を下ろし、天使の微笑を浮かべて見守っているようだった。
僕は館内をキョロキョロと見回す。
どうやら巡樞はまだ来ていないようだった。
それにしてもこうまで広いんじゃ、うろちょろしていたら彼女とは会えそうもないな。
携帯電話をマナーモードにするついでに時間を確認すると、十二時を少し回ったところだった。
僕は検索用のコンピューターで手ごろな本を探し、入り口から一番近い閲覧席に腰を下ろした。本を読みながら、彼女を待つことにした。暫く無言でページを捲っていると、「珍しいね、晦日君が図書館に来るなんて」と背中から声をかけられた。
振り返るとよく見知った女性が、大量の本を顔の高さまで抱え込んで、バランスを取る様にふらふらしている。
「明けましておめでとう、今年もよろしくね」
抱えていた本を僕の閲覧席の上に勢い良く置くと、彼女は新年の挨拶を口にした。
目尻の下がった穏やかな目。深く透き通った藍色の瞳。淡い桃色の頬にはうっすらそばかすが浮かび、小さな口元は綻び、唇の下には句読点を打ったような黒子が一つ。新年の書初めのような、濃く黒い流麗な髪の毛は顎の先で切り揃えられ、小さな頭の上には紺碧の蝶々の髪飾りが留まっていた。雰囲気は日本人形のような、おっとりと、そしてふんわりと、そして和やかだった。ブレザーの中には上品な緑色のカーディガンを着込み、スカートの裾は長く膝下まであり、白いソックスが黒のローファーからはみ出していた。
「ああ、明けましておめでとう、こちらこそよろしく。物語さんこそ、新年早々図書委員の仕事?」
「うん。晦日君は何か調べ物?」
「まぁ、そんなところかな。家にいても暇だから図書館でもって」
僕は巡樞のことは黙っておいた。
何となくその方が良い様な気がした。
彼女は僕の呼んでいる本を覗き込みながら、「ほっほぉー」と唸り声を上げた。
物語繭。
僕と同じクラスの女子生徒。
図書委員。
本の虫、もとい本の蛹。
僕が言葉を交わす数少ない女性の友人の一人。
もちろんその中に巡樞は入っていない。
彼女を除いてだ。
物語繭は大変真面目で成績の良い優良な生徒だが、かなりと言うか大分変わり者でもある。
その実態は、登下校、授業中、休み時間、昼休み、おそらく風呂、トイレ、思いつく全ての時間にTPОを弁えず、常に本を読み続け、読み耽り、読み漁っている読書中毒者だ。そのためクラスの中でも特異で異様な存在として位置づけられ、同級生からは本の虫を飛び越え、本の蛹のあだ名で呼ばれている。いつか蝶になって飛び立って行くのではないかと。しかし名前が繭で渾名が蛹と言うのも、なかなか稀有な話だ。そこから産まれ出るものは何なのか、本当に蝶になって飛び立つのか、それともまさか鬼が出るのか、蛇が出るのか、そんなことをふと考えたぐらいだった。
そんな彼女が図書委員に立候補するのは、もはや至極当然で必然なことであり、彼女はそのためだけに、
この学校に入学したのではないかと僕は考えていた。
僕と言葉を交わすようになったのは、入学式の際、僕がクラスの雰囲気に馴染めずに、一人俯いて小説を読んでいたところ、隣の席の彼女が覗き込んで来て、今と同じように「ほっほぉー」と唸り声を上げ事から、ささやかな交友が始まり、それ以来ちょくちょく会話を交わす仲へと進展していた。
ほとんど本の内容の話だけど。
「今日は太宰治全集ね。相変わらずいい趣味してる」
彼女は嬉しそうに満面の笑顔を浮かべた。
そう言えば、出会った時は夏目漱石を読んでいたような気がする。
古典が彼女の好みなのだろうか?
いや、この間はバリバリのボーイズラブ系の小説を、臆面もなく、恥ずかしげもなく、そして奥ゆかしく教室で読んでいたな。
そこには突っ込まないようにしておこう、
「じゃ、読書の邪魔をしちゃ悪いから」
彼女にとっては読書こそが行動の最優先事項になっているのだろう。この世の何よりも読書の時間を大切にいている、そんな気配りから出たような言葉だった。彼女はもう一度本を抱えて、その本でバランスを取る様にフラフラしながら「それじゃあ」と言い、「ああ」と思い出したように付け加えた。
「そういえば、太宰治が寄贈した文章が図書館の重要文化図書の館に保管されているから、見たくなったら言ってね。他にも、歴史的に貴重な本や資料がたくさん揃っているから、気になったら何でも尋ねてね」
「ありがとう。気が向いたら見てみるよ」
言いたいことを言ってしまうと、彼女は紙とインクの匂いが立ち込める、本棚の森の中へと進んでいった。
一体、この図書館を運営している文化財団というのはどんな組織なのだろうか?
僕は重要文化図書よりも、そちらのほうが気になっていた。
僕は再び読書に戻り、本に夢中になっていた。
全十巻の太宰治全集のうち三巻目を読破した頃、目と肩に疲れを感じて携帯電話で時間を調べると、時刻は既に三時を過ぎていた。
やれやれ、きっと巡樞みたいな女の子は、約束の時間をすっぽかしても罪悪感なんてこれっぽっちも感じないんだろうな。
僕は悲しみの篭った溜息を吐き出しながら、初めて女性に誘われた経験が、恐らくほろ苦いものになるであろう事を実感し始めていた。
辺りを見回した。
僕がこの図書館に入ってから誰一人後から入った人間はいない。と言うよりも今この瞬間も閲覧席には僕を含めて数人しか利用していない。インフォメーションに視線を向けると、相変わらず物語繭が本を読み続け、読み耽り、読み漁っていた。
僕は本を返しに立ち上がった。エントランスから二階へと続く階段を登り、本棚の森の中に入っていく。本を元にあった場所に返し、四巻目を読もうか思案した。
「そんなかび臭そうな本を、辛気臭そうな顔で一生懸命に読んだりして――――そんなに面白いのかしら?」
背中に声が張り付いた。
僕はびくりと体を震わせて、悲鳴を押し殺した。
振り返ると巡樞が大晦日の夜と同様、腕を組んで足を開いた、堂々たる格好で僕を見下ろしていた。
いや、見下していた。
「普通に登場できないのかよ」
僕は抗議するように言った。
「普通ってどう言うことかしら? 私そういうのに興味ないの」
「と言うか、遅刻しておいて謝罪の一つもなしかよ。こっちはもう三時間以上待っているんだぞ」
「遅刻なんてしていないわよ」
彼女は悪びれる様子もなく言った。
「したじゃないか。もう三時半になる。待ち合わせは十二時だろ? 手紙には遅刻厳禁なんて書いたくせに」
僕が苛立ったように言うと、彼女は心外だと言わんばかりに、表情に演技めいた悲しみの色を浮かべた。
「遅刻したのはあなたでしょう? あなたがこの図書館に来たのは十二時十六分、私はその一時間前からこの図書館に来ているし、あなたが来た後も、そしてあなたが本を読み始めてからも、ずっとそこの影からあなたのことを見ていたのよ」
「こえーよ。何で声かけないんだよ。あんたはストーカーか?」
エントランスが見下ろせる二階のテラス席を指して、さも当然のように言う彼女に、僕はここが図書館であり図書館の中はお静かにと言う公然のルールすら忘れて、大声を上げて突っ込んだ。
「こんな麗しい女性をストーカー扱いするなんて、失礼しちゃうわね」
「麗しいって自分で言うな。じゃあ何で声をかけないんだよ? もう三時間近く時間を無駄にしたんだぞ」
「決まっているじゃない。私、対人恐怖症なのよ。もはやコミュニケーション障害と言ってもいいわね。晦日君の席からだと、あの女の子が見えるでしょ? それに他の利用者もいるし、だからあなたが完全に一人きりになるのを伺っていたのよ」
対人恐怖症?
コミュニケーション障害?
僕は訳が分からないと言うように、「はぁ」と間延びした声を上げた。
「僕と普通に話しているじゃないか?」
「晦日君、あなたはこの期に及んで、まだ自分が普通の人間だと思っているのかしら? ねぇ、不死身さん」
「そうか、僕は人間扱いされていないのか」
「そうよ。私は死体と特殊な人間以外、まともに会話できないのよ」
「死体と会話できんのかよ、すげー特殊能力だな」
「ええ、つーかーよ」
つーかーって。
「分かった、それは分かったよ」
僕はもう突っ込む気力も失って、手のひらを上げて降参のポーズを取った。
結局の所、彼女には世間一般で常識と呼ばれているようなことを言ってもどうしようもないのだ。それは暖簾に腕押し、糠に釘、豆腐に鎹なのだ。もっと高尚な言葉で表せば、釈迦に説法と言うことになるだろうか。
過去の賢人は素晴らしい言葉を残してくれている。
―――――常識と言うのは、十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことを言うのだ。
ありがとう。
アインシュタイン。
彼女の前では常識は通用しない。
僕はそのことを肝に銘じておくことにした。
「で、一体何のようで僕を呼び出したんだよ?」
尋ねると彼女は急に表情を強張らせ、瞬間冷凍されたみたいに体が固まった。
「誰?」
視線を鋭くして本棚の影に向かって尋ねる。
「ごめんなさい、立ち聞きするつもりじゃなかったの。つい声が聞こえて」
本棚の影から、またしてもたくさんの本を抱えた物語繭が現れて、申し訳なさそうに言った。巡樞はそれを聞いても何も答えずに、鋭い視線のまま彼女を見つめていた。
燃えるように赤い瞳が、青い穏やかな瞳と交錯した。
「ああ、彼女は物語繭さん。僕のクラスメイトで、図書委員なんだ」
僕は慌てて物語繭を指して言い、今度は巡樞を指した。
「知ってるよ。うちのクラスの巡樞さん、だよね?」
「えっ、物語さん知ってんの?」
「うん、会うのは初めてだけど、名前だけは。えーと、初めまして巡さん、物語繭です。よろしくね」
彼女はどこか挑戦するような口調で自己紹介した。
無言の沈黙が流れ、二人は見つめあったまま微動だにしなかった。
なんか怖いな。
ここは僕が何か言うべきなのか?
挑むような沈黙が続く。
「それじゃあ、邪魔しちゃあれだから、あとはお若いお二人で。私は行くね」
物語繭はつまらないギャグを挟んでそう言い、「ああ」と付け加えるように続けた。
「何か分からないことがあったら何でも聞いてね、きっとお役に立てると思うよ」
どこか意味深にそう言うと、物語繭はまたフラフラとしながら本の森の奥へ消えていった。
「晦日君、気をつけなさい。あの子、普通じゃないわよ」
彼女は警告するように言った。
いや、あんたよりもおかしな女はそうはいないぞ。
僕は心の中で言った。
彼女は物語繭が消えていった方向を暫く見つめていた。