貮
「去年も死ねなかった」
学校からの帰り道。
街灯に照らされたコンクリートの街路樹の脇を、先ほど出会った謎の不死身少女、巡樞と一緒に並んで歩きながら、独り言のように呟いた。
彼女は僕よりも高い位置にある顎をつんと上げながら、僕を見つめた。
いや見下した。
「そんなに死にたかったの?」
「ああ、恥の多い人生を歩んできたからね」
僕は言ってから後悔した。
案の定、彼女はまたしても僕を軽蔑するように見つめていた。
いや、むしろその瞳は憐れんでいると言ってもいいのではないだろうか?
どっちにしても僕はまた傷つくことになった。
「それ、あなたのキャッチコピーか何か? それとも決め台詞かしら? 私そういうのって凄いがっかりしちゃうの。だってとても下らない広告を見ているみたいなんだもの。そんな文句じゃ誰も買わないわよって大量生産大量消費時代の広告、世の中にはいっぱいあるでしょ?」
「僕はそんなキャッチコピーを自分にはつけていないし、そんな広告にも踊らされてもいない」
「本当かしら? この人間さえもが消費される世の中で、あなたのような人が消費されずに残っているというのなら、それは消費者があなたを敬遠していることに他ならないわね。そうだ、こうなったら、大特価で売り出しなさいよ。晦日裏兎、五十円。そんな値札をつけておくの。いい考えじゃないかしら?」
真顔で、そして楽しそうにとんでもない事を喋り続ける女の子を隣にして、僕はもはや何も言葉を返さずに、肩を落として歩みを続けた。その距離はとても果てしなく感じた。
そして心の中ってずっと一つのことを考えていた。
僕って五十円の価値しかないのか?
世の中の大抵のものは僕よりも価値があり、僕と同等と呼べるものは駄菓子屋ぐらいにしか置いていない。現代における駄菓子屋と言うのは本当に希少価値が高いものだが、まず都内では見つからない幻のレアスポットだ。そのレアスポットの駄菓子屋に僕が五十円で売られ、更に売れ残っているとこを想像して、僕は本当に心の底から惨め過ぎる気持ちになった。
それだけ。
無言で街灯に照らされながら、駅までの道のりのとぼとぼ歩いて行く。彼女は背筋をピンと伸ばし、僕との身長差や、自分のスタイルの良さを見せ付けるように、やはり威風堂々と歩いていた。
彼女の背後からは威風堂々のメロディが流れているような気さえした。
やれやれ、色々な意味で嫌味な女だ。
「そう言えば、巡さんはどうしてあの桜の樹の下にいたの?」
女性と歩いていてずっと無言なのも失礼かと思い、尋ねてみた。
「そんなの決まっているじゃない。あなたが死ぬ所を見に行ったんでしょ」
「え?」
僕は訳が分からないと、戸惑いの表情を浮かべた。
「終業式の日、たまたまあの裏庭を見つけて行ってみたら、あなたがこそこそと桜の樹の下で何かやっているのを見つけたの。あなたがいなくなった後、こっそり桜の木の回りを覗いてみたら、自殺セットが一式用意されているじゃない。私、凄いわくわくしちゃって、それから毎日、あそこで晦日君が死にに来るのを待っていたのよ」
「毎日?」
「ええ、もちろん」
「終業式が終わった後から毎日?」
「ええ、そうよ」
「あんた、どんだけ暇なんだよ」
とんでもないザ・ウォッチャーが現代に存在していた。
「なかなか晦日君が現れないから、待ちくたびれて半分諦めていたのよ」
彼女は不平不満を漏らすように言って続けた。
「それにしても人を暇人扱いして失礼しちゃうわね。私のとても貴重な時間を、あなたのために費やしてあげたって言うのに」
「そりゃ、どーも。それにしても凄い根気と執念だな、あそこに毎日一人でいたら気が滅入りそうだけどな」
「そうかしら? 別になんてことないわよ」
「だって今日、ってかもう昨日か、大晦日だぞ? 普通なら家族揃って年越しでもするだろ、蕎麦でも食いながらさ」
「だって、私、やることないもの。家に帰っても誰もいないし、友達も一人もいないし、それに今までだって、ずっと一人ぼっちだったんだから。私、本当にやることなんて何もないのよ」
彼女はなんてことはないと、当然のように、そこに書かれてあることをただ読み上げるみたいに言った。しかしその言葉は、僕を今までの彼女の数々の言葉の中で一番深く傷つけた。
本当に心臓を抉られたみたいに。
そういう言葉って、女の子から一番聞きたくないし、別に女の子以外からだって聞きたくない。そういう言葉は僕を一番惨めな気持ちにさせるし、全てのことにたいして、本当に謝りたい気持ちにさせる。
そして、無性に死にたくなる。
僕はそんな気持ちを悟られないように、それ以上この会話が広がらないように、「そっか」と呟いて更に下を向いて歩いた。
遠くに見え始めた駅は、無人島のようにぽつんと浮かんでいた。
その光景はまるでこの世の終わりにも、世界の果てにも見えた。
何となく、そこへ行くのを躊躇いたくなるような、そんな光景だった。
改札を潜り抜け、ホームで電車を待った。
「晦日君って、いつも自殺の練習をしているのかしら?」
自殺の練習って、何だか僕が凄く自殺熱心な奴みたいな言い方だな。
確かに予習、復習はしっかりしていた。
僕のアパートの一室には、僕が愛してやまない世界の自殺大全集があるぐらいだ。更にその愛読書は擦り切れ、手垢がびっしりとつくほど読み込まれていた。
「いや、そんなことはないよ。時折無性に死にたくなって、そういう時だけ。でも、成功したためしはないけどね」
「あたり前でしょ。成功していたら、どうやって私達が出会うのよ。そうだ、私いいこと思いついたわ」
抑揚のない調子で言われたその台詞は、全然よさそうな予感がしなかった。と言うよりも彼女が一言喋るたびに、災いが空から降ってくるような気さえした。
まさに災いを齎すラッパの音だった。
「今から来る電車に飛び込んでみたらどうかしら?」
「何でだよ?」
「さすがに四肢を完全に潰されて脳みそまでぶちまけたら、死ねるんじゃないかしら?」
さらりととんでもない事を言い出した。
「遠慮しておく。そんな他人に迷惑をかけてまで、死に恥をさらしたくはないね」
「死んだら恥も何もないでしょう。でも、まぁ当人がそう言うんじゃ仕方ないわね。じゃあ、何か別の上手い方法が、酷い死に方があるといいのだけれど」
彼女の表情は真剣そのもので、更に言葉は続いた。
「首吊り、飛び降り、飛び込み、割腹、焼身、入水、服毒、自害、自決、自尽、自裁、自死、安楽死、縊死、餓死、過労死、自然死、傷害致死、過失致死、衰弱死、ショック死、心中、戦死、尊厳死、転落死、突然死、急死、腹上死、性交死、悶死、轢死、吊死、憤死、獄死、頓死、窮死、牢死、焼死、水死、溺死、滑落死、窒息死、敗死、諌死、殉死、怪死、変死、圧死、老死、磔刑死、夭死、凍死、熱死、忠死、誅殺、客死、切腹、惨死、愧死、慙死、毒死、往生、狂死、情死、拷問死、斬首、出血死、失血死、喀血死、貧血死、横死、孤独死、即死、脳死、墜死、徒死、爆死、獄門、刎死、徒労死、惨死、渇死、恍惚死、野垂れ死に、斃死、薬殺、扼殺、撲殺、戮死、淫死、脱血死、凌遅死、敗血死、相対死、討死、酔生夢死、癌死」
凡そ考え付く死に方を仔細、詳細に渡って呟き始めた。
呪いの呪文ように。
「やめてくれ、もう十分だ」
怖い、怖すぎる。
恐ろしいことこの上ない。
本当にこの女、何者なんだ?
まさか死神?
僕を地獄へと誘うために現れたのか?
「お気に召す死に方がなかったかしら? 私としてはこの世の中のありとあらゆる死に方を述べたつもりだけれど」
「僕の自殺方法を通販のカタログから選ぶみたいに、一生懸命に考えてくれるのは嬉しいけど、もういいよ。気持ちだけ受け取っておく」
「気持ちなんていいのよ。だって私は晦日君の死に顔が見たいんだから」
そんな微笑ましくもない会話を交わしていると、電車がようやくホームに着いた。
黄色い、八両編成の電車だった。
二人で人気のない電車に乗る。
いくら大晦日の日が二十四時間電車の運行をしているとはいえ、こんな時間に、更にこんな東京の端から電車に乗る人間なんてそうはいない。無人の電車の車内は、孤独と静寂が充満して席を埋め尽くしていた。
乗車率二百パーセントは優に超えていた。
電車はゆっくりと暗闇の中を進んでいく。それは大きな何かに飲み込まれていくみたいに、世界の終わりへと突き進むみたいに。新年を迎えたはずなのに、この電車は全く別のところに向かっているみたいだった。前に前に進んでいるはずなのに、それはどこにも行き着かないようにさえ感じられた。
彼女は疲れてしまったのか、シートに腰を降ろして目を瞑ると、それ以降、一切口を利かなくなった。電池が切れたロボットみたいに、姿勢良くシートに座ったまま、ぴくりとも動かなかった。
死んでしまったように静になった彼女を眺めながら、一体、今日一日は何だったんだろうと自問した。しかしその答えは返ってこない。それは帰ってくるような種類の問いではないのだ。何もない空間にボールを投げてるいのと同じように。
彼女は自分が降りる駅のアナウンスが流れると、スイッチが入ったみたいに急に目を開けた。重く、たわわに生え揃った長い睫が、黒い蝶々が羽をはためかせるみたいに瞳を広げ、中から咲いた花のような赤い双眸で僕を見つめた。
その表情はほんの少しだけ柔らかく、優しかった。
そんな気がしただけだ。
「晦日君、今日は何だかんだで楽しかったわ。あなたが死ぬところを見れなかったのは残念だけれど、私こんなに人と会話したのは本当に久しぶりなの。それがいつだったか思い出せないぐらい」
彼女はまた、ただそこに書かれていることを読み上げているような抑揚のない調子で言葉を続けた。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「巡さん、あの、送っていかなく大丈夫? もう大分遅い時間だけど」
立ち上がり、ホームに降りた彼女を引き止めるように声を出した。
何となく、彼女をこのまま一人で帰らせたくなかった。何故か悲しいことが起こりそうで、それが起こらないようにしたかった。
災いを齎すラッパの音が鳴っているような気がした。
「あら、もしかして誘っているのかしら? それとも本当に私の身を案じてくれているのかしら?」
「冗談で言ってるわけじゃない」
「そう。でも、あなたも知っての通り私も死ねないの。だから心配していただかなくても大丈夫よ」
「だけど、女の子だろ」
それでも食い下がった。
すると、彼女はまたくすりと、くしゃみをするみたいに表情を崩して笑った。
「私、そういう言葉って凄い素敵で大好き。でも、本当に大丈夫なの。おやすみなさい」
自動ドアが閉まってしまうと、彼女は駆け足でホームを駆けて行ってしまった。僕は消えて行くその華奢で小さな背中をずっと見守っていた。
彼女の言葉が、ずっと僕の胸の中をくるくる巡っていた。
一体、今日一日はなんだったんだろう?
もちろん答えはない。
それはくるくると巡るだけで、帰ってくる種類の問いではないのだ。